2018年9月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (568) 「隈川・絵内川・東亜川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

隈川(くま──)

ku-ama-nay?
仕掛け弓・置く・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
常呂町日吉のあたりで常呂川に合流する西支流の名前です。仁頃川ほどでは無いですが、それなりに長い支流ですね。

戊午日誌「西部登古呂誌」には次のように記されていました。

是よりまた申酉戌亥と廻り行て凡廿丁計にして
     クマーノツ
本名クアマナイノツといへるよし。此処小山の下に一すじの川有。此川をクアマナイといへると。其名義弓を置処と云儀、ノツは其川の川口崎に成りしによって号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.177 より引用)
ふむふむ。ku-ama-nay で「仕掛け弓・置く・川」だと言うのですね。ところが永田地名解には違う解が記されていました。

Kuma  クマ  魚棚 鮭ノ上ル澤ニシテ古ヘ魚棚多クアリシ處ナリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.466 より引用)
確かに、kuma には「肉乾棚」という意味がありますが、元々は「横棒」を指し示す語だったようです。上士幌と足寄の間に「クマネシリ岳」という山がありますが、「横棒のような山」という意味で、実際に頂上が棒のような形をした奇妙な形の山です。

ですので、もし隈川に何かしら横棒のような要素があるのであれば、永田説の亜流として考慮すべきに思えてきます。気になるのが「日吉川」の存在で、南から北に流れる常呂川とは完全に逆向き(北から南)に流れる時点で面白いのですが、それ以上に常呂川と日吉川の間の山が、どことなく「クマネシリ岳」に似ているのですね。

ただ、戊午日誌を読んだ限りでは、「クマーノツ」が現在の「隈川」ではなく「日吉川」である、とは言えないような気がしています。「其川の川口崎に成りし」という表現は日吉川にも当てはまるかもしれませんが、常呂川と隈川の平野の間の山のほうが「目立つ」ような気がするので……。

ということで、ku-ama-nay(仕掛け弓・置く・川)と kuma(魚乾棚)のどっちが妥当か……という話になるのですが、明治の頃の地図に既に「クマ川」と記されていたということは、永田方正は「クマ川」の意味を解いたと考えられそうです。より古い時代の記録である ku-ama-nay が、より原型に近いのでは無いでしょうか。

絵内川(えない──?)

e-en-nay???
頭・とがった・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
道道 665 号「仁倉端野線」沿いに「NPO 自然体験村 虫夢ところ昆虫の家」という場所があるのですが、絵内川はその敷地の北側を北西から南東に流れています。

絵内川の両隣、特に東側の「遠藤川」と絵内川の間の峰はかなりとんがった形に見えるので、e-en-nay で「頭・とがった・川」と理解できる……のですが、何分古い記録にたどり着けず、いつ頃からこの名前だったかを辿ることができません。要はアイヌ語由来であるか否かすら判断ができません。

このあたりの地名や川名は、アイヌ語由来のものがそれほど多くないので、アイヌ語由来ではない可能性も考えておかないといけないなぁ、というのが正直なところです。

東亜川(とうあ──)

to-hattar
沼・淵
(典拠あり、類型あり)
昔、「東亜国内航空」という航空会社があったんですよね(後の「日本エアシステム」で、最終的に JAL と合併)。「東アジア」なのに「国内」というのが自己矛盾しているようで面白かったのですが……。

そして、北見市は常呂町というアジアの東の果てに「東亜川」がありました。気宇壮大な名前ですが、実体は常呂町福山の西側を流れて常呂川に注ぐ西支流です。

常呂町と東アジアと言えば、明治の初頭に常呂で牡蠣の養殖を試みたという中国人某の存在に思いを馳せたりしますが、同じく明治の頃の地形図を眺めてみると、現在の東亜川のあたりに「トヤワラ」あるいは「トヤワタラ」と記されていることに気がつきました(なんと!)。

よくよく戊午日誌を眺めてみると、ちゃんと記載がありました。

過て
     トウハツタラ
此処右りは平山、左り高山也と。麓一ツの大渕となる。其底は石なるが故に如此号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.176-177 より引用)※ 原文ママ

どうやら to-hattar で「沼・淵」だったと考えて良さそうですね。東亜川が常呂川に合流するあたりは大規模に河川改修が為されているようで、少し上流部には河跡湖も残っています。昔の地形図ではこのあたりで常呂川が大蛇行していたようにも記録されているので、他にも多くの河跡湖(to)があったと考えて良さそうです。

to-hattar のあたりには、ひときわ大きな河跡湖があったのかもしれませんね。

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2018年9月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (567) 「毛当別川・ルクシ毛当別川・クトン毛当別川・サマッケ仁頃川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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毛当別川(けとうべつ──)

ket-un-pet
獣皮を張って乾かす枠・ある・川
(典拠あり、類型あり)
北見市上仁頃のあたりで仁頃川と合流する支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には記載がありませんが、戊午日誌「西部登古呂誌」には次のように記されていました。

