2018年2月28日水曜日

三江線各駅停車 (36) 「石見簗瀬」

石見川本行きの 424D は、明塚から次の「石見簗瀬」に向かって走ります。ずっと江の川沿いを走っていましたが、途中から県道 40 号「川本波多線」と並走することになります。
これはもちろん線路を横断するわけではなく、県道を走る車への注意喚起ですね。
明らかに踏切が少なかった 1975 年開通区間(口羽~浜原)とは異なり、このあたりは戦前に開通しているので、踏切も普通に存在しています。線路のメンテナンス中だったでしょうか。ご苦労様です!

石見簗瀬駅(いわみやなぜ──)

石見簗瀬駅は踏切から 300 m ほどのところにありました。
なお、「石見簗瀬」は「いわみやなぜ」と読みます。「──やなせ」では無いので気をつけましょう。
石見簗瀬駅の開業は 1935 年(昭和 10 年)です。1937 年(昭和 12 年)に三江線が浜原まで延伸されるまでの二年間は、石見簗瀬が三江線の終着駅でした。

例のアレ「岩戸」

石見簗瀬駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「岩戸」とのこと。その名の通り、天照大神の「天の岩戸」を神楽にしたものみたいです。
ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「古来石見三宮と称された『天津神社』がある」とのこと。確かに、県道 40 号の橋を渡った先の吾郷地区に「天津神社」があるようですね。

前回が「語呂合わせ」だっただけに、今回は随分とマトモな由来に思えますね……(汗)。

簗瀬の集落

三江線は簗瀬の集落を東から西に抜けていますが、石見簗瀬の駅はなぜか集落の東の外れにあります。これは「天津神社」のある吾郷からの便を考えての立地なんでしょうね。今から思えば駅を二つに分けても良かったのかもしれませんが、ちょっと勿体無いことをしたものです。

道路橋

簗瀬の集落を東から西に抜けたあたりで、三江線は南西に向きを変えます。手前に見えるのは県道の旧道でしょうか。
これは「火打谷川」が江の川に注ぐところでしょうか。旧道の橋が随分とクラシックでいい感じです。
トンネルを抜けると、江の川の対岸にある「栗原」地区に向かう道路橋が見えました。江の川に架かる橋は橋脚が無いものも多いですが、この橋はど真ん中に橋脚が見えますね。川の流れは概ね手前側の橋脚間を流れているので、実質橋脚が無いようなもの、とも言えそうですが。
幅員は決して広いとは言えない道路橋ですが、どれも径間の長いものばかりというのが、いかに橋脚を立てたくないかを如実に示しているようですね。江の川の流れは時として牙を剥くから、心してかからないといけない、ということなんでしょうね。

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2018年2月27日火曜日

三江線各駅停車 (35) 「明塚」

三江線は粕淵を出発すると、今度は南に向かって走り出します。まるで巨大なΩカーブのようですね……。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

野井仮乗降場(のい──)

粕淵から立派な鉄橋で江の川を渡った先に「野井」という集落があります。かつてこの野井のあたりに「野井仮乗降場」があったのだそうです。

歴史
当仮乗降場は、明塚駅 - 粕淵駅間に所在した。1972 年の昭和 47 年 7 月豪雨による江の川の水害で明塚駅 - 浜原駅間が不通になったさい、粕淵駅手前の損傷した橋梁の手前(明塚駅側)に設置され、当仮乗降場 - 粕淵駅間で渡船連絡を行った。代行バスの運行開始にあわせて廃止された。開業日・廃止日ともはっきりしないが、1972 年 11 月号から 1973 年 11 月号までの時刻表に掲載されていた。
(Wikipedia 日本語版「野井仮乗降場」より引用)
あ……、やはり。江の川の鉄橋が割と新しく見えたのは、この水害が契機だったのかもしれませんね。

野井仮乗降場跡から明塚へ

「野井仮乗降場」のあったあたりを通過して、列車は南に向かって進みます。この写真を撮影したのが 11:38 頃なので、思いっきり逆光ですね。
三江線は、並走する道路から見て一段高いところを通っています。並走する道路は大型車が通れないくらいの道なので、代行バスは川の向こう側を通っていたみだいですね。
右手に謎の空き地?が見えてきました(冬でお休み中の畑みたいですね)。間もなく次の「明塚」です。

明塚駅(あかつか──)

