2018年3月31日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (521) 「メップ川・トプシナイ川・ペケンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

メップ川

mem-pet??
泉池・川
net-pet???
漂木・川
(?? = 典拠なし、類型あり)(??? = 典拠なし、類型未確認)
JR 室蘭本線の竹浦駅の西側を流れる川の名前です。同名の川が今金にもありますね。

伝統と信頼の永田地名解には次のように記されていました。

Hushko mep  フシュコ メㇷ゚  ?
Ashiri mep   アシリ メㇷ゚   ?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.206-207 より引用)
ありがとうございました(お約束)。

このメップ川ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「メツフ」と記されています。また「初航蝦夷日誌」には次のように記されています。

子ツフ メツフとも云。夷人小屋壱軒有。少し行而凡十丁。此間フシコベツと云字有
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.289 より引用)
今金の「メップ川」は、実は mem で「泉池」ではないか、なんて話がありました。あるいは白老の「メップ川」も mem-pet で「泉池・川」あたりなのかもしれません。

また、「初航蝦夷日誌」には「ネップ」ではないか、という記録もありました。この場合、黒松内町の「熱郛」に近い感じで net-pet で「漂木・川」と考えることも可能かもしれません。

トプシナイ川

top-us-nay??
竹・多くある・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
敷生川の西支流に「飛生川」がありますが、飛生川に合流する支流のひとつに「トプシナイ川」があります(ほかに説明のしようが無く……すいません)。

JR 室蘭本線の「竹浦」駅は、元々は川の名前を同じく「敷生」という駅名でした。例の「ごろが悪い」という謎な理由(お察しください)で「竹浦」に改称することになったのですが、「竹」の字を含めた理由は「背後の山から竹を多く産するので」とされています。

とてもわざとらしい前振りは以上です。「トプシナイ川」は、top-us-nay で「竹・多くある・川」だと考えて良さそうです。

ペケンナイ川

peken-nay??
清冽な・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
敷生川の西支流に「飛生川」がありますが、飛生川に合流する支流のひとつに「ペケンナイ川」があります(色々とすいません)。

白老町と登別市の境界を流れる「ポンアヨロ川」という川があるのですが、その支流に「トプシナイ」と「ペケンナイ」がある(あった?)のだそうです。偶然の一致かもしれないですが、何か妙な感じもしますね(地図の見間違いだったりしたら目も当てられないなぁ、などと)。

「ペケンナイ」は peker(清冽)な nay(川)なのですが、r は後ろの n に引きずられて n に音韻変化します。peken-nay で「清冽な・川」という意味になりますね。

地図を良く見てみると、飛生川やトプシナイ川は山奥から流れているのに対し、ペケンナイ川は台地の端あたりが水源になっています。つまり、伏流水が水源ということになるので、確かに「清冽な水」が流れていると考えられそうですね。

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2018年3月30日金曜日

三江線各駅停車 (終) 「江津」

三江線の全線廃止まで、ついにあと一日となってしまいました。そして、なんともタイミングの良いことに(一回分調整したよね)426D も終点の江津に到着しました。

江津駅(ごうつ──)

今更ですが、三江線の「三」は「三次」を、「江」は「江津」を意味します。ですので三江線の終点は江津なんだよね、と勘違いされるかもしれませんが、実は三江線は江津が起点だったりします。

ですので三次行きが「下り」、江津行きが「上り」です。川は下るのに列車は上るという変な話になってますが、歴史的経緯によるもの……なのでしょうね。三江線が石見江津(現在の江津駅)から川戸まで開通したのが 1930 年(昭和 5 年)で、三江南線(当時)が三次から式敷まで開通したのが 1955 年(昭和 30 年)です。

石見川本から江津までは、前を走るキハ 120-310 に乗車しました。この車両には「三江線神楽号」というニックネームがつけられていて、石見神楽を初めとした三江線沿線の文物で彩られています。
ちなみに後位のキハ 120-314 は……標準のカラーリング、なんでしょうか(あ、でも関西本線を走る車両は違うカラーリングだったなぁ)。

例のアレ「八十神」

江津駅は山陰本線に所属する駅……だったと思いますが、三江線の起点でもあるので、もちろん「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」も設定されています。「設定されています」と大見得を切りながら写真を撮影していないあたり、理由があるような無いようななんですが、それは追々……(あれっ?