またしばしを過てケトベツ、此処二股に成る也。此辺鹿多きが故に、猟に上り小屋懸を致し居て取ては其足を捨しに、山のごとくなりしによって号しとかや。ケトとは鹿の足の事なり。源はサルマの方の山々つヾきより来る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.180 より引用)
「ケトとは鹿の足の事なり」という解釈には疑問符がつくのですが、kema であれば「足」ですし、また ketu には「捨てる」という意味がある(樺太方言?)ようです。どちらも「其足を捨しに」という行為に近そうです。

川が二股になっているところを「ペテウコピ」と呼ぶケースが道内各所で見られます。「ペテウコピ」は pet-e-u-ko-hopi-i で「川が・そこで・互いに・捨て去る・ところ」という意味なのですが、川を遡ると二手に分かれることから、このように呼ばれています。

そう考えると、ketu-pet で「捨てる・川」というのも「もしかしたらアリかも?」……と考えたくなりますが、「角川──」(略──)には次のように記されていました。

なおケトベツは松浦武四郎の「戊午日誌」に川名として見え,ケトとは「鹿の足なり」と記されるが,現在はケッウンペツ(鹿の皮を乾す木枠のある沢)にちなむとする説が一般的である。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1435 より引用)
あー……、ま、そりゃそうですよね。ket-un-pet で「獣皮を張って乾かす枠・ある・川」と考えるのが自然かもしれません(道北の歌登にも「毛登別」がありました)。戊午日誌では、訓子府のケトナイでも「ケトとは鹿の股(皮)の事なり」と若干ずれたようなことが記録されているので、松浦武四郎が ket の正確な意味を掴みきれていなかった可能性がありそうです。

ルクシ毛当別川

ru-kus-{ket-un-pet}
道・通行する・{毛当別川}
(典拠あり、類型あり)
毛当別川の上流部で南から合流している支流の名前です。ルクシニコロ川と同じく、みんな大好き ru-kus 系の川名ですね。ru-kus-{ket-un-pet} で「道・通行する・{毛当別川}」と考えて良さそうな感じです。

ちょっと興味深いのは、毛当別川とルクシ毛当別川は、ほぼ 1 km ほどの間隔を維持したまま並んで流れているのですね。源流部に遡って峠を越えると(佐呂間町の)武士川に出るのも同じなのですが、では何故南支流に ru-kus の名をつけたのだろう、という疑問が出てきます。

川を遡ると、どちらの川も左に 90 度ほど向きを変えることになるのですが、ルクシ毛当別川のほうがより急カーブで曲がっているように見えます(毛当別川はカーブが緩やかであるが故に、大回りしているようにも見えなくもないです)。土地のアイヌの感覚では、毛当別川よりもルクシ毛当別川のほうが歩く距離が短い、と認識されていたのかもしれませんね。

クトン毛当別川

kut-un-{ket-un-pet}??
帯状に岩のあらわれている崖・ある・{毛当別川}
(?? = 典拠なし、類型あり)
毛当別川の南支流に「ポン毛当別川」という名前の川があります(pon-{ket-un-pet} で「小さな・{毛当別川}」です)。クトン毛当別川はポン毛当別川の南支流です。

仁頃川の支流に「クトンニコロ川」がありましたが、クトン毛当別川も同様に kut-un-{ket-un-pet} で「帯状に岩のあらわれている崖・ある・{毛当別川}」なんでしょうね。

「クトンニコロ川」を読み解くときに、「クトン」は ket-un で「獣皮を張って乾かす枠・ある」かな、と考えたことがありました。ただ、これだとクトン毛当別川が ket-un-ket-un-pet になってしまうので「あ、こりゃ無いわ」と仮説を捨てることができました。地味にありがたかったです(汗)。

サマッケ仁頃川

samatke-{ni-kor}?
横になった・{仁頃川}
(? = 典拠未確認、類型多数)
さすがに「毛当別川三兄弟」だけで一本……! というのはちょっと気が引けたので、もいっちょ。サマッケ仁頃川は仁頃川の支流で、ルクシ毛当別川、クトン毛当別川の西側を流れています。

samatki は「横になる」という意味で、samatke-nupuri であれば「横に平べったい形の山」を意味します。川の名前としては若干ピントがずれているようにも思えますが、これはやはり samatke-{ni-kor} で「横になった・{仁頃川}」と考えるしかないかなぁ、という感じです。

実際には何が「横になっていた」のか、という話ですが、うーん、やっぱり川の南側の山を指して「横になっていた」と考えたのでしょうか。北のほうに頭があって、猫背気味に横になっている(膝を曲げているかもしれない?)ように見えたり……しないでしょうか?

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2018年9月28日金曜日

春の東北小旅行 2015 (88)「陸前小泉駅、aka 小泉小学校入口」

本吉町津谷長根というところにやってきました。右折すると国道 346 号で本吉の中心部に行けるようです。
前方に「道路情報」のアーチが見えてきました。このあたりの道路情報案内板には、「国土交通省」などの名前がしっかり入ったものが多いですね。南三陸町志津川まで 21 km とのこと。順調に近づいています。

シケイン!

