2018年3月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (515) 「鷲別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

鷲別(わしべつ)

has-pet?
柴・川
chiw-as-pet?
波・立っている・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
岬の名前で、また JR 室蘭本線にも同名の駅があります。どちらも室蘭市と登別市の境界線上にあるのでカテゴライズにちょっと迷ったのですが、地名としての「鷲別町」は登別市にあるので「登別市の地名」ということで……いいですよね?

駅名ということで、まずは「北海道駅名の起源」から。

  鷲 別(わしべつ)
所在地 登別市
開 駅 明治 34 年 12 月 1 日(北海道炭砿鉄道)(客)
起 源 アイヌ語の「ワシペッ」から出たもので、語源は「チウ・アシ・ペツ」(浪の立つ川)が「チワシペッ」となり、さらに「ワシペッ」になったものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.70 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。chiw-as-pet で「波・立っている・川」ではないかという説ですね。

一方で、永田地名解には違う解が記されていました。

Hash pet  ハシュ ペッ  柴川 增毛郡「パシユペツ」アリ正德園「ワシペツ」ニ作ル此ニ據レバ此「ワシユペツ」ハ「ハシユペツ」即チ柴川ノ義ナルベシ○鷲別村ト稱ス「アイヌ」ハ意義ヲ知ラズ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.190 より引用)※ 原文ママ
has-pet で「柴・川」では無いか、という説のようです。説明を見た感じでは永田っちが他所の地名解を強引に持ち込んだようにも思えるのですが、既に上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」でも次のように記されていました。

ワシベツ
  夷語はハシベツなり。即、小柴の川と譯す。扨ハシとは柴の事。ベツは川の事にて、此川尻へ岸に流木の寄る故、地名になすといふ。未詳。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.50 より引用)
最後を禁断の免罪符「知らんけど」で締めるあたりが流石ですね。

「北海道の地名」によると

山田秀三さんは、「北海道の地名」で次のようにまとめていました。

鷲別 わしべつ
 川名,地名。秦檍麻呂地名考が「ワシベツ。未考。鷲の名をカバチリと称す」とだけ書いたのが尾を引いて,鷲の川説が後まで書かれたがこれは変だ。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.397 より引用)
あらら、そんなことになっていたんですね。そして上原熊次郎地名考については

あの川口の地形から考え得る解で,たぶんアイヌ古老からの聞き書きであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.397 より引用)
として「可能性のある考え方」としていたようです。

山田さんによる再検討

山田さんは、知里さんとの連名で「幌別町のアイヌ語地名」という薄い本を出していました。その中では

(200) ワㇱ ペッ(Wás-pet)。鷲別川。「チワㇱペッ」(<chiw-as-pet 波・立つ・川)の上略形か。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『幌別町のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.33 より引用)
と一行で済ませていますが、氏の単著「登別・室蘭のアイヌ語地名を尋ねて」では大きくページを割いて検討を加えていました。

 ワシベツは古くから伝えられた地名で、北海道最古の地名調べと云われる『津軽一統誌』の地名列記(寛文十年、一六七〇)にも「わしへつ」とあり、元禄郷帳附図と推定される元禄十三年(一七〇〇)「松前志摩守絵図」でも「わしべつ」と明記されている。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.303 より引用)
地名そのものは少なくとも数百年に亘って変遷した気配が無いのに対し、その解釈は忘れられて久しく、地名解「発掘」の試みも続けられてきました。

 語意の伝承が失われているのだし、またワシベツに当る巧いアイヌ語がない。何とか解したいのは人情であるが、誰だって自信がないのが当然だ。古い時代の地名解の書では「未詳」とか「未考」とか疑問の言葉をつけて書かれて来たのであったが、それを受けた後の人になると、だんだん断定的に書かれるようになった。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.303 より引用)
「だんだんと断定的に書かれるようになった」という部分の実際が、この後に示されることになります。