そうそう。「例のアレ」の話なんでした。「ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、江津駅の「例のアレ」は「八十神」(やそがみ)とのこと(耶蘇の神ではないので要注意です)。

「八十神兄弟」は、かの「大国主命」の兄でありながら、兄弟二人で弟である大国主を亡き者にしようとするとかで、まるで土曜ワイド劇場のような……(汗)。「演目解説」には、「演目との関連等」として、次のように記されていました。

大国主の恋物語や国造りに尽力する姿は、江津ゆかりの柿本人麻呂とどこかイメージが重なりはしないだろうか。
うーん、そうですかね……?(ぉぃ

出雲大社の祭神・「縁結び」の神・大国主が主役のこの神楽駅を出発点に、三江線に乗って「縁が深まる」石見の旅を楽しんでいただきたい。
あっ、これには納得です。まぁ石見は石見であって出雲では無いんですが、細かいことは考えないようにしましょう。

三江線のラインカラーは水色だった

江津駅の駅名標ですが、三江線の列車が発着する 3 番のりばは水色のラインカラーが入っていますが……
裏側は朱色のラインカラーになっています。どうやら山陰本線の米子-益田間のラインカラーが朱色のようですね。
ラインカラーは時刻表にも適用されているようで、山陰線の「D」の文字の背景が朱色になっています。
三江線の「F」の文字(の背景)は水色ですが、あっ、これってラインカラーだったんですね……(なにを今頃)。この水色は「江の川の色」をイメージしたものなのだそうです。いや、てっきり JR 西日本のコーポレートカラーかなーとばかり……(汗)。
列車の本数の違いもポイントですが、朝の 6 時に始発が出たあと、次の列車が出るまで 6 時間 34 分待ちというのもなかなか……。通学の便を考えると 12:34 発を前倒しするわけにも行かなかったのでしょうか(通学利用があったと想定しての話ですが)。

「例のアレ」の裏側

2 番のりばで出雲市方面を望みます。駅屋が木製なのがすごく味わい深いですね。
ちなみに、右側に待合用の椅子があるのにお気づきでしょうか。この椅子は 2 番のりばを向いていますが、裏側の 3 番のりば側にも同じように椅子があるのですね。そしてその上の白いパネルに「例のアレ」が掲出してあったようです。

……要するに、すぐ近くに居ながら「三江線神楽愛称駅名」の駅名標の存在に気づかなかった、ということです。すんごく注意力散漫だったわけですが、その理由はまた後ほど……(あれれっ?

語り継ぐ人もなく

楽しかった三江線の旅も、ついに終点までたどり着いてしまいました。「ヘッドライト・テールライト」が聞こえてきそうな気分です。

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2018年3月29日木曜日

三江線各駅停車 (55) 「新江川橋」

三江線の全線廃止まであと二日となってしまいましたが、まるで計算したかのように 426D も終点の江津が見えてきました。「計算したんじゃないの~」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょうど先週あたりに気づいて「うわ、すげぇ」と驚いていたところです。
426D は江津本町駅を出発して、終着駅の「江津」を目指します。江津本町から江津までの最後の 1.1 km を、426D は僅か 2 分で駆け抜けてしまいます。

新江川橋

謎な構造の橋が近づいてきました。いや、この橋、上路橋のようにも見えるのですが、下路橋のようにも見えますよね。近くで見た感じだと、橋桁の上にフェンスがあるので、上路橋のように見えます。
ところが、実はこうなっていました。この橋は「新江川橋」(しんごうのかわばし)という名前で、上が国道 9 号(江津道路)、下が市道新江川橋線という、二層構造の橋だったのでした。
この「江津道路」は暫定 2 車線らしいのですが、「新江川橋」は拡幅を考慮した設計になっているんでしょうか……? もしかして 4 車線化する時には、南側にもう一つ橋を架けるつもりなんでしょうかね。