津屋川に架かる「小泉大橋」を渡ります。いかにも仮設橋っぽい感じがしますね(海側に新しい橋を建設中にも見えます)。とてもフラットな構造で走りやすいのですが……
橋を渡り終えると……あっ! JR の橋梁が一径間だけ落ちたままです。
そして路面には「急カーブ注意」とありますが……
うわわわわ。JR 気仙沼線の橋梁の下をくぐるために、ちょっとしたシケインのような構造になっていたのでした。Google Map などで見ると、それほど急カーブには見えないのが不思議です。

陸前小泉駅、aka 小泉小学校入口

BRT の陸前小泉駅が見えてきました。この赤地に白のカラーリング、これだとやっぱ JR 九州っぽいですよね。
「陸前小泉駅」は、ミヤコーバスの「小泉小学校入口」バス停に併設されています。同じ場所で違う名前というのはとても紛らわしいですが、そもそもの出自を考えると仕方がないということでしょうか。対向車線側のバス停には、元々の主だったミヤコーバスが停車中のようです。

南三陸町!

16 時半を少し過ぎた頃、ようやく……ついに南三陸町に入りました。
改めて考えてみると、八戸から宮古までは結構遠かった印象があるのですが、宮古から南三陸まではそれほど遠い印象がありません。間の市町村の数の関係なんでしょうか。

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2018年9月27日木曜日

春の東北小旅行 2015 (87)「小金沢駅に歌手はいなかった」

気仙沼市の国道 45 号に戻ってきました。三陸道(本吉気仙沼道路)の気仙沼中央 IC から大谷海岸 IC までが開通したのは今年(2018 年)の 3 月 25 日のことですから、2015 年時点は国道 45 号がメインルートだったことになりますね。ご覧の通り、交通量もなかなかのものでした。

波路上? 階上?

気仙沼市階上というところにやってきました。いや、本当にそれだけなんですが、青森には「階上町」(はしかみ──)という町があったじゃないですか。気仙沼には「波路上」で「はじかみ」と読ませるところがあるのですが、「階上」もあったんですね。
地理院地図を眺めた限りでは、大字?は「波路上」のようですが、最寄りの JR 気仙沼線の駅名は「陸前階上」のようですね。

気仙沼市本吉町

陸前階上駅の近くを通過して更に南に進むと、ほどなく本吉町に入ります(本吉町は 2009 年に気仙沼市に編入されています)。このあたりは国道 45 号と JR 気仙沼線が並走していた区間で、線路を BRT 専用道路に作り変える工事が行われていました。
道路脇でこんな建物を見かけました。エアコンの室外機がついているので仮設住宅のように見えますが、仮設住宅だとすると随分と小ぶりに思えます。もしかしたら、復興作業に従事する単身者用の仮設住宅とかなんでしょうか?
前述の通り、このあたりでは三陸道(本吉気仙沼道路)の工事が行われていました(おそらく現在も継続中)。この「復興道路」の看板は、人によっていろいろな感じ方があるかと思いますが、個人的には割とお気に入りです。わかりやすいデザインですし、色合いも鮮やかですし。

南三陸まで 28 km

さてさて。久々に「青看板で残り距離を確認してため息をつこう」コーナーですが、いやいや随分と仙台に近づいてきましたね! 南三陸までついに残り 30 km を切りました。実は、南三陸(志津川)にはほんの少しだけ土地勘があるのです。

小金沢駅に歌手はいなかった

またしても BRT とすれ違いました。この赤と黒のカラーリングは JR 東日本らしからぬカラーリングですが、すんごく力強いカラーリングですよね。
BRT の駅は、松岩駅のように屋根や駅舎が用意されている……と思ったのですが、このようにほぼ単なるバス停のような駅もあるのですね。これは本吉町小金沢にある「小金沢駅」ですが、ミヤコーバスの「赤牛海岸」バス停と同じ場所にあります。本吉町赤牛…… Red Bull じゃあないですか。

また来てね!!

道路脇に「気仙沼さくらボウル」の看板が出ていました。いかにも歴史のありそうな佇まいがいいですね(建物はほぼ新築っぽく見えますが)。「また来てね!!」の好感度も高いです。老舗のボウリング場って存在そのものが物語みたいなところがあって、なんか好きなんですよねぇ。
さくらボウル、今度気仙沼に行くことがあったら一度寄ってみようかな……(昔は 1 ゲームで 266 というスコアを出したこともあったりして)。

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2018年9月26日水曜日

春の東北小旅行 2015 (86)「BRT 松岩駅」

県道 26 号「気仙沼唐桑線」を南に向かいます。前方に JR 気仙沼線の立体交差が見えてきました。JR 気仙沼線の柳津から気仙沼の間(と JR 大船渡線の気仙沼から盛の間)は、沿線の被害が甚大で、都市計画レベルで再検討が必要な街が多いことから、鉄道ではなく BRT での仮復旧という苦渋の決断を強いられたのでした。
多くの線路跡は「BRT 専用道路」として再整備されましたが、BRT は、不動の沢駅から松岩駅の間は遠回りになる線路跡を通らず、距離が短くより需要の見込めそうな県道 26 号を経由しています。そのため、この立体交差のあたりは放置状態のようです。