一部和訳説

「鷲別」の解には大別すると「和訳説」「柴川説」「波立つ川説」の三通りがあったようで、古い地名解では「和訳説」を採っているものが目立ちます。

〔東蝦夷地名考〕秦槍麻呂、文化五年(一八〇八)。ワシ別。未考。鷲の名をカパチリと称す。
〔蝦夷地名解〕幕末(松浦日誌より前のものらしい函館図書館蔵本)。夷語昔時カハチリペツなるを後世和人、和語夷言を取り交え、ワシヘツと唱え侯。カバチリとは鷲の事、ヘツは川の事にて鷲川と訳す。未詳
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.303-304 より引用)※ 強調は山田秀三氏による

なるほど、知里さんの「動物編」には次のようにあります。

§339.オオワシ Haliaeëtus pelagicus pelagicus (Pallas)
(1) kapátčir(カぱッチリ)[<kapar( ? ) čir(鳥)]((ビホロ;クッジャロ;チカブミ;チトセ;ウラカワ;シズナイ;サマニ;ホロベツ))
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.199 より引用)※ 原文ママ
元々は「カハチリベツ」だったものを「一部和訳」して「ワシ別」になった、という説のようです。そして、この説がどのように形成されたかを、山田さんは次のように記しています。

 カパッチリ(kapat-chir 鷲)を和訳した反訳地名だと考えたのであるが、古い秦氏の場合は、参考的にそれを附言するに止めていた。だが次の時代の『蝦夷地名解』になると、もう少し大胆に書かれたのだが、それでも未詳と結んでいる。昭和二十二年版『駅名の起源』に迄来ると、「鷲の居る川の意である」と手放しで書かれるのであった。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
このように、「そうかもしれない」→「そうじゃないかな」→「そうである」という謎の変遷を経て「定説」となりかけた「一部和訳説」ですが、山田さんは次のように考えていたようです。

それより古い時代に、そこの地名の半分をわざわざ日本語に訳して呼んでいたのだろうか。何だか後の人の説話くさい。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
三百年前の「津軽一統誌」で既に「わしべつ」と記録されていることから、それよりも昔から地名の半分だけわざわざ日本語に訳していたとは考えづらい……という反論です。確かにごもっともですよね。

「柴・川」説

そして、永田地名解の「柴川説」については……

永田氏は増毛郡の Pash-pet「炭(パㇱ)色の(石のある)川」を古図がワㇱペッと書いたのだから、このワㇱペッも Hash-pet だと説明している。これじゃ理くつにも何もなりやしない。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
「理くつにも何もなりやしない」と一刀両断でした(汗)。但し「ハㇱペッ」が「ワシベツ」になる可能性については「有り得ることである」としています。

「波・立つ・川」説

「波立つ川説」については、次のように記しています。

 チワㇱペッ(浪立つ川)のチを前略したと云う説は、知里さんがはっきり書かれたものであったが、浪の川だと云う考えはバチラー博士の頃から出ていたのであった。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
なんと、驚きの事実が出てきました。

〔バチラー博士 Ainu place-names considered〕大正十四年(英文)。ワシベツ。Surf river(海岸の大波の・川)。河口の大波により名づく。ワㇱはサㇱに同じ。チワㇱ・エコッ・マッ(大波の女神)のように使われる。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
この解については、山田さんは「この解も何のことだか分らない」としています。確かに良くわからないですが……(汗)。

ただ、意味は正解していなかったらしいにしろ、彼がここでチワㇱと云う形を持ち出し、浪川説を書いたことは、後の知里説に繋がっていて面白い。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
そうなんですよね。偶々なのかもしれませんが、実に面白い符合ではあります。

日本国有鉄道北海道総局が発行していた「北海道駅名の起源」は、初版は昭和 4 年に刊行され、その後昭和 25 年に改版されています。改版前の「昭和 22 年版」には次のように記されていました。