郷川橋梁

「新江川橋」の下をくぐって更に北上すると、今度は古風なスタイルの橋が見えてきました。手前に見える古風なトラス橋が山陰本線の橋のようです。
ちなみにこの橋の名前は「郷川橋梁」なのだそうで、このあたりでは「江の川」という名前で統一されるまでは「郷川」と呼ばれていたのだとか……(要出典)。
山陰本線の橋のすぐ向こう(海側)には、国道 9 号の橋も見えます。

間もなく江津駅

三江線は長い左カーブで 90 度以上向きを変えます。右手に山陰本線の線路が見えてきました。
江津駅のホームが見えてきました。1 番線(だと思う)には、懐かしの首都圏色に塗られたキハ 47(ですよね)の姿が見えます。
江津駅の駅名標が見えてきました。426D が江津駅に到着するまで、本当にあと僅かです。

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2018年3月28日水曜日

三江線各駅停車 (54) 「江津本町」

三江線は、県道の「三江線」こと県道 112 号「三次江津線」の横を走ります。県道の写真はあまり撮影していなかったのですが、雰囲気を掴む上で良さそうな写真が出てきました。
センターラインの無い道で、ガードレールもいい感じに錆が出ています。このあたりは三江線の代行バスが通らなかったというのも理解できます。

あの巨大な橋は

千金から、次の「江津本町」までは 2.3 km ほどの距離です。ほぼ川沿いですが、途中にトンネルが二本ほどあります。
トンネルを抜けると、再び江の川の雄大な流れを眺めることができます。手前の県道 112 号は車同士のすれ違い用に少し広くなっていますね。
少し先ですが、なんだか凄く巨大そうな橋が見えています。

江津本町駅(ごうつほんまち──)

千金を出発して 6 分ほどで、江津本町駅に到着しました。江津本町の次は、終点の江津駅です。
単なる竹やぶの写真に見えるかもしれませんが、いえいえ決してそんなことはありません。この写真をよーく見るとですね……
ほら! 江津本町駅でしょ?(汗) いや、一応写真は撮影したんですけど、他のお客さんが思いっきり入ってしまっているので……。

「本町」は何処に

「江津本町」という、いかにも「旧市街」風の駅名がついているのに、見渡す限りでは駅の周りには駅以外の建造物が見当たりません。


ただ、この先の道を左に進むと、実際にすぐ江津の旧市街に出ることができるようです。実はこの「江津本町駅」、開業が 1958 年(昭和 33 年)なのですね(隣の千金駅と同じ日)。このあたりに三江線を通すときに、江津本町の市街地に近いあたりは鉄橋で抜けてしまっていたので、駅を設置できなかった……というのが実情でしょうか。


現在の江津の市街地は、海側の国道 9 号沿いに広がっていますが、かつての町役場は江津本町の旧市街の中にあったようです。

例のアレ「恵比須」

お待ちかねの(?)「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」のコーナーです。江津本町駅の「例のアレ」は「恵比須」とのこと。蛭子さんだったら、バス旅で江津市内も通ったことがある筈なんですけどね。

ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「恵比須」の舞台は「美保神社」とのこと。あれっ、それはもしかして美保関町(現在は松江市)のことでは……と思ったのですが、どうやら正解だったようですね。

美保神社(みほじんじゃ)は、島根県松江市にある神社である。式内社で、旧社格は国幣中社。
(Wikipedia 日本語版「美保神社」より引用)
「松江市にある」となっていますが、松江市美保関町ですね。

事代主神系えびす社3千余社の総本社である(蛭子神系のえびす社の総本社は西宮神社)。
(Wikipedia 日本語版「美保神社」より引用)
ありゃっ、蛭子さんは同業他社だったみたいですね。失礼しました。

それにしても、江津と美保関、同じ県内とは言えやや西寄りの江津と最東端の美保関。ちょっと離れすぎてるんじゃないかと思うのですが……

江津は「江の川の津(港)」の意味で、昔は貿易の主要地であった。
これはわかります。多分そうなんだろうなぁと思っていました。

ここは港に因み、商売繁盛・福徳円満の神・恵比須様にあやかりたい。
おっ、久しぶりですね、この強引で無理やりな感じはっ!