自家用車からトラクターまで

このあたりはカーディーラーが立ち並ぶほか、銀行や飲食店、小売店など、様々な店舗が軒を連ねています。気仙沼(南気仙沼)で最も栄えているエリアかもしれません。対向車線をやってきたバスは BRT ではない、在来型の路線バスでしょうか。
「大川」という川を渡ると、ホーマックやイオンなど、郊外型の店舗が増えてきます。
更に南に進むと、今度はヤンマーの代理店が見えてきました。ここから先は田畑などの農地も多くなるようです。

BRT 松岩駅

前方右手に林?が見えますが、このあたりをやがては三陸道の高架が通ることになります。
ファミマの前でバスを先頭にちょっとした列ができていました。あの赤いバスが BRT です(良く目立つカラーリングですね)。
赤いのは BRT の車輌だけではなくて、「駅舎」も赤がアクセントとして使われています。手前にキャッシュコーナーのような建物が見えますが、これが BRT の「松岩駅」です。
県道 26 号は、松岩駅のあたりで緩やかに向きを変えて、国道 45 号に近寄ってゆきます(もともとは、現在の県道 26 号が国道だったように見受けられます)。
それでは、T 字路を左折して、国道 45 号に戻りましょう。

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2018年9月25日火曜日

春の東北小旅行 2015 (85)「(´・ω・`)」

宮城県道 5 号「気仙沼港線」を走ります。この県道はなんと総延長 570 m とのこと。国道 174 号の 187 m には負けますが、相当短い県道ですね。

左手に大島汽船のフェリーが見えています。気仙沼と、気仙沼湾の沖に浮かぶ大島の間を結ぶフェリーで、一日なんと 16 往復も運行されているようです。
ただ、気仙沼市三ノ浜と大島の間を結ぶ「鶴亀大橋」の工事が現在進行中とのことで、完成後はフェリーはどうなるのでしょう……?

(´・ω・`)

プレハブ二階建ての建物が見えてきましたが……なんでしょうこのペインティングは。どうやら (´・ω・`) では無さそうですが……(ぉ
ちなみに、2013 年 6 月時点の Google ストリートビューでは、外壁は白いままでした。このペインティングは 2015 年 5 月までの間のどこかで行われたようですね。


なお、2017 年に撮影されたストリートビューを見ると、この建物があったところは既に更地に戻っていました。被災地の姿は日々刻々と変化していることを実感させます。

国内外の募金により

県道 5 号は 570 m しか無い上に、ほぼ全ての区間で県道 26 号「気仙沼唐桑線」と並行しています。県道 5 号の起点(終点かも)で信号を待っている間に、修理中の家屋を見かけたのですが……。
普通の建物に見えたのですが、なんと「国登録有形文化財」だったのだとか。「国内外の募金により応急修理されている」というのはありがたい話ですね。

気仙沼から南気仙沼へ

宮城県道 26 号「気仙沼唐桑線」に戻ってきました。ここは市役所のすぐ近くですが、あまり津波の被害は受けていないように見えます。標高は海抜 3 m ほどしか無いそうですが、海との間に山があるので津波の直撃を避けられたのかもしれません。
このあたりが気仙沼でもっとも古くからの街だったところでしょうか。気仙沼駅へは右折ですが、県道 26 号は左にカーブして気仙沼市化粧坂に向かいます。
クネクネ曲がった道で標高 23 m ほどの小さな峠に向かいます。
峠を越えると視界が一気に広がります。写真では見えていませんが、手前に気仙沼市で最大の川である「大川」が流れています。陸前高田を流れる川が「気仙川」で、気仙沼を流れる川が「大川」というのもちょっと不思議な感じがしますね。
大川を渡って南気仙沼駅方面に向かいます。このあたりはさしずめ「新市街」と言った趣でしょうか。

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2018年9月24日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (84) 新潟(新潟市) (1878/7/9)

本日も引き続き「第二十一信」を読み進めます。イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、「第二十一信」は普及版では全てカットされています。

彫像

新潟の「街ブラ」をエンジョイ中のイザベラですが、今度は仏具店にやってきたようです。

漆器店があるのと同じ通りに仏具店があります。仏具店の裏手では、イザヤ書に記されているような、未加工の木塊から最後の細かな仕上げに至る仏像を彫る作業の全工程が見られます。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.276 より引用)
なるほど、仏具店の裏手に工房があるんですね。未加工の木塊から仏像を彫る……と言われると、円空仏なんかを想像してしまうんですが、素彫りのものから仏壇に収められるクオリティの精密な?仏像に仕上げるのにはどれくらいの期間がかかるものなのでしょう。……あれっ、イザベラが書いていることと殆ど同じこと言ってますね私(すいません)。

