2018年7月31日火曜日

春の東北小旅行 2015 (52)「名前のない本線料金所、再訪」

東和 IC から釜石道に戻ります。左(釜石方面)は無料で右(仙台・盛岡方面)は有料ですが……今回は右へ。棒型 IC だったころの遺構は、このアングルだとちょっと分かりづらいですね(中央ちょい右側奥の白い路面がそれなのですが)。
約 1 時間ぶりに釜石道に戻ってきました。安定の片側 1 車線です。

花巻市東和から花巻市へ

旧・東和町と花巻市の境界のあたりに「花巻市」のカントリーサインがありました。旧・東和町も現在は「花巻市」なので、改めて「花巻市」と言われるとちょっと変な感じもありますが、なるほど、こういう例だとそのまま残るんですね(良く考えたら対向車線にも「花巻市(東和)」という名前で出ていました)。

名前のない本線料金所、ふたたび

1 km 先の本線料金所の案内が見えてきました。花巻空港 IC からほど近いところにある本線料金所です。
この本線料金所、「名前のない本線料金所」なんですよね。花巻から宮守に向かうときにも気になっていたのですが、「本線」の文字の左側に謎の空白があるようにも見えますし、単にセンタリングしているだけにも見えます。でも、何の名前もない「本線料金所」って、やっぱり珍しいような気がするんですけど、どうでしょ?
本線料金所をゆっくり通過すると、間もなく花巻空港 IC です。

さぁどこまで北上しよう?

さて。まだ時間は朝の 9:08 です。この日のゴールは仙台ですから、わずか 147 km +αということになり、下手をすれば 2 時間ほどで着いてしまいます。こうなりゃ盛岡に行くか、あるいはもっと北まで行ってしまうか……!?
花巻 JCT が近づいてきました。左に行けば仙台、右に行けば盛岡そして青森です。ここはもちろん……
右ですね。北上しますよ!

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2018年7月30日月曜日

春の東北小旅行 2015 (51)「ぎなた読みに注意!」

「岩根橋」を出発して、国道 283 号で西に向かいます。いつの間にか、再び JR 釜石線が右側に移動していますね。柵があるのでまるで自転車道のようですが……。
左折して川を渡って、6~700 m ほど戻ったところに電源開発の「東和電力所」があるとのこと。「発電所」じゃなくて「電力所」というのが面白いですね。
発電と言えば、こんな看板を見かけたのですが……。とりあえずノーコメントで(汗)。

東和賀、略して「東和」

「花巻市東和町」の市街地が近づいてきました。合併前の「和賀郡東和町」の役場は東和町土沢(つちざわ)にあったとのこと。町名が「土沢」で無かったのは、それまでにいくつかの市町村が合併したからなんでしょうね。

どうやら、土沢町小山田村谷内(たにない)村中内(なかない)村が合併して「東和町」になったとのこと。「東和」は「東和賀」から来ているらしいですね。

昔から、市町村合併では「吸収合併」ではなく「新設合併」が好まれたということがよく分かる一例です。

稚鍋川(おさなべ──)

「長内橋」という橋を渡ります。北海道だと「あ、o-sat-nay(河口の乾いた川)なんだな」と考えるところですが、ここではどうなのでしょうか。実は、この橋で越えている川の名前は「稚鍋川」と書いて「おさなべ──」と読ませるのだとか。むむっ、nay と見せかけて pet ですかっ!

o-sat-nam-pet であれば「河口・乾いた・冷たい・川」と読めなくもありません。そう言えば、「谷内村」も「中内村」も、どっちも nay ですよね。「たにない」だと tanne-nay と読めたり……するかも?

ぎなた読みに注意!

