水路
現代の日本では、末端部における物流の中心は軽トラであったり、あるいはバイクだったりしますが、明治の頃の都市部においては舟運も広く使われていました。私は町の中で駄馬を見たことはない。すべてが舟で運ばれてくる。品物を戸口近くまで運河で運びこむことのできない家は、この町にはほとんどない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.194 より引用)
こういった風景は、現在でもヴェネツィアで見ることができますが、なるほど新潟でもこんな感じだったんですね。これらの水路は一日中往来がはげしい。しかし早朝には、野菜を積んだ舟が入ってきて、その混雑は言語に絶する。この野菜がなくては、町の人は一日も暮らしてゆくことはできないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.194 より引用)
ふむふむなるほど。「一日中往来がはげしい」としながら、最も混雑するのは早朝だったんですね。当然ながら冷蔵庫などは無いので、日々新鮮な野菜を手に入れることが必然的な日課になっていた、ということでしょうか。そう考えると、比較的長期保存しやすい米と味噌が重宝された理由にも(今更ながらですが)気付かされます。水路の話題に続いては、家屋についての話題です。
家屋は急傾斜の板葺き屋根で、石の重しをしてある。家の高さは非常に不規則で、どの家も二階の急な切り妻になった壁を街路の方に向けているので、この町は、日本にきわめて珍しい美しさをもっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.195 より引用)
急傾斜の板葺き屋根で、切妻の面が街路を向いている……というと、真っ先に想像するのが「合掌造り」ですね。ただ、イザベラは「板葺きの屋根」と記しているので、そこは決定的に異なるわけですが……。屋根の高さは異なるとは言え、どの家も向きが同じであるところにイザベラは美しさを見出したようですね。奥深いベランダが街路に沿ってずらっと続いているので、冬になって雪が深く積もったときに、屋根のついた歩道の役目をするようになっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.195 より引用)
あ、これは現在でも十日町市あたりで見かけるものと同じでしょうか。豪雪地帯で暮らす知恵は一朝一夕に生まれるわけも無く、綿々と受け継がれてきたのだなぁ、ということを改めて感じます。町のどこへ行っても貧困の様子は見られない。しかし金持ちの場合は、そのことを人目につかぬようにうまく隠してある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
これもなかなか示唆に富んだ記述ですね。「成金趣味」が存在せず「清貧の美徳」という考え方が生きていたのかもしれませんし、あるいは単に現代のような「富の偏在」が無かっただけのような気もしますが、果たして真相は……?この町の目だった特色の一つは、鎧板をつけた窓を外に出した住宅の並んでいる街路が多いことである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
いわゆる「鎧戸」のことでしょうか。阪急電車に乗ったことのある方なら構造は一目瞭然かもしれません(最近の車輌にはついていなかったかもしれませんが)。鎧板というのは、外から人に見られることなく、内から外が見えるようになっているのだが、夜になって行灯がともるころになると、パーム博士と一緒に散歩したとき私たちが見たのだが、たいていの場合にどの家族も、裸同然のふだん着のままで火鉢をかこんで坐っているのが見えるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
レースのカーテンなんかでも、昼間は外からの覗き見を遮蔽する効能があっても、夜になると中が丸見え……というのと似ているような、全然違うような(どっちだ)。「火鉢をかこんで坐る家族」というのは古き良き日本の原風景のひとつでしょうか。新潟の庭園
家屋についての話題から、その中庭の話題に移ります。家の正面は非常に狭いが、家屋は驚くほど奥深く続いており、中庭には花や植木があるから、
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
ここまで読むと、とっても優雅な感じがするのですが、蚊も出てくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
一気に現実に引き戻されたような……(汗)。まぁ、確かに蚊の生育?にも良さそうな環境ですよね。何度も橋を渡って進んで行くので、通りからのぞくと、おとぎ話の国へ入ったような気持ちになる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
「おとぎ話の国」とは、なんとも詩的な表現ですが、読み進めることで正確な意図を掴むことができます。日本の家屋は母屋が奥にあって、箱庭のような庭園に面している。箱庭というわけは、しばしば三〇フィート平方にもたりない場所の中に、山水の風景が巧みに縮小されているからである。池、岩石、橋、石灯龍、曲がりくねらせた松の木はどうしても必要である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