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2018年3月27日火曜日

三江線各駅停車 (53) 「千金」

江津行きの 426D は、江の川に寄り添うように西に向かって走ります。手前に県道 112 号「三次江津線」も見えていますが、車の姿は滅多に見かけないような……。

千金駅(ちがね──)

三江線の線路は、一瞬江の川沿いから離れて、短いトンネルを通ります。トンネルを抜けるとすぐに駅のホームが見えてきます。
千金駅に到着しました。線路の横にホームがあるだけの単純な構造ですが、その割に……というのは失礼ですが、結構大きな待合室がありますね。
千金駅の開業は 1958 年(昭和 33 年)とのこと。当時はちょうど蒸気機関車からディーゼルカーに変わった頃で、加減速に優れたディーゼルカーの恩恵を受けるべくして建設された駅のひとつでしょうか。
駅舎(待合室)の横に「例のアレ」の表示版が見えますね。

例のアレ「日本武尊」

ということで「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」の時間です。一攫千金を夢見る駅の「例のアレ」は、なんと……
ピントが合ってません!(お約束) いえ、驚くべきはそこでは無く……。千金駅の「神楽愛称駅名」はなんと「日本武尊」とのこと。以前に「仲哀天皇」の名前を見かけたときも驚きましたが、ついに「ヤマトタケルノミコト」が出てきてしまいましたよ……。

「日本武尊」と言えば「草薙剣」ですよね。……あっ、そういうことか! 「ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」には、「演目との関連等」として次のように記してありました。

千は優れている、金は鉄のことで、かつて良質の砂鉄が採れたという。
日本武尊は石見神楽を代表する太刀舞であり、「草薙剣」の威徳を語っている。
「千金」という駅名からは、一攫千金のゴールドラッシュを思い浮かべますが、当たらずといえども遠からず。カネはカネでも鉄が採れたのですね。

千金には橋がなかった

駅を出発してすぐのところに踏切がありました。警報機のある踏切ですが、遮断機があったかどうかは……。Google のストリートビューは残念ながらこの踏切には入っていないようです。
駅の西、約 0.5 km あたりに例の県道 112 号が通っているのですが、お世辞にも広いとは言えない道幅だからか、運休時の代行バスは千金には来ないのだとか。広い広い江の川も、三江線の駅の近くにはほぼ必ず橋がかかっていたものですが、千金駅の近くには橋がありません。駅の近くに橋がかかっていないのは乙原駅以来でしょうか。
列車は左カーブで 90 度近く向きを変えて、再び江の川に寄り添うように走り出しました。終点の江津まではあと僅かです。このあたりの江の川はまるで海のようですね。

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2018年3月26日月曜日

三江線各駅停車 (52) 「川平」

江津行きの 426D が川戸を出発しました。川と線路の間の土地は建設資材置き場になっていました。
程なく三江線は山と川の間の限られたスペースを走ることになります。このあたりでは手前に県道 112 号「三次江津線」(!) のガードレールが見えますが、この県道、なんとこの先 600 m ほどで突然プッツリと途切れることになります。
そんなわけで、この県道 112 号「三次江津線」、Wikipedia ではこんな風に書かれてしまっています。

  • 路線名称からすれば県道の三江線となるが、JRの三江線とは異なり、未だに全通していない。
(Wikipedia 日本語版「広島県道・島根県道112号三次江津線」より引用)
……(汗)。

川戸から、次の「川平」までは 6.9 km ほどあります。間に駅があっても不思議ではない駅間ですが、県道どころか道すら無いような場所なので民家もほとんど無く……駅が無いのもまぁ当然かな、という場所のようでした。

川平駅(かわひら──)

江津行きの 426D は、川戸から川平までの 6.9 km を 13 分かけて走ります。表定速度は約 31.8 km/h ということになりますね。川平駅のホームが見えてきました。
川平駅に到着しました。1999 年までは交換設備があったとのことで、対向側にもホームと駅名標が残っています。ただ、既に線路は撤去されているので、対向側のホームが使われることはもう二度とありません。
使われなくなって 17 年目(撮影当時)ですが、綺麗なものですね……(フォーカスは合ってないけど)。
もう使われることのない旧ホームで見かけたのですが、これは待合室の基礎とかでしょうか。