先程も見かけた「東和温泉」と「萬鉄五郎記念美術館」の案内が見えてきました。「まんてつ・ごろう」さんって誰だっけ……と思ったのですが、「よろず・てつごろう」さんでした(大汗)。いやー、満鉄と言えば柳条湖事件じゃないですか(字が違う)。

左は無料、右は有料

かつての東和町の中心地だった「東和町土沢」にやってきました。このまままっすぐ国道 283 号「釜石街道」を西に行けば花巻の市街地ですが、釜石道の東和 IC から高速自動車国道に戻ることにします。
釜石街道は直進ですが、東和 IC はこの先の交叉点を左折です。IC を出てすぐのところに道の駅を作ったようですが、なかなかいい所に道の駅を設置しましたね。東和から釜石までは新直轄方式で建設されたので、通行料は無料です。つまり、東和 IC で一時流出しても通行料の面でペナルティは無いことになります。
などと言いながら道の駅「とうわ」をあっさりと通過して(汗)釜石道の東和 IC にやってきました。左に行けば無料、右に行けば有料です。

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2018年7月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (555) 「シュマルウップネナイ川・ポンテヨイナウシ川・キキロナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュマルウップネナイ川

suma-rupne-nay?
石・大きくある・川
suma-o-rupne-nay?
石・そこで・大きくある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
足寄川の北支流で、カアカルシナイ川の東側(足寄町中足寄集落の東側)を流れています。

道北の中頓別に「周麿」と書いて「しゅうまろ」と読ませる地名がありますが、そこには「シュウマロネップ川」が流れていました。きっと似たような地名なのでしょうね。

戊午日誌「東部報十勝誌」には次のように記されていました。

又しばし過て
     シユマルフ子ナイ
左りの方小川。此辺惣て峨々たる高山に成りし也。其間大岩簇々と有よりして号。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.329-330 より引用)
鎌田正信さんの「道央地方のアイヌ語地名」には、次のようにありました。

シュマ・エ・ルㇷ゚ネ・ナイ(shuma-e-rupne-nay 石・が・大きい・川)の意である。この付近の沢には大きな石は少ないが、たまたまこの川の川口には石は多く、出口のまん中に特に大きな石が見られたが、果たしてそれをさして名づげたかどうなのかはわからない。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.176 より引用)
ん、随分と凝った解が出てきましたね。これはどうしたものか……と思ったのですが、よく見ると見出しが「シュマウルㇷ゚ネナイ」となっていました。なるほど、「ウ」を e と解釈したのですね。

現在の地理院地図では「シュマルウップネナイ川」となっているので、素直に suma-rupne-nay で「石・大きくある・川」と解釈することができます。しかしながら、昔の地形図を見てみると、確かに「シュマウルㇷ゚子ナイ」とあるので、鎌田さんのような解釈が必要になるのかもしれません。

suma-o-rupne-nay で「石・そこで・大きくある・川」という解釈は可能なのかもしれませんが、戊午日誌に記されているように、素直に suma-rupne-nay だった可能性も十分ありそうな気がします。

ポンテヨイナウシ川

pon-kus-{inaw-us-i}???
小さな・通行する・{稲牛}
(?? = 典拠なし、類型あり)
足寄町奥足寄のあたりで足寄川に合流する南支流の名前です。どことなくミスタードーナツっぽいネーミングで、また「おいでよ稲牛」的な趣も感じさせる名前ですね(それはどうかと)。

この「ポンテヨイナウシ川」、「イナウシ」は「稲牛」でほぼ確定として、「テヨ」あるいは「ポンテヨ」がさっぱり意味がわかりません。やはり稲牛に行けば「いいことあるぞ~」と考えるしか無いのか……(それもどうかと)。

「ポンテヨイナウシ川」は比較的小さな川だからか、地理院地図には記載がありません。また昔の地形図にも記されていないこともあり、端的に言えばネタが尽きました(汗)。

pon-tay-o-{inaw-us-i} で「小さな・林・多くある・{稲牛}」なんて解を無理やりひねることもできなくは無いのですが、多分違うような気がしています。

そもそもこの川は稲牛川筋では無い……というところがポイントのような気がしていて、ちょっと大胆な仮説ではありますが、「テヨ」が「クシ」だったと考えてみたいです。であれば pon-kus-{inaw-us-i} で「小さな・通行する・{稲牛}」ということになり、「稲牛に向かう川」だったんじゃないかと。