興味深い点としては、店の裏手に工房があるということ、それ自体でしょうか。現在だと「木工所」と「工房」が別のところにあって、完成品が店に入荷するという形が一般的ですよね。当時の新潟が日本海でも指折りの大都市だったとしても、人口も 5 万人程度だったと言いますし、現代の都市の過密ぶりから考えると、まだまだ随分と余裕があった、ということなんでしょうね。

家庭用の仏像がすべてそろっており、なかでもにこにこ笑っている富の神大黒には目をとめずにいられません。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.276 より引用)
これもなかなか微笑ましい記述です。江戸時代の「神仏習合」から一転して「廃仏毀釈」が始まったものの、「神」と「仏」の間の線引きはまだまだ曖昧なものだった、ということを如実に示しているように思われます。

イザベラ曰く、「仏具店」には「高さが 8 フィート(約 2.4 m)あるもの」から「長さ約 1 インチ(約 2.5 cm)のもの」まで、「あらゆるサイズの神々の像」があるとのことですが……

わたしも袖に入れるタイプの慈悲の神の像を持っています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.276 より引用)
おっ。ここで突然イザベラのコレクション自慢?が始まるようです。

女神の頭のまわりには金色の後光が射し、そばに金色の笏があって、両腕はそっと胸で組まれています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.276 より引用)
「慈悲の神の像」とのことですから、少なくとも「大黒さん」では無さそうですよね。日本の神話にもアマテラス以来少なからぬ数の女神が登場しますが、果たしてイザベラの言う「慈悲の女神」とは一体……?

女神のうしろには一〇組ほどの腕が突き出ていますが、とてもたくみに配置されているので、少しも異様な感じはしません。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.276-277 より引用)
えっ……あっ! そうか、これは千手観音菩薩のことだったんですね!

表情にも、また姿にも堂々とした静けさ、穏やかさがあります。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.277 より引用)
そうですよね。観音さまの「性別」については諸説あるようですが、穏やかな表情は確かに「慈母」っぽい感じがします。

仏具

イザベラは、仏具店の品揃えを次のように書き記しています。

かぎりない穏やかさをたたえて仏像が安置されている寺院用の豪華な仏壇や、釈迦の弟子を祀る厨子、上はブロンズと金を使った二〇〇円のものから下は一ドルの白木製のものまで、さまざまな大きさと値段の家庭用仏壇、戒名(カイミョー)という死者の名前を記す黒または金の位牌、ブロンズと真鐘製の蝋燭立てと香炉、高さが六フィートある真鍮製の蓮の花、金で豪華に細工した仏具、太鼓、銅躍、鈴その他、寺院での礼拝に用いられる数多くの楽器、それにある宗派で礼拝する際に象徴として用いる複雑怪奇な品々が種々さまざま何百とあり、どれも多かれ少なかれ凝ったつくりとなっています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.277 より引用)
ちょっと長いのでどう引用しようかと思ったのですが、中途半端に引用するのもどうかと思ったので、全部引用してしまいました。改めてキーワードを並べると「位牌」「蝋燭立て」「香炉」「真鍮製の蓮の花」「金細工の仏具」「太鼓・銅鑼・鈴などの楽器」とのことで、ほぼ現在の仏具店でも手に入りそうな気がします。

それにしても、イザベラの仏具の理解がもの凄く正確であることに感心していたのですが、原文を見てみると……

There are gorgeous shrines for temples, in which Buddha stands in endless calm, and shrines for his disciples, and family shrines of all sizes and prices, from bronze and gold at 200 yen down to unpainted wood at a dollar, tablets for the kaimiyô or dead name, in black or gold, candlesticks and incense burners in bronze and brass, brass lotuses six feet high, altar-cloths richly worked in gold, drums, gongs, bells, and the numerous musical instruments used in temple worship, and hundreds of different articles more or less elaborate used in the perplexing symbolism of the worship of some of the Buddhist sects.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
あ、なーんだ。もの凄く正確だったのは和訳のほうだった、というオチのようです。米原万里さんの「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」を思い出してしまいますが、この和訳は「不実な美女」の系譜を受け継ぐものなのかもしれません。

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2018年9月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (566) 「登位加川・金尾内川・ルクシニコロ川・クトンニコロ川」

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登位加川(といか──)

to-ika?
沼・越える
toy-kar-us-pe??
畑を・つくる・いつもする・もの(ところ)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
登位加川は、常呂川の西支流である「仁頃川」に注ぐ北支流の名前です。仁頃川が常呂川と合流するあたりでは、常呂川は北北西に向かって流れているので、登位加川は常呂川と真逆を向いて流れていることになりますね。

