涅槃
新潟市の寺院を訪問したイザベラによる、仏教寺院の解説が続きます。この寺院の境内には、蓮の花の上にいつもの姿勢で座っているとてもみごとなブロンズ製の釈迦像があります。仏教徒が清らかさと正しさで地獄の拷問を逃れて達するのが、この釈迦像の表している涅槃です。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263 より引用)
「涅槃」と言えば沖雅也ですが、なるほど、地獄の先に存在する場所……なのでしょうか。ちなみに「涅槃」を英訳すると Nirvana となるのだとか。Nirvana と言えばカート・コバーンですよね。「涅槃」の中にある「釈迦」について、イザベラは次のように解釈していました。
釈迦は眠っているのでもなく、覚醒しているのでもなく、動いているのでも、考えているのでもなく、意識があるかどうかは不確かです。彼は存在する──それがすべてです。なすべきことを終えた──朦朧とした至福、無が残っています。これが敬虔な仏教徒の切望しうる最良の来世なのです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263 より引用)
「朦朧とした至福、無」という概念はなかなか難解に思えますが、原文では a hazy beautitude, a nagation とありました。これはともすれば「抜け殻」とも捉えられなくも無いのですが、おそらくはもう少し高尚な概念で、現世における諸々のしがらみから解き放たれたような存在……あたりではないかと愚考してみました。最大の悪は生です。最大の善は涅槃、すなわち生における死なのです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263 より引用)
これまた、なかなか深い一文ですね。イザベラは一体どこでこのような「悟り」を開いたのでしょうか。この考え方が世界中の仏教徒に当てはまるのかどうかは知り得ませんが、少なからず日本人の死生観と一致するところがありそうです。仏教のやさしさ
イザベラは、キリスト教と対立する「異教」である筈の仏教についての考察を続けます。寺院を訪れるたびにわたしはいつも、仏教がアジアの人々に慈悲、生に対するやさしさと敬いの教えを与えてきた功績を十二分に認めずにはいられません。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263 より引用)
はて、これはどうしたことか……と思ったのですが、イザベラは具体的な例を示して種明かしをしてくれました。その祭壇でいけにえが燻し焼きにされたことは一度としてなく、葉陰をなすその木立が残酷な、あるいは恐ろしいできごとの場となったこともないのです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.263-264 より引用)
ああなるほど。寺の境内では、十字架に磔にされたり血が流れたりと言ったことが無いということですね。またレビ記におけるいけにえのあり方全般、「血を流すことなしに罪の赦しはない」というような記述は、日本人のキリスト教について知りたいと思う気持ちをまちがいなく阻むものと思われます。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.264 より引用)
そういうことですね。ただ、イザベラの読み違いが一つあるとするならば、日本人のこういった資質(性格かも)の形成は、必ずしも仏教の影響だけでは無く、むしろ「穢れ」や「祟り」を(ともすれば必要以上に)恐れることによるところも大きいように思えます。日本人は「永遠の命」がきらい
イザベラの、「宗教」という切り口からの「日本人の分析」は更に続きます。ここでもまた、あのハワイの人々を新たな歓喜でうち震わせた「永遠の命」という概念は、「神の贈り物」より呪いを連想させそうです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.264 より引用)
ふーむ。「不老不死」はともかく「長寿」を願う気持ちは日本人であっても普通に持っていそうな気もするのですが……。そしてイザベラは更に独自の解析を行っていました。神道には来世に関する教えはなく、仏教は純粋でまったき無、すなわち意識の消滅、あるいは意識している個の一部が聖なる釈迦に没入されることを説きます。存在が引き伸ばされることをきらうのは、元来、東洋的です。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.264 より引用)
なるほど。つまるところは「西洋と東洋の違い」に源流を求めたというところでしょうか。これを「安直な考え方だな」と思うことも可能ですが、今まであまりこういった視点から思索を巡らせたことが無かったものですから、これはこれでなかなか興味深く感じられます。日本でよく知られた格言「きらいな相手は生かしておけ」は、人生を不満に思う日本人の思いを端的に示しています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.265 より引用)
「きらいな相手は生かしておけ」の原文は "If you hate a man let him live," とのことで、金坂清則氏の新訳本では「憎き者は生けて見よ」となっているようです。もっとも、これだと全く意味が真逆だという話もありますので、どう考えたものか……。キリスト教を阻む新しい障害
「宗教人」としてのイザベラは、また次のような警鐘を鳴らしていました。キリスト教のもうひとつの障害は(どれもその道徳観の清浄さに対する根が深くて本物の反感とはべつのものですが)、政府から派遣されてイギリスやアメリカで学んでいる日本人学生が帰国して自国の人々に、いささかでも知性と社会的地位のある者はだれひとりとして現在キリスト教を信じていない、キリスト教は破綻しており、支持する者は聖職者と無学な庶民しかいないと語っていることです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.265 より引用)
海外に留学した「日本人学生」が、何故に軒並みこのような感想を漏らしていたのかは少々謎ですが、本質的には「科学」を学ぶために留学したのだと考えると辻褄が合いそうな気もします。つまり、西洋の文化や思想を学ぼうとはしなかったからではないか、と思うのですが……。それはさておき、「宗教人としてのイザベラ」という括りが、実は虚構ではないかと疑いはじめていることにお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。たとえばこの「第十九信」は「普及版」では完全にカットされているのですが、カットされた理由が果たして「奥地紀行とは関係ないから」だけなのか……という疑問を抱いています。
イザベラの「奥地紀行」がイギリス政府のバックアップを受けていたことは広く知られていますが、同様にキリスト教の教会組織からもバックアップを受けていたようでした。そういった背景を考慮すると、先の「新潟での伝道に関するノート」や今回の「第十九信」などは、ページに右肩に「広 告」という文字が入るものだったように思えてならないのです。
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