川平駅の「歴史」

川平駅の開業は 1930 年(昭和 5 年)、三江線が石見江津(当時)から川戸まで開通した際に設置された駅です。三江線の中では最も古い駅のひとつ、ということになりますね。

Wikipedia に川平駅の「歴史」が記されているのですが……

  • 2018年(平成30年)
    • 3月1日:当駅前にある桜の木が、代替バスの回転場所整備に伴い伐採される。
(Wikipedia 日本語版「川平駅」より引用)
うわー、これは切ないですねぇ……。

例のアレ「大江山」

川平駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「大江山」とのこと。「大江山」と言えば「生野」、「生野」と言えば「銀山」ですが、もしや「銀山つながり」じゃないですよね……?

ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「演目との関連等」として、次のような説明文が付されていました。

川平神楽社中は古くから新曲目である「大江山」を伝えており、酒呑童子面は大型で自慢の逸品である。
ふむふむ。「古くから新曲目である──」という表現が狐につままれたような感じ位がして素敵ですね。地元アーティストの持ちネタが採用されたということのようで、銀山は関係なかったようです(ほっ)。

県道 112 号

川平を出発すると、三江線は再び江の川沿いの狭い場所を走ります。ちなみに手前に見えているのが、うぃきぺに「未だに全通していない」上に「存在意義は希薄になっている」とまで言われている県道 112 号です。

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2018年3月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (520) 「オモンベツ川・倶多楽湖・クッタリウス川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オモンベツ川

o-mu-un-pe
河口・塞がる・そうである・もの
(典拠あり、類型あり)
白老町の「虎杖浜」の西を「アヨロ川」という川が流れていますが、オモンベツ川は JR 室蘭本線と国道 36 号線の間でアヨロ川と合流する支流の名前です。

永田地名解には次のように記されていました。

O mu un pe  オ ム ウン ペ 川尻ノ塞ル川 旱スレバ塞リ浪スレバ破裂ス故ニ此名アリ幌別土人ハ「オムンベペッ」ニシテ股引即チ二股川ナリト云ヒシハ非ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.207 より引用)※「浪」は正しくは「氵勞」

あっ、なるほど。確かに o-mu-un-pe で「河口・塞がる・そうである・もの」と解釈することができますね。そして確かに omompe は「股引」を意味するそうです(笑)。永田っちは「非なり」としていますが、アヨロ川とオモンベツ川が見事に途中で二手に分かれているのも確かなんですよね。

ところで、omompe で「股引」を意味するそうですが、発音はどちらかと言えば「モンペ」に似てますよね。これは偶然の空似なのか、それとも……?

倶多楽湖(くったら──)

kuttar-us-to
イタドリ・多くある・湖
(典拠あり、類型あり)
白老町の南西部に位置する湖の名前です。きれいな円形の湖ですが、これは火山のカルデラ全体に水が溜まってできたからだとか。カルデラ自体もとてもきれいな形をしていて、流入河川・流出河川ともに存在しないというのも特徴的です。

「東西蝦夷山川地理取調図」には、湖のあたりに「クツタルシ」と記されています。倶多楽湖から見て南南東の方角に「虎杖浜」というところがあるのですが、この地名の由来が kuttar-us-iイタドリ・多くある・ところ)でした。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

倶多楽湖 くったらこ
 白老町内の湖沼名。登別温泉の裏,虎杖浜からいえばその上の処の山中に美しい小カルデラ湖があって倶多楽湖と呼ぶ。クッタルシ・トーと呼ばれたもので,たぶん「虎杖浜の・湖」の意であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.385 より引用)
そういえば「たーらーこー」を連呼する歌がありましたよね(全く関係ない)。

さて。山田さんは「倶多楽湖」が kuttar-us-to と呼ばれていたことから「虎杖浜の・湖」だったのではないかとの推察していました。ただ、「東西蝦夷山川地理取調図」では湖のところに「クツタルシ」と記されていて、虎杖浜のあたりには「ヲモンヘ」や「ヒンナイフ」(永田地名解に「ピンナイ プト゚」という項目あり)という地名が並ぶものの、「クツタルシ」に相当する文字はありません。