キキロナイ川

kikir-o-nay
虫・多くいる・川
(典拠あり、類型あり)
足寄町螺湾の西側で足寄川に合流している南支流の名前です。早速ですが鎌田正信さんの「道央地方のアイヌ語地名」を見てみましょうか。

キロロナイ
キロロナイ沢(営林署図)
 螺湾市街の下手で足寄川は大きくう回している。その突出部に南側から流入している小沢。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.177 より引用)※ 原文ママ
あらら。本別には「嫌侶」があり、また R274 で本別大坂を登った先の浦幌には「貴老路」があります(どちらも読みは「きろろ」)が、それにつられちゃいましたかね……。この川の名前は「キキロナイ川」です。

 キキㇽ・オ・ナイ(kikir-o-nay 虫・そこにうようよしている・川)の意であ
る。知里分類動物辞典によると、蚊を地方によってはキキㇽというていたとあ
る。この沢にはたくさんの蚊がいたのであろう。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.177 より引用)※ 原文ママ
そうですね。kikir-o-nay で「虫・多くいる・川」と考えるのが自然かと思います。

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2018年7月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (554) 「稲牛・キムクシデイナウシュベツ川・雪解内の沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

稲牛(いなうし)

inaw-us(-pet)
木弊・多くある(・川)
(典拠あり、類型あり)
足寄町中足寄で「稲牛川」という川が南から足寄川に合流しています。足寄町稲牛自体は稲牛川を少し遡ったところの地名です。

戊午日誌「東部報十勝誌」には次のように記されていました。

また少し上りて右のかた
     イナウシベツ
相応の川也。此処当時クスリ、トカチの境目となりて在る也。イナウシはイナヲウシ也。此処土人等上り下りの時に、自分の村を出て他え行事なれば、爰にて木幣を作りて道祖神に納めて、道中無事を祈りて行が故に、エナヲ多く有よりして号る也。爰に当時標柱を立たり。其前に志るす土人は、皆此標柱の傍に落跡せり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.329 より引用)
明治の頃の地形図を見ると、現在とは(自治体の)境界線が全然異なるところに引かれていることに気づきますが、確かに足寄郡(釧路国)と中川郡(十勝国)の境界線が稲牛川沿いに引かれていました。稲牛川が足寄川と合流した後も、足寄川の北側が足寄郡で、南側が中川郡でした。

更に言うと、足寄から北も利別川が両郡の境界となっていました。利別川と足寄川の間が足寄郡で、利別川の西側および足寄川の南側が中川郡でした。つまり、現在の足寄の市街地は中川郡に属していたことになります。

本題に戻りますが、稲牛川は足寄と釧路の間の交通路として古くから利用されていたようで、イナウシは道中の安全を祈願するために収めた木弊(イナウ)があったことに起因する地名とのこと。inaw-us(-pet) で「木弊・多くある(・川)」だったのでしょうね。

キムクシデイナウシュベツ川

kim-kus-{inaw-us}-pet?
山側・通る・{稲牛}・川
(? = 典拠未確認、類型多数)
稲牛川の本流を遡ると、最終的にはウコタキヌプリの西側を南に向かい、峠を越えると本別川に出ることになります。川沿いの林道は「本別沢連絡林道」という名前で呼ばれているようで、峠を越えた先では「本別沢林道」そして「オネトップ林道」と呼ばれることになります。

そのため、稲牛川を遡って釧路に向かうには、途中で稲牛川の本流から逸れて、北支流である「キムクシデイナウシュベツ川」沿いを歩くことになります。kim は(概念としての)「山側」、kus は「通行する」という意味でしょうから、kim-kus-{inaw-us}-pet は「山側・通る・{稲牛}・川」ということになります。読みやすくすると「稲牛越山道」とでもなるのでしょうか。

そろそろ「で?」とツッコミを入れる方がいらっしゃるのではないかと想像するのですが、kim-kus-inaw-us-pet であれば「キムクシデイナウシュベツ」の「」が出てこないことになります。イタリアあたりの人名だったら「デ」があっても何ら不思議では無いんですが……。