山田秀三さんの「オホーツク海沿岸の小さな町の記録──常呂町のアイヌ語地名調査」には、次のように記されていました。

トイカ
 ポンクマ川上流から、隣りの端野町にかけての旧地名。語義不詳。トイカなら「地面」、トイ・カ「畠の・上」、あるいはト・イカ「沼・溢れる(あるいは越える)」などなどに聞えるがまったく見当がつかない。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.104 より引用)
確かに……全く見当がつきませんね。念のため昔の地形図を眺めてみたところ、「登以加」という字が当てられていたこともあるようです。

山田さんの試案はどれも可能性がありそうですが、その中では to-ika で「沼・越える」とするのが一番「地名らしい」かなぁ、という気がします。ただ畑作に適した肥沃な土がある……なんて話もあったりして、toy-kar で「畑を・つくる」なんて表現もあるので、toy-kar-us-pe で「畑を・つくる・いつもする・もの(ところ)」なんて可能性も捨てきれません。

要するに、やっぱりなんとも言えないということです(おい)。

金尾内川(かねおない──)

kani-o-nay
金・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
北見市仁頃町の国道 333 号沿いを流れる東支流の名前です。この川は戊午日誌「西部登古呂誌」や「東西蝦夷山川地理取調図」にも「カニヲナイ」と記載されています。

「カニ」は「蟹」ではなく kani で「金」(きん)のことかと思われます(日本語からの移入語彙かなぁと)。kani-o-nay であれば「金・多くある・川」ということになりますね。想像するに、砂金の採れる川だったんじゃないかと思われますが、いかがでしょう?

2020/9/27 追記
「角川日本地名大辞典」によると、明治時代に砂金の試掘が行われたものの、残念ながら砂金は発見されなかったとのこと。

ルクシニコロ川

ru-kus-{ni-kor}
道・通行する・{仁頃川}
(典拠あり、類型あり)
北見市仁頃町の国道 333 号沿いを流れる西支流の名前です。金尾内川とは違い、本流(仁頃川)と遜色ない……と言うとちょっと言い過ぎですが、仁頃川の支流の中では規模の大きいほうです。

戊午日誌「西部登古呂誌」には「ルウクシニコロ」とあり、また「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルークシニコロ」とあります。みんな大好き「ルークシ系」の川名のようですね。ru-kus-{ni-kor} で「道・通行する・{仁頃川}」と考えて良さそうです。

ru-kus- はアイヌの峠道を意味すると捉えることが可能ですが、ルクシニコロ川にほぼ沿う形で国道 333 号が整備されているのは面白いですね。アイヌの峠道は勾配を度外視した上で最短距離で結んでいることが多いので、鉄道や自動車道としては使いづらいものも少なくなかったのですが、昔と比べて長いトンネルを掘りやすくなった現在では、距離の短縮効果が大きいこともあり、再評価されるケースが出てきているような気がします。気がするだけですが(汗)。

クトンニコロ川

kut-un-{ni-kor}
帯状に岩のあらわれている崖・ある・{仁頃川}
(典拠あり、類型あり)
ルクシニコロ川の南支流の名前です。NHK 北海道編の「北海道地名誌」に記載があったので、さっそく見てみましょう。

 クトンニコロ沢 ルクシニコロ川の右支流。アイヌ語で岩棚ある仁頃川の意。この川に入ると岩があって山が越せないので。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.431 より引用)
ふーむ。kut-un-{ni-kor} で「帯状に岩のあらわれている崖・ある・{仁頃川}」ですか。このあたりでは崖を kut と言い表すことが多いようですね。

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2018年9月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (565) 「別着の沢川・ホロカン川・土伏川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

別着の沢川(ベっちゃくのさわ──)

pe-sak(-nay?)?
水・無い(・川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
北見市南部を流れる常呂川の南支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」や戊午日誌「西部登古呂誌」には記載が無いので、もしかしたら元は違う名前で呼ばれていたのかもしれません(たとえば「クツタルベシベ」や「ユツホヲマナイ」などの記録があります)。

このあたりの川は「貴田の沢川」(貴田国平)や「黒部の沢川」(黒部幸太郎・元吉)など、開拓者の名前をつけたものが多いのですが、その中で「別着の沢」という名前は異彩を放っています。NHK 北海道編の「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 別着ノ沢 (ぺっちゃくのさわ) 常呂川右支流。アイヌ語水の乾くの意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.431 より引用)
他に参考となる資料がないので、果たして本当かなぁ……という疑いも若干残りますが、確かに pe-sak で「水・無い」と解釈することは可能です。下流部は若干ながらも扇状地のような地形なので、水が伏流することが多かったと考えると、pe-sak と読んだ可能性も出てくるかもしれません。

もっとも、この特徴が「別着の沢川」だけに当てはまるかと言えば、ちょっと怪しいのですが。

ホロカン川

horka-an(-nay?)
U ターンする・そうである(・川)
(典拠あり、類型あり)
JR 石北本線の西北見駅と国道 39 号の間を流れている川の名前です。決して大きな川では無い筈なのですが、なんと戊午日誌「西部登古呂誌」にしっかりと記載がありました。