このことから、山田さんの推論とは逆で、kuttar-us-i は元々「倶多楽湖」のあたりを指す地名?だった可能性もあるんじゃないかなぁと思ったりもします。

クッタリウス川

kuttar-us(-nay?)??
イタドリ・多くある(・川)
(?? = 典拠なし、類型あり)
虎杖浜と竹浦の間を流れる川の名前です。これも kuttar-us(-nay?) で「イタドリ・多くある(・川)」と考えるのが自然なのですが、古い記録には該当する川が見当たりません。

そして「ヒンナイフツ」あるいは「ピンナイプト゚」という地名が失われているのですが、前後関係を考えると現在の「クッタリウス川」の河口あたりがそうだったと考えられそうです。

「ヒンナイ」あるいは「ピンナイ」は pin-nay で「傷・川」だったと考えられるかと思います。具体的には「山容を深くえぐる川」を形容した表現なのですが、クッタリウス川もほぼ真っすぐ山に切り込んでいるように見えます。

問題は、なぜ「ピンナイ」という川名が「クッタリウス川」に変わったか、なのですが、これは……なぜでしょうね。倶多楽湖のカルデラの東側に「窟太郎山」という傑作な名前の山があるのですが、クッタリウス川を遡るとちょうど「窟太郎山」のあたりに出る……と言えなくも無いです(それがどうした、という話でもあるのですが)。

まぁ、アイヌの川の名前も不滅不変という訳では無く、時代とともに変遷することも無いわけでは無いので、ここもその例だったということでしょうか……。

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2018年3月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (519) 「ポントコ山・クスリサンベツ川・カルルス温泉」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポントコ山

pon-tokom
小さな・小山
(典拠あり、類型あり)
サトオカシベツ川の上流部の東側にある山の名前です。アイヌは、川についてはほぼ例外なく名前をつけていましたが、一方で山については割と無頓着だった印象があります。そういう意味では「ポントコ山」という名前は結構貴重なものなのかもしれません。

地理院地図に名前が残るほどの山の割には、手持ちの資料にはあまり情報が無く……。辛うじて更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」に記載がありました。

 ポントコ山
 富浦の山手にある小さな瘤のような山、ポンは小さいまだは子供の意味で、トコはトコㇺの訛りで瘤のこと。タンコブのような小山という意味である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.64 より引用)
ふむふむ。pon-tokom で「小さな・小山」と解釈したのですね。

注目すべきは、更科さんも知里さん流の「pon = 子供」説に従っているところでしょうか。「子」がいるなら「親」もいる筈なのですが、地形図を眺めた限りでは近くにそれっぽい山は見当たらないように思えます。

この場合の比較対象は……来馬岳なんでしょうかね。スケールも距離感も違いすぎるようにも思えますが、まぁ、別に決まりがあるわけでも無いでしょうし……。

クスリサンベツ川

kusuri-e-san-pet
薬湯・そこで・山から出てくる・川
(典拠あり、類型あり)
登別川を遡ると登別温泉がある……と漠然と考えている方も少なくないと思いますが(自分もそうでした)、実はそれは誤りで、登別川を遡った先には「カルルス温泉」があります。この「カルルス」の由来についても面白い話があるので、後でご紹介します。

本題に戻りますと、登別温泉は、登別川の支流である「クスリサンベツ川」の上流にあります。この「クスリサンベツ川」ですが、知里さんと山田秀三さんの共著「幌別町のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

(76) クスリエサンペッ。<kusúri-e-san-pet(薬湯・そこを通つて・出てくる・川)。クスリサンベツと云うのは和人なまり。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『幌別町のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.20 より引用)※ 原文ママ

kusuri-e-san-pet で「薬湯・そこで・山から出てくる・川」と読み解けそうでしょうか。e が補完されているあたりに知里さんの拘りを感じますね。

kusuri はどうやら和語由来のようですね。平山裕人さんの「アイヌ語古語辞典」によると、上原熊次郎の「藻塩草」(1792 年)の時点で既に「クスリ」という語彙が使用されているとのこと。もちろん松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」にも「クスリサンヘツ」という文字が記されています。いったいいつ頃から北海道(あ、「蝦夷地」か)に移入したのか、ちょっと興味が湧いてきますね。