たとえばアンドレア・デ・チェザリスみたいに。

この「デ」はどうしたものか……と思っていたのですが、昔の地形図(の模写)を見ると、この川(厳密には現在の「雪解内の沢川」に近い位置ですが)に「キムクシュイナウウシュペツ」と記されていました(永田さんテイストで「ㇱ」が「シュ」になっていますね)。これを見て思ったのですが、「キムクシュ」を「キムクシデ」と見間違えたのではないかと。

「デ」の出自については推測の域を出ていませんが、少なくとも、この地形図が作成された頃は kim-kus-inaw-us-pet と認識されていたことは間違いないと思います。

雪解内の沢川(ゆきどけないのさわ──?)

yuk-e-toy-nay?
シカ・食べる・土・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
密かに楽しみにしていた川名にようやくたどり着きました。これは「ゆきどけないのさわ」と読むのだと思いますが、このちょっと詩的な名前が実はアイヌ語由来だったりしないかな、と期待していたのでした。

昔の地形図を見てみたところ、現在の「雪解内の沢川」の位置ではなく、「開和橋」から 1.5 km ほど西側(牧場?らしき建物が点在しているあたり)を流れる川の名前として「ユケトイナイ」と記されていることがわかりました。とりあえず、この「ユケトイナイ」?が「雪解内」になったのではないか、と考えられそうです(!)。

戊午日誌「東部報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばし過て、ム(ユ)ケトイ、左りの方小川。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.329 より引用)※ カッコ内の註は解読者によるもの

おお、少なくとも「ムケトイ」という記録はあるということですね! 「ムケトイ」あるいは「ユケトイ」でどう解釈できるだろう……と考えてみたのですが、yuk-e-toy-nay であれば「シカ・食べる・土・川」と解釈できそうなことに気づきました。

アイヌはアク抜きの調味料として「食用土」を用いていたことは良く知られていて、食用土の取れる場所には chi-e-toy という地名をつけていました(たとえば本別の「チエトイ」など)。

chi(我ら)ではなく yuk(一般的には「シカ」の意)が食む土とはどんなものだろう……という話になりますが、エゾシカが線路に侵入するのはレールを舐めて鉄分を補給するため、みたいな話がありますよね。そんなところから、「シカが食む土」も鉄分などのミネラルに富んだものだったのかな、と想像してみたりしました。

それにしても、「ユケトイナイ」に「雪解内」という字を当てるセンスはお見事としか言いようがないですね。ええ、とても気に入りました!

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2018年7月27日金曜日

春の東北小旅行 2015 (50)「『岩根橋』こと達曽部川橋梁」

宮沢賢治は「宮守川橋梁」からインスピレーションを得て「銀河鉄道の夜」を創作した、という話があるそうですが、実は賢治にインスピレーションを与えたのは宮守川橋梁ではなく、この「岩根橋」こと「達曽部川橋梁」ではないかという説があるそうです(昨日も書いてたよね)。ということで、その「岩根橋」にやってきました。
どう見ても道路橋ですが、よく見ると右の方にしれっとコンクリート製のアーチ橋が映り込んでいます。道路橋(岩根橋)と鉄道橋(達曽部川橋梁)の位置関係はこんな感じです。
一応、鉄道橋メインの写真もご覧に入れます。
達曽部川の東側からの写真もあれば良かったのですが、あいにく道路橋(岩根橋)には歩道が無かったため断念しました。いつか道路橋が改修されるときに歩道がつくといいですね。

八幡太郎義家!

橋の西側の駐車場には案内板が出ていましたが、橋のすぐ近くには教育委員会が設置した地名案内板がありました。
現在は「一羽根」(ひとはね)という地名がある(地理院地図では確認できず)そうですが、古くは「一跳」あるいは「一ト刎」と書かれていたそうです。なんでもこのあたりは「前九年の役」の頃の古戦場跡だそうで、八幡太郎義家の故事に由来するとの伝承があるとのこと。
ちなみに、この地名案内板には「遠野市教育委員会」とありますが……うーん、同じ丸ゴシックですがウェイトがちょっと違ったようですね。惜しい!

