寺町
イザベラは、新潟の「寺町」という場所に足を運んだようです。ここには寺町という通りがあります。片側にはほぼその全長分、仏教寺院とその土地や僧侶の住まいがあり、反対側はおもに女郎屋で構成されています。
何故に仏教寺院の隣に女郎屋が並んでいるのだろう……というもっともな疑問が出てきてしまうのですが、それはさておき、この「寺町」の所在を確認すべく、地理院地図を見てみました。
寺院の内部
イザベラは、実際に寺院の中も拝観していました。どの寺院でも、高い祭壇が豪奢で、けばけばしい俗悪な装飾はいっさいありません。
「けばけばしい俗悪な装飾」というのは一体どのようなものを想定していたのでしょうか。はっ、もしかして日光の……?
イザベラは、寺院内部の装飾についても、詳らかに記録していました。
祭壇の仏具には中央に孔をうがったふたつきの香炉、両側の花立、その左または右に燭台があり、すべてブロンズ製で、中国の古い図柄から採ったデザインが多いのですが、もとのデザインのほうは初期の仏教伝道者とともにインドから伝来したと言われています。
仏具のデザインについては、中国の影響を色濃く残しているものの、大元はインドから伝来したものである……という理解はかなり正確であるように思われます。イザベラが良く勉強していたのか、周りの人間に恵まれたのか、それとも当時、この程度は一般常識だったのか……。
仏教とローマ・カトリックの形式の相違点
仏教寺院と、その中で執り行われる営みについて、イザベラは「仏教」と「キリスト教」の違いを意識した上で、少なからぬ共通点があるように感じていたようでした。香の煙、小さな鐘のちりんと鳴る音、高い祭壇にともっている蝋燭、僧侶の剃髪した頭とゆったりした衣、平らに伏すお辞儀と行列、知らない言語による読経、「内陣の柵」、淡い明かりなどなど、よく似ているものもわずかにしか似ていないものも、こういった類似点はカトリックの儀式の豪華さを思い起こさせます。
「宗教」という「システム」に「役割」があることを考えれば、多少の類似性が見られるのもある意味当然と言えそうな気もしますが、イザベラは、より具体的に、デザイン面での共通点が多いことに驚いていたようです。
これら厨子、ランプ、燭台、真鐘の器の図柄はどこから来たのでしょう? 仏教、英国国教典礼派、ギリシャ正教、ローマ・カトリック教など、このような図柄はよく用いられ、寺院にある火焔、聖水、儀式を行う聖職者の法衣、祭壇の蝋燭と花、巡礼者の白い衣など、偶然にもよく似ている点にはしょっちゅう驚かされてばかりです。
世界各地の様々な国や地域、民族などに伝わる「神話」については、これまで考えられていた以上に共通項があるんじゃないか……という説もあるみたいですね。イザベラが列挙した各宗教のルーツを遡ったとして、どこまで共通性を見いだせるのかはちょっと興味深いです。まぁ、この種の「研究」に対しては、懐疑的な視点を忘れないようにしないといけないのも事実だったりしますが……。
仏具店のありようさえオックスフォード街の「教会装飾」店に似ているのです。
うーん、これは……(笑)。こればっかりは、「宗教」という「システム」自体の普遍性に依るものではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。
大衆的な説教師
イザベラが、どこまで本気で仏教とキリスト教に共通性を見出していたかは謎ですが、寺院における「説法」にも共通性を見出していたようです。そればかりか、わたしたちが午後の説教を聞きに立派な寺院に入っていったとき、畳敷きの床に座り、茶色の数珠をつまぐりつつ祈祷のことばを唱えているおおぜいの礼拝者の群れもやはり似ています。
「説法」において述者が一種のトランス状態になる……という記述もあるのですが、良く考えたらこの辺も万国共通というか、割と普遍的なもののように思えてきました。
「説法」のクライマックスを、イザベラは次のように記しています。
説教の主題は来世における罰、つまり仏教の地獄の拷問のことです。最初の部分の結論に来ると、それまで狂人の真似をして話していたのが、急に口をつぐみ、ついで「ナム・アミダ・ブツ」という文句を繰り返しました。するとそこにいた人々は数珠を巻いた手をかすかに上げ、力強い大きな声で「永遠なる仏陀よ、救いたまえ」といっせいに答えました。
原文では「ナム・アミダ・ブツ」がどう表現されていたのか……気になりませんか? 気になりますよね?
When he came to the conclusion of the first part, in which he worked himself into the semblance of a maniac, he paused abruptly and repeated the words, “Namû amida Butsû,”
and all the congregation, slightly raising the hands on which the rosaries were wound, answered with the roar of a mighty response, “Eternal Buddha, save.”
寺院内では、人心をとらえきれなくなりつつある宗教の僧侶が、イギリスでと同じように、その開祖の道徳的な教えに従うよう集会者に説き、罪人を待っている罰──筆舌に尽くせぬ拷問や恐怖──や、不浄な魂が憎むべき獣に輪廻転生することを身振り手振りで描写してその説くところを強調しています。
ここで気になったのが「人心をとらえきれなくなりつつある宗教」というワードチョイスが、どのような意図で為されたのだろう、という点です。明治政府の政策により衰退を余儀なくされる一方だった仏教のことを指しているのか、それとも日本における「宗教」そのものの衰退を指しているのか、果たしてどちらだったのでしょう。
FUD(Fear, Uncertainly and Doubt)という、現在でもプロパガンダなどで広く使われる「戦術」があるのですが、説法の内容が FUD そのものなのも興味深いですね。宗教の本質は FUD に対する救済である……というまとめ方は、ちょっと一面的過ぎるでしょうか。
大衆的な説教師の講話はたいへん精力的ではあるものの、今夜これまでよりも清らかなり善良なりになった一家や人の心はあるのでしょうか。
イザベラ姐さん、また言ってはいけないことを……(汗)。
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