是より十丁も転太石の上を飛越また刎越して行に
     ヲロカン
右のかた中川、桃花魚此川え上るよし。此処より上えは上らずとかや。其名儀は別の山より落来るといへる義なりと。其水源サルマの方より来る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.192 より引用)
「別の山より落来る」とはどう解釈したらいいのだろう……と思っていたのですが、永田地名解には次のように記されていました。

Orokan  オロカン  逆流川「ホロカウン」ノ訛ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.471 より引用)
これだと割とすんなりと理解できます。きっと horka-an(-nay?) で「U ターンする・そうである(・川)」なのでしょう。ただ、ちょっと気になるのが、ホロカン川は特に U ターンしているようには見えないのですね。

また、松浦武四郎の言う「別の山より落来る」も相変わらず意味がわかりません。これは一体どう考えれば良いのか……と数分ほど悩んだのですが、何のことはない、両者とも同じことを言っていたのだということに気づきました。

現在、東相内駅の北側を「墓地川」という(凄い名前の)川が流れていますが、この川がどうやらかつては「ホロカン川」と繋がっていたらしいのです。墓地川を遡ると仁頃川の南側にたどり着きますが、これを「其水源サルマ(サロマ)の方より来る」と記したのだと思われます。

また、「墓地川」には「ポン墓地川」という名前の支流があるのですが、この川は北から南に流れています。つまり、この「北から南に流れる」という点を horka(U ターンする)と呼んだのだろうなぁ、と思われるのです。

戊午日誌の「別の山より落来る」が horka という意味だ、というのはちょっと強引過ぎるかもしれませんが、horka した川を遡ると本来たどり着くべき山とは別の山に行ってしまう(ので、それを戒めるために horka と呼んだ)……ということだったのではないかと!(語勢を強めてごまかしたな

土伏川(どふせ──)

to-{mak-un}-pet?
沼・{後ろにある}・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 石北本線の「愛し野駅」(いとしの──)の南を流れる川の名前です。早速ですが NHK 北海道編の「北海道地名誌」を見てみましょうか。

 土伏川 (どぶせがわ) 市街の南にある常呂川左支流。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.466 より引用)
ありがとうございます。他にはこれと言った資料がなく、さてどうしたものか……と思ったのですが、古い地図に「トマクウ?ベツ」と記されていることに気づきました。

戊午日誌「西部登古呂誌」にも、確かに次のように記されていました。

また拾丁計も原を過て左りの方
     トマクンベツ
是本川の枝川也。巾五間計転太石原。トマクンヘツとは大なる枝川と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.187 より引用)
戊午日誌には「トマクンヘツ」とあり、また「東西蝦夷山川地理取調図」にも「マクンヘツ」という川の存在が記されています。となると古い地形図にも「トマクウンベツ」と記されていたと考えるのが自然なんですが、「ン」ではなく「ㇱ」(小書きのシ)のようにも見えるんですよねぇ……。

もともとは to-{mak-un}-pet で「沼・{後ろにある}・川」だったのが、to-mak-us-pet で「沼・後ろ・ついている・川」と呼ぶ流儀もあり、そのうち -mak が略されて to-us-pet で「沼・ついている・川」になり、「とーうし」が「どふせ」になった……という可能性は考えられないでしょうか?(ちょっと苦しい

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2018年9月21日金曜日

春の東北小旅行 2015 (84)「気仙沼女子高等学校」

気仙沼市東部、かつての「本吉郡唐桑町」でガソリンを給油して、今度は西に向かいます。この先の「只越峠」は「唐桑トンネル」で通り抜けることになります。
40 m ほど上に三陸道の橋が見えますが、「唐桑トンネル」は三陸道と一体化しているので、これから一気に 40 m を駆け上がることになります。アップダウンは国道 45 号の華、ですね。
谷をぐるっと大回りして、トンネルのすぐ近くまでやってきました。西行きのハーフインターチェンジのような構造ですが、これはあくまで「仮出入口」という扱いのようです。
唐桑トンネルは割と新しそう……に見えたのですが、実際には 1969 年開通とのこと。南側に三陸道の「新唐桑トンネル」が絶賛掘削中だそうで、やがては交通量も激減しそうです。

TP + 2.0 m 宅地仕上高

気仙沼市鹿折(ししおり)にやってきました。南北に長い気仙沼の市街地では北側にあたります。
国道 45 号は「安波山」を一気に貫く「安波トンネル」で気仙沼駅の西側に出ますが、せっかくなので左折して市街地を回ってみることにしました。
鹿折の市街地の状況も、陸前高田ほどでは無かったかもしれませんが、更地だらけ……という印象でした。この先も似たような光景を何度も眺めることになりそうです。
殺風景に見えたのは、地盤の嵩上げ工事のせいもあったかもしれません。TP + 2.0 m とありますから、海抜 2 m まで嵩上げする予定なんでしょうか。