大好評販売中でした

ちなみに、看板の後ろ(道路の向こう側)にはダムの放流に注意する看板が出ていますが、
その横ではなぜかビデオや本、DVD が大好評販売中でした。
ビデオや本や DVD が大好評販売中の自動販売機も気になったのですが、なんとなーく近づいてはいけないような感じがしたので(何故だ)泣く泣くスルーしました。そろそろ車に戻ることにしましょう。

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2018年7月26日木曜日

春の東北小旅行 2015 (49)「ようこそ!遠野市宮守町へ」

道の駅「みやもり」の営業開始は朝の 9 時からで、あと 20 分ほど待つ必要がありました。今から思えば宮守の駅を見に行くなどすれば良かったのですが、結局そこまで気が回らず、宮守を出発して次の目的地を目指すことにしました。
このアングルで見ると、確かに「めがね橋」っぽい感じがしますね。

達曽部川を渡った所で

JR 釜石線は緩やかに高度を稼ぐためにしばらく国道から離れていましたが、宮守駅を過ぎたあたりで再び国道沿いに戻ってきました。
国道 283 号は猿ヶ石川沿いを走ります。途中で「達曽部川」という支流を渡ったのですが、渡った先に駐車場があったので……
ちょいと車を停めてみました。単なるチェーン脱着場のように見えなくも無いですが、観光案内用の看板っぽいものもいくつか見えます。

「銀河鉄道の夜」がモチーフにしたのは

線路の手前には案内板が二つ並んでいました。左の SL の写真が掲出されているものは「SL 銀河 遠野ビューポイント」と題されたもので、運行予定などが張られています。
右側の案内板は JR 釜石線の「岩根橋」を紹介するものです。正式名称は「達曽部川橋梁」とのことで、「宮守川橋梁」と同じくコンクリート製のアーチ橋です。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は宮守川橋梁をモチーフにしているという説があるそうですが、実際には宮守川橋梁ではなく、この「岩根橋」こと「達曽部川橋梁」がモチーフにされたという説がある……と書かれています。へぇ~

ようこそ!遠野市宮守町へ

それはそうと、この修正はお見事ですね。フォントのウェイトはほぼそのままに、縦横比を変えることでレイアウトも損なわずに済んでいます。「遠野市宮守町へ」の文字の下には、おそらく「宮守村へ」とあったのでしょうね。
そして右下には「宮守村」の文字もこっそり残されています。
あっ、肝心の「岩根橋」の写真がまだでしたね。……また明日ということで!

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2018年7月25日水曜日

春の東北小旅行 2015 (48)「絶賛ライトアップ中」

宮守のアーチ橋の話題、多分今日で終わると思いますのでもう少々お付き合いのほどを……。橋の近くには宮守川の清流をせき止める「堰」があったのですが、ちゃんと魚道が設けられていました。
国道の南側から北の方角を眺めてみました。あれっ、これは……?
橋を照らす位置に照明装置が備え付けられていました。どうやら日によってはアーチ橋のライトアップを行っているとのこと。きっと絵になることでしょうね。

風流な野外ステージ

例の「恋人の聖地」の看板の南側の川の畔(「の」が多い)には、地形をうまく活かした形で野外ステージ(ですよね)が設けられていました。
堤防と川の間の階段が、そのまま座席になる仕組みのようです。涼が得られる野外ステージというのもなかなか風流ですよね。観客席とステージの間に川が流れているのもなかなかユニークです。
ステージの脇には屋根付きの休憩所?もありました。
休憩所?からは、野外ステージとアーチ橋を一望することができます。

営業開始は朝 9 時から

「宮守川橋梁」を見学するために、道の駅「みやもり」の駐車場に車を停めさせてもらったのですが、大変残念なことに営業時間が 9:00 から 18:00 まででした。まだ時間は 8 時半を少し回ったくらいでしたので、開店まで 30 分ほど待つ必要がありそうでした。
お店は営業開始前でしたが、ありがたいことにトイレは使用可能な状態でしたので、ちょいと中にお邪魔してみました。あれっ、ライトアップは日にち限定だと聞いていたのですが、ここには「毎夜」とありますね。ライトアップは「総天然色系」らしく、昼間とは印象がガラっと変わるようです。

絶賛ライトアップ中!