服部四郎さんの「アイヌ語方言辞典」によると、kusúri という語彙は(千島以外では)広く使われていたようで、yu (温泉)に対する seseki (温泉)のような旧語彙?は見当たらないようです(「塗り薬」や「煎じ薬」に相当する具体的な語彙はあるようですが)。

カルルス温泉

Karlsbad (Karlovy Vary)
カルルスバード(カルロヴィ・ヴァリ)


登別川の本流を遡った先にある温泉の名前です。来馬岳の麓にあって、近くに「サンライバスキー場」もあります。

わりと感じのいい,たのしい本」として知られる知里さんの「アイヌ語入門」には、次のように記されていました。

このカルルスの語原をアイヌ語で説いた人がある。カルルスは,ka-rur-us で,ka は「上」,rur は「海水」,「us」は「つく」,従ってカルルスは「津浪ノタメニソノ上ヲ水ガ通リスギタ所」の意だったというのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.33-34 より引用)
知里さんは、この解釈を「まことにゴモットモといいたいような,巧みな説である」としながらも、「しかし,ぜんぜん成立の余地のない説である」として、具体的には次のように反論しています。

第一,語法上からいって,その人のいうような意味であったら,アイヌ語では,「カルルス」ka-rur-us-i でなく,「カシルルシ」kasi-rur-us-i(その上に・海水が・ついた・所)とならなければならない。ka は単に「上」の意,kasi は「その上」の意である。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.34 より引用)
なるほど。確かに ninar-ka で「台地の・上」とか ri-hur-ka で「高い・丘の・上」という地名がありますが、「上の表面」であれば kasi としないといけない、ということですね。

第二,この温泉は津浪なぞあっても,海水なぞ通り越しそうもない山奥にある。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.34 より引用)
これはまぁ、そうですよね。普通に考えて来馬岳の麓まで津浪がやってくるとはちょっと考えがたいです。

最後に,そしてこれこそ決定的な理由であるが,史実がそれの成立を許さぬ。この温泉は,ラジウム含有単純泉で,その泉質がオーストリアのカルルスバード(Karlsbad カルルス温泉,カルルの温泉の意)に似ているというので,そう名づけられたという歴史が明かになっているからである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.34 より引用)
最初から白黒がついていたにもかかわらず、全力で潰しにかかるあたり、「わりと感じのいい,たのしい本」の面目躍如と言った感じでしょうか(汗)。

ちなみに、「オーストリアのカルルスバード」は、現在はチェコ共和国の「カルロヴィ・ヴァリ」となっています。

バチェラーさんに聞いてみよう

さて、答が出た後で趣味が悪いですが、J・B・バチェラー氏の「アイヌ地名考」を見てみましょうか。

GARURUSHI(ガルルシ)──Karurush「軽石の地」。この名で呼ばれる場所には良質の温泉があり、往時、アイヌの人々はよくそこへ通っていた。KARU は大きな軽石を一般的に表わすアイヌ語である。ここにはそれがたくさんある。RUSH は本来は RU と USH というふたつの単語である。RU は複数の印であり、従って KARURU は実際には「軽石(複数)」ということである。USH または USHI は処格の助詞。従って KARU-RU-USHI は、「たくさんの大きな軽石がある所」ということになり、実際その通りの土地である。
(J・B・バチェラー・著 中川裕・訳「アイヌ地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.210 より引用)
ガルル……(汗)。ちなみに「軽石」を意味する語彙としては、知里さんの「アイヌ語入門」に sís-si-rup (山・糞・とける物?)というものが記録されていたほか、田村すず子さんの「アイヌ語沙流方言辞典」には uhuy-suma(燃えた・石)というものが記録されていました。