気仙沼女子高等学校

気仙沼港の北側に鎮座する「五十鈴神社」の鳥居が見えてきました。こうやって見てみると、土地の神様はちょっとやそっとの災害では流されない場所にいらっしゃることが良くわかりますね。
前方右側に何やら奇妙な形の建物が見えてきました。小さな山の上に 4 階建ての建物があり、更にその上に体育館があるような形の建物です。よく見ると体育館(だと思います)には「気仙沼女子高等学校」と記されているのですが、現在、地図ではその名前を確認することができません。
この「気仙沼女子高等学校」、若年人口の減少に加えて JR 大船渡線の長期にわたる不通で生徒を集めにくくなったとのことで、なんと 2014 年 3 月を以て廃校になってしまったのだそうです。

Google ストリートビューでは当時の建物をそのまま見ることができますが、航空写真を見ると建物の形が微妙に違うようなので、もしかしたら体育館の部分はもはや存在しないのかもしれませんね。

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2018年9月20日木曜日

春の東北小旅行 2015 (83)「すばら!なガソリンスタンド」

巨大なベルトコンベアーの圧迫感に打ち震えながら、「奇跡の一本松」の駐車場の前を通過します。何故これだけの有名スポットをスルーしたのか……と思われるかもしれませんが、八戸に回ったことで思った以上に時間を失ったのと、人混みが苦手なのがその理由です(どちらかと言えば後者かも)。

Bus Rapid Transit

気仙川にかかる「気仙大橋」を渡って、気仙沼方面に向かいます。対向車線に「JR」のロゴがついたバスがやってきました。これは代行バスではなく「BRT」のようですね。BRT は Bus Rapid Transit の略です。
震災後の鉄路の処遇は、第三セクターの三陸鉄道と JR 東日本で大きな差がついてしまいました。三陸鉄道が早々と全線復旧に向かって動いたのに比べ、陸前高田や気仙沼、南三陸などでは街づくりのあり方から再考を余儀なくされるレベルの被害があったこともあり、JR が単独で復旧を考えられる状況では無かったようです。結果的に、JR 気仙沼線の柳津から気仙沼までと、JR 大船渡線の気仙沼から盛までの間は鉄道での復旧を断念し、代わりに BRT を走らせることになります。

三陸鉄道が 3 年ほどで全線復旧したのに対し、JR 東日本は鉄道を早々と「切り捨てた」ことを批判する向きもあるようですが、仮に気仙沼と盛の間が三陸鉄道だったらどうなっていただろう……と考えることがあります。果たして 3 年で復旧できたかと言われると、やはり懐疑的になってしまいます。

このあたりでは BRT とは言っても普通に国道を走っているので、限りなく「代行バス」のようなものですが、よくよく地図を見ると気仙沼と陸前高田の間は、JR は鹿折川・飯盛峠・矢作川経由の内陸部を通っていたのでした。JR に並行する県道の飯盛峠はバスが通るには狭すぎるからか、BRT は海沿いの国道を通ることになったようです(このルート変更により、BRT には「奇跡の一本松駅」が設けられることになります)。

そのまま進めば三陸道

ということで、国道 45 号の話題に戻りましょう。道路情報案内板に表示された残り距離を見てため息をつくシリーズですが、気がつけば仙台まで 147 km の地点までやってきていました。もっとも時間もそれなりに経過していて、この時既に 15 時半を回っていました。
そして、久しぶりに「そのまま進めば三陸道」な交叉点にやってきました。気がつけば既に宮城県気仙沼市に入っていました。

なぜか旧道

しかし……「仙台まで 147 km」という案内を受けて、三陸道は回避、左折して旧道を進みます。
気仙沼市唐桑町境というところにやってきました。右から県道 239 号が合流していますが、現在は左側に県道 239 号の新道が設置され、県道が優先道路になってしまったようです。単なる交叉点の写真ですが、今ではもう見られない写真になってしまったので、ちょいとご紹介まで。
「仙台まで 147 km」を受けて遠回りを決めた理由が……こちらです。
そう、なんのことはない、「仙台までガソリンが持たない」という事実が明らかになったが故のコース変更だったのでした。普通、自動車専用道路(無料区間)沿いにガソリンスタンドはありませんからね……。
この日は、朝 6 時に秋田港(「うどん・そば」自販機のあったところです!)を出てから 9 時間近く走り続けてきたわけで、実は相当な数の虫がフロントガラスにぶつかっていたのでした。給油をお願いしただけなのですが、ガソリンスタンドの方は(給油サービスの一環で?)全力でフロントガラスの清掃を行ってくださいました(感謝!)。

すばら!なガソリンスタンド

三陸道の「霧立トンネル」ができたおかげで、このあたりの国道 45 号は交通量も激減したのだろうなぁ……と想像できます。ガソリンスタンドの経営も本当に大変だと思いますが、(有)ヨシダ 唐桑只越 SS さんの積極的なご利用をお願いします!(他力本願
うっかりしていて、給油前のガソリン残量を記録しそびれたのですが、782.2 km も走っていたら、あと 1/6 程度だったのだろうなぁと想像できます。おそらくあと 147 km 走るのがギリギリ、と言ったところでは無かったかと。

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