そして、これまた「あれっ」という話が。国道の脇に「C58 239」のオブジェ(「SL 銀河 遠野ビュースポット」という名前だったようです)がありましたが、まさしくその「SL 銀河」が 2015/4/25 から運行を再開していたんですね。
この日は 5/3 の日曜日でしたから、上り・花巻行きが運行される予定だったようです。宮守着が 14:27 ということですから……流石にこれは待てませんね(汗)。

ポスターをよーく見ると、左上に「遠野市市制施行 10 周年」と記されていました。えっ、遠野市ってそんなに歴史が浅かったっけ……と思ったのですが、どうやら宮守村と新設合併してから 10 年とのこと。そりゃあそうですよねぇ。

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2018年7月24日火曜日

春の東北小旅行 2015 (47)「一部凍害」

宮守のアーチ橋の話題をもう少し続けます。
コンクリート橋で強度を稼ぐためにはアーチ型にする必要があるのですが、宮守川橋梁は、径間に謎の横穴が開けられています。
この「小窓」からは雨水などが漏れ出していて、結果的にコンクリート製の橋脚を汚してしまっていました。これでは美観上よくない、となったのか、
下部に「ひさし」が取り付けられたようです(横には橋上からの排水を通す雨樋も見えますね)。これで多少はマシになるのでしょうか。

一部凍害

この排水問題は主に美観のため……と思ったのですが、実はそれは大きな勘違いかもしれないことに気づきました。国道から見える部分の橋脚に、落書き……じゃなくて次のような文字が記されていたのですね。
読みやすいように拡大したものがこちらです。「一部凍害」とあります。
小学校の理科の授業で習ったかと思いますが、水は凍らせると体積が膨張します。そのため、たとえば橋脚内に水が染み込んで、それが凍ってしまった場合、氷は僅かではありますが橋脚自体を膨張させるように作用します。春になると凍っていた水分が融けて水に戻りますが、凍っていた頃に押し広げた空間は元には戻らず、結果として空洞ができることになります。

空洞に溜まった水が再び凍結すると、今度はより大きな力で膨張しようとします。このサイクルを繰り返すことで、最悪のケースではコンクリートにヒビが入ることになります。

積丹半島に向かう国道 229 号の「豊浜トンネル」で大規模な岩盤崩落が生じたのも、トンネル直上の岩山に染み込んだ水分が凍結したことにより空洞が形成されたことが原因ではないかと言われていますね。

橋脚に記された「一部凍害」が、どのレベルの破壊を意味しているのかは良くわかりませんが、寒冷地におけるコンクリートやアスファルトにとって、水分がいかに面倒な存在かということを改めて認識させられます。橋脚の側面を水が伝うと薄汚れてしまう……というのもその通りなのですが、少しでも水分を含ませたくない、というのがより大きな理由なのかもしれません。

午前 8 時 28 分

道路の向こう側(北側)も、当然ながらほぼ同じような状態でした。
こちらにも「一部凍害」の文字が見えますが、横書きなので見やすいですね。小窓から水が垂れていてその跡が黒くなっているところや、下部に「ひさし」がついているところまで同じですね。
歩道を歩いて橋の西側までやってきました。車を停めた道の駅が随分と遠くに見えますね。
ちなみにこの時点で、まだ朝の 8 時 28 分です。随分と日は高いですが、5 月ですし、しかも東北ですし。秋田港の佐原商店でうどんを食べたのが朝の 6 時頃ですから、いかに「秋田港 5:50 着」という運行ダイヤが大きな可能性を秘めているかということに、改めて気付かされます。

あまりに早く宮守に着いてしまったので、この後、当初の予定に無かったところに向かうことになります。

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