イザベラによる標準的な「日本庭園」の定義が記されていますが、なるほど、日本庭園に「ミニチュアの庭」のような印象を見出したということなのですね。構成要素の中に「曲がりくねらせた松の木」があるのが秀逸でしょうか。もっとも、イザベラはどの家の庭も画一的であると批判しているわけでは無く、オリジナリティ溢れる庭園の存在も記しています。
しかし事情が許すかぎり、あらゆる種類の奇妙な庭作りが導入されている。小さな楼閣があり、茶をたてる茶室がある。読書や昼寝をする静かで涼しい離れ家もあり、酒を酌んだり釣り糸をたれたりする憩いの場所もある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.196 より引用)
どうやら、当時の新潟には財力が「中の上」あたりに位置する人が少なくなかったようです。これを見ると「富の偏在」が無かったというのはちょっとあり得ないですね(すいません)。少なくとも、農村が生み出した富を都市が吸い上げる構造は、既にできあがっていたと考えざるを得ません。ルース・ファイソン
当時の新潟に、イギリスから派遣された二人の宣教師がいた事はイザベラが既に記した通りですが、宣教師のひとりであるファイソン氏とその妻の間には三歳の娘さんがいたそうです。今のところ当地では唯一人のヨーロッパの婦人であるファイソン夫人と、三歳のきれいなイギリス娘のルースちゃんと一緒に歩くと、私たちの後から多くの群集がいつもついてきた。この色白のお嬢さんが、肩から金髪を垂れている姿はとてもかわいらしいものであったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.197 より引用)
アングロサクソンの大人は「赤鬼」のように認識されることも少なくなかったことを考えると、随分な違いですね(笑)。改めて言うまでもないことかもしれませんが、時代を問わず、人種も問わず、子どもは愛される存在だということでしょうか。ただ、ルース・ファイソン嬢の「人気」は、それ以外の理由もありそうでした。
ルースは、群集に対して恐れの気持ちを抱くどころか、彼らに対してにっこりと微笑し、日本式に頭を下げ、日本語で彼らに話しかける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.197 より引用)
なるほど、器量良し性格よしであれば人気が出ない筈が無いですよね。日本式のマナーを獲得し日本語も話せるとあれば、日本人の中に入っていくことにも抵抗は無いわけで、逆にイギリス人から離れようとすることもあったのだとか。イザベラは、流石に「ルース・ファイソン嬢の英国離れ」に懸念を抱いたようで、
日本人は子どもに対して全く強い愛情をもっているが、ヨーロッパの子どもが彼らとあまり一緒にいることは良くないことだと思う。彼らは風儀を乱し、嘘をつくことを教えるからだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.197 より引用)
「風儀を乱し」というのは理解できますし、まぁ仕方がないとも思いますが、「嘘をつく」というのはどういったことを指していたのでしょうね。これまでの記述から見た限りでは、たとえばイザベラは「東洋医学」を「インチキ」呼ばわりしていましたが、そのあたりにヒントがありそうでしょうか。冬の気候
イザベラは、改めて新潟の気候について記していました。新潟の気候や、この大きな越後地方の気候を、山脈の向こう側の地方と対照すると、不愉快な気候である。反対側は北太平洋の黒潮によって温暖な気候であり、秋と冬は、静穏な大気と、すがすがしい温度、空は青く、明るく日がさすので、一年のうちで最も気持ちよい季節である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.198 より引用)
イザベラは新潟の気候を「不愉快な気候」であると吐き捨てた上で、具体的には次のように記していました。この地方では、平均して三十二日間の降雪がある。運河や河川は氷結し、急流の信濃川でさえも馬が渡れるようになる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.198 より引用)
イザベラはこれから未踏の北の大地に向かうわけで、先々の土地の気候をどう評するのか、ちょっと楽しみになってきました(悪趣味)。綿入れの着物を着た住民
もっとも、日本の一部の地域が寒冷であることは実は特筆すべきことで、単純に緯度だけで考えると、意外なほど寒い、とも言えるんですよね。1998 年の「長野オリンピック」が、もっとも緯度の低い都市で行われた冬季オリンピックだったことは、どの程度知られているのでしょうか。温度は夏には九二度にも上がるのに、冬には一五度にも下がるのである。しかも、これが北緯三七度五五分──ナポリより三度南! ──という場所の話なのだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.198 より引用)
「15 ℃」であれば全然大したことないと言えますが、これは残念ながら「15 °F」です。ファーレンハイト度は「華氏 100 度がだいたい平熱」というのはわかるのですが、華氏 0 度がどの程度かというのは今ひとつピンと来ません。「華氏 15 度」は -9.4 度とのことで、まぁ確かに寒いと言えば寒い……ですね。www.bojan.net
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