そしてここからがメインパートなのですが、

一方、最近になって非常に独創的な語源解が考え出された。ここの水がバーデンのカルルスルーエの水に似ているところから、ドイツ人がこう名付けたというのである。でも、アイヌの人たちは、カルルスルーエという名など聞いたこともないのだ。
(J・B・バチェラー・著 中川裕・訳「アイヌ地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.210 より引用)
なーんだ、バチェラーさんもほぼ正解に近づいていたんじゃないですか。KarlsbadKarlsruhe、かなりいい所まで来てたのに、惜しいことをしたものです。

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2018年3月23日金曜日

三江線各駅停車 (51) 「川戸」

田津駅を出発すると、数分ほどで江の川のすぐ横を走るようになります。随分と向こうのほうに立派な橋が見えてきましたが、あの橋は「桜江大橋」という名前で、川戸駅の駅前通りでもあるようです。
江津行き 426D は、田津駅から次の「川戸駅」までを 12 分ほどかけて走ります。距離は 5.4 km ですから、表定速度 27 km/h ということになりますね。
このコンクリート製の建造物、川戸駅のすぐ手前で見かけたのですが、一体何なんでしょう……? 「1**7-2」と記してあるように見えるのですが、「1957-2」とか「1967-2」あたりだったりするのでしょうか。場所的には川戸駅ホームの最南端あたりに思えるのですが、地下道の入口だったりするのでしょうか。ただ、別の場所に跨線橋があったことも確認できたので、地下道では無いような気もします。

川戸駅(かわど──)

川戸駅のホームが見えてきました。「としょかん」の幟が目立っていますね。そして駅前通りと、その先に「桜江大橋」も見えます。
川戸駅の開業は 1930 年(昭和 5 年)で、三江線が江津から川戸まで開通したときに終着駅として設けられました。現在は「江津市桜江町川戸」ですが、開業当時は「川戸村」だったようですね。
川戸村は 1954 年に近隣の四つの村と合併して「桜江村」となり、二年後には町制を施行して「桜江町」となります。その後 2004 年に江津市に編入されるまで、川戸が町の中心地だったようです。

としょかん!

さすが、元は町の中心駅だっただけあってか、すごく立派な駅舎だなぁ……と思っていたのですが……
えっ? あっ! 「としょかん」って、駅舎が図書館だったんですね! ガラス戸には「江津市図書館」と「桜江分館」の文字が並んでいました。
ありそうで無かった……わけは無く、おそらく知らないだけなんですが、駅と図書館を共存させるというアイディアは悪くないですよね。どちらも公共性が高いですし、あまり利益も生み出しませんし……(ぉぃ)。
もちろん、駅舎がすべて図書館に飲み込まれているわけではなく、建物の北側は駅舎として機能しています。
駅舎であり、また待合室としても使用できる構造です。おそらく昔は改札も設けられていたのでしょうね。

例のアレ「鈴鹿山」

「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」のコーナーです。川戸駅の「例のアレ」は「鈴鹿山」という演目とのこと。主人公は「坂上田村麻呂」ということで、もしかして島根は関係なかったりするのでしょうか……?

ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「演目との関連等」として、次のように記されていました。

地元・川戸舞子連中も得意とするこの演目は、桜江町をはじめとして邑智六調子地帯ならではの演目である。
邑智六調子地帯……なんか難しそうなことが書いてありますが、神楽には「六調子」と「八調子」というスタイルがあるそうです。「八調子」が比較的アップテンポなのに比べ、「六調子」は農作業での所作がベースになっているとのことで、比較的まったりした動きが特徴なのだとか。戦場カメラマンの人向けでしょうか。

この説明は島根県西部公式観光サイト「なつかしの国 石見」の「石見神楽の特徴・違い」を参考にしました。もちろん戦場カメラマンは出てきませんのでご注意を。

川戸駅には「名所案内」も健在でした。「南東 5.8 km」に「千丈渓」というところがある……と書いてありますが、地図を見るとほぼ真南か、南南東くらいのようですね。「作木口」でもありましたが、名所案内の説明は意外とテキトーだったりするような……。
「意外とテキトー」とは違うのですが、上の「江川水系県立公園」もかなりのものです。何しろ「江川水系一円」としか書かれていません。いやー、豪快ですねー(棒)

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