2018年3月20日火曜日

三江線各駅停車 (49) 「石見川越」

鹿賀から、次の「石見川越」までは 3.5 km ほど離れていて、三江線のディーゼルカーはこの区間を 7~8 分ほどで走ります。表定速度は約 28 km/h ということになりますが……まぁ、こんなものですよね。

石見川越駅(いわみかわごえ──)

進行方向右側に郵便局が見えてきました。どうやらこれは「川越郵便局」という名前のようで、すぐ近くに石見川越駅があります。
石見川越の駅が見えてきました。郵便局の建物と比べると、随分と小ぶりな感じがしますね。赤みがかった屋根と、緑ががったトタン屋根のコンビネーションは、どことなく北海道の駅っぽい感じもします。
石見川越駅の開業は 1931 年(昭和 6 年)のことでした。1931 年に三江線が川戸から石見川越まで延伸した際に、終着駅として設けられたのが始まりです。
見た感じでは、一面一線の非常に単純な構造に思えるのですが、Wikipedia の記述を見た限りでは、かつては二面二線構造だったのではとのこと。石見川越が三江線の終着駅だったのは 1931 年 5 月から 1934 年 11 月までの 3 年半ですが、その間一本しか線路がなかったとは考えづらいですしね。

当時は蒸気機関車だったはずですから、機関車の向きまでは変えなかったとしても列車の先頭に機関車を移動していたと思うのです。終着駅ということは列車の進行方向が変わりますから、機関車だけ下り列車の先頭から最後尾(上り列車の最後尾から先頭)に移動させる必要があります。そのために「機回し線」という線路が別にあったと考えられます。

例のアレ「頼政」

石見川越駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「頼政」とのこと。源氏の武将の名前かな……と思ったのですが、やはりそうだったようです。
最近ゴロ合わせが少なくて寂しい感じがしますが、「ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「演目との関連等」として次のように記されています。

甘南備寺に残る「黄櫨匂威大鎧残闕」(はじにおいおどしおおよろいざんけつ)は日本に現存する鎧のうち、3番目に古いもので、平安時代、京都・宇治川の先陣争いで名を残す「佐々木高綱」使用のものとされる。
「甘南備寺」は石見川越駅のほぼ真北にあります(但し江の川の向こう側なので、少し下流側にある橋を渡る必要があります)。「佐々木高綱」と言えば「宇治川の戦い」で梶原景季と先陣争いをしたことで有名な武将ですが、「宇治川の戦い」は源範頼・源義経と源義仲(木曽義仲)の間で争われたのでした。時は寿永三年、西暦では 1184 年の出来事です。

そして「頼政」と言えば「源頼政」ですが、実は宇治川の戦いの四年前に自害しています。なんだ直接の関係は無いじゃないか……と思ったのですが、「以仁王の令旨」に呼応する形で挙兵した頼政は平家の軍勢に追われ、宇治川を挟んで両軍が対峙し、奮戦虚しく敗れた頼政は平等院の境内で切腹したと伝えられています。

なるほど、「宇治川の戦い」で名を挙げた佐々木高綱の鎧が伝わっている「甘南備寺」の最寄り駅なので、やがては「宇治川の戦い」に至る源氏の蜂起の呼び水となった「源頼政」の物語である「頼政」を選んだのだよ……ということですね。若干強引な感じも否めませんが、これはなかなかディープな選択ですねぇ。

鹿賀駅の近くの「鹿賀谷川」から「鹿ヶ谷の陰謀」を連想して「瓶子が倒れそう」なんて訳のわからないことを書いていましたが、まさか翌日にフラグを回収することになるとは……(フラグを立てた自覚はもちろんゼロでした)。

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