〔駅名の起源〕昭和二十二年版。カパチリ・ぺッ(鷲の居る川)の意である。
〔参考〕ワシペツ(波来る川)から出たもので、鷲別川の海に注ぐ所であるから斯く名付けた。またハシュペッ(柴川)の意である。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304 より引用)
そして、高倉新一郎・更科源蔵・知里真志保の三氏によって再検討が加えられた「昭和 25 年版」では、次のように改められていました。

〔駅名の起源〕昭和二十五年版(ここから知里さんが参加した)。チゥ・アㇱ・ペッ(浪立つ川)から出たもので、鷲別川の海に注ぐところに波がたつためにこう名づけたものと思われる。(参考)またハシュ・ペッ(柴川)の意とも解される。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.304-305 より引用)※ 強調は山田秀三氏による
更に、昭和 29 年版では次のように微修正が加わっていました。

〔駅名の起源〕昭和二十九年版。語源はチゥ・アㇱ・ぺッ(浪・立つ・川)がチワㇱペッになり更にワㇱペッになったものである。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.305 より引用)
ここでも、「そうかもしれない」→「そうじゃないかな」→「そうである」という謎の変遷が見られますね。どうやら知里さんの中では「仮説」から「確信」に変化したようでした。

知里さんは、鷲別はその語頭の「チ」が前略されたのだと断定されるようになり、私にもよく楽しそうにその説を話しておられた。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.305 より引用)
ちょうどこの頃に書かれたのが、前述の「幌別町のアイヌ語地名」で、あっさりと chiw-as-pet(波・立っている・川)説だけが紹介されています。

上原説の再発見

ただ、「幌別町のアイヌ語地名」の共著者として名を連ねていた山田さんは内心引っかかるものを感じていたようでした。

 それから約二十年たった。だんだん読んで来た旧記、旧図の中では、鷲別は『津軽一統誌』以来ワシベツ、ワスベツで、チワシの形は出てこない。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.305 より引用)
そして、次のような「発見」がありました。

 三、四年前に、友人佐々木利和さんの好意で、上原熊次郎翁の地名書(国立博物館にあった稀覯書)に接した。金田一京助先生がアイヌ語研究の鼻祖と称えられた上原翁の本であるが、永田方正は、序文その他から照合しても、明かにそれを見ていない。だがこの本は永田地名解と同じく柴川説なのであった。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.305 より引用)
「上原熊次郎翁の地名書」というのは、先に引用した「蝦夷地名考并里程記」のことだと思われますが、永田方正が「蝦夷地名考并里程記」を見ていない、というのは盲点でした。

上原熊次郎の地名解について、山田さんは次のように記していました。

鷲別の場合も、あの川口の景色が目に浮かぶような書き方である処から見ても、当時のアイヌからの聞き書きであろう。それでも「未詳」とした点は上原翁らしい。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.305 より引用)
誰ですか、「禁断の免罪符『知らんけど』」などと書いていたのは……(汗)。

また、山田さんが偶然?入手した「山城屋安右衛門の北海道図」にも大きなヒントがあったようです。

 先日それを拡げて見ていたら、鷲別に当る処にはハシ別と明記してある(後記室蘭の追直の処の図参照)。古い時代には、或はハシベツとも呼ばれていたのでは無かろうか。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.306 より引用)
これらの「発見」から、山田さんは「古い上原熊次郎翁の聞き書きも一考すべきなのではなかろうか」と考えるようになっていたみたいです。

但しそのハシペツは、その聞き書きのように柴の寄り木の川であったか、或は、発生的には厚別川のように濯木の(群生する)川であったのかも知れないと考えた。
(山田秀三「アイヌ語地名の研究 3」草風館 p.306 より引用)
札幌の厚別has(i)-us-pet(灌木・多くある・川)だったのではないかと言われていますが、あるいは「鷲別」も本来は has(-us)-pet で「灌木(・多くある)・川」だった可能性もあるのではないか、と考えたようですね。-us が中略されるのは良くある話ですので、その可能性も十分あるように思えます。

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