明塚駅に到着しました。一面一線のシンプルな構造……というか、線路にホームがついているだけの「仮乗降場」っぽい雰囲気ですね。
明塚駅の開業は 1967 年(昭和 42 年)とのこと。三江線の石見簗瀬と浜原の間が延伸されたのが 1937 年(昭和 12 年)のことですから、開通から 30 年後に設置された駅ということになります。前述の通り、1972 年の水害の際には代行バスが通れる道が無かったため、代行バス化と同時にこの駅は見捨てられたということになりますね。

例のアレ「」

明塚駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「黒塚」という演目だそうです。舞台は陸奥国(栃木県)那須野ヶ原と言いますから、どう考えても三江線は関係無さそうな……。
ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」には、「演目との関連等」として次のように記されていました。

塚とのゴロからの連想。
ついに「語呂合わせ」であることを認めましたね(汗)。

明塚から石見簗瀬へ

このあたりは、江の川の向こう側に県道 40 号「川本波多線」が通っていることもあってか、東側(左岸)の道路はいい感じにくたびれているようです。
江の川はゆったりと右にカーブしています。
三江線も、江の川と山の間の僅かな隙間を縫うように走ります。
県道 40 号の橋が見えてきました。県道がこの橋で対岸に渡っているため、代行バスが明塚駅の前に来ることは無かった、ということになりますね。

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2018年2月26日月曜日

三江線各駅停車 (34) 「粕淵」

浜原を出発して、2 km ほど走って次の「粕淵」に向かいます。トンネルを抜けると……
左前方に、江の川にかかる鉄橋が見えてきました。割と近代的な鉄橋に見えるので、どこかの時点で架け替えられたのでしょうね。

粕淵駅(かすぶち──)

粕淵駅のホームが見えてきました。かつては一面二線ですれ違いができたようですが、反対側の線路は既に撤去されて物置が置かれていました。
粕淵の集落は高台の上にあるみたいですね。

例のアレ「神武」

粕淵駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「神武」なのだそうです。「神武」は、言わずと知れた初代天皇と目されているあの「神武天皇」のことですよね。宇都井駅で「仲哀天皇」の名前を見かけて驚いていたのですが、それどころでは無かったですね(汗)。
ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「神武」という演目は「神武天皇の建国神話の神楽化」とあり、舞台は大和の国(奈良県)のようです。

では何故粕淵に……といういつもの疑問が湧いてくるのですが、

「カヌーの里おおち」や「ゴールデンユートピアおおち」があり、理想郷を求め船に乗って東に向かった神武神話の壮大な浪漫を感じる。
これは……めちゃくちゃ無理があるような……(汗)。

美郷町の中心地・粕淵

さて、気を取り直して「粕淵駅」の話題に戻りましょう。粕淵駅は「美郷町役場」の最寄り駅でもあります。三江線の運行上は浜原駅のほうが重要駅っぽいですが、街自体は粕淵のほうが大きいみたいですね。
「美郷町公式マスコットキャラクター」の「みさ坊」だそうです。プロの仕事っぽい感じですが……どなたのデザインなんでしょう。

美郷町は 2004 年に邑智町大和村が合併して発足した町で、旧・邑智町の役場も粕淵にありました。邑智町自体が粕淵町・吾郷村・君谷村、沢谷村、浜原村が合併して発足した自治体だったようで、昔から一番開けていた町だったみたいですね。
粕淵駅を出発すると、ほどなく江の川を渡ります。駅の手前で見えてきた鉄橋ですね。

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2018年2月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (512) 「幕西町・追直・ニラス岩」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

幕西町(まくにしちょう)

makun-ni-us-i?
奥にある・木・多くある・所
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
胆振総合振興局の西のあたりの地名です。東西に伸びた谷間に住居が密集しているのが印象的ですね。

「東蝦夷日誌」には次のように記されていました。

マクニシ(番屋)漁に行て泊る義也。爰(ここ)より外海へ五六丁也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.85 より引用)
「漁に行て泊る義」???? ……ちょっと良くわからないので詳しく解釈することはスキップさせてください。

永田地名解には次のように記されていました。

Mak ru ushi  マㇰ ル ウシ  後路(ウシロミチ) 幕西町ト稱ス昔後背即チ外海ニ行ク小路アリシ故ニ名ク今ノ土人「マクヌーシ」ト呼ブハ轉訛ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.195 より引用)
mak-ru-us-i で「奥にある・道・ある・もの(川?)」と読めそうでしょうか。makun ではなく mak というのがちょっと不思議な感じがしますが、makun が一部省略されて mak になったと考えられるかもしれません。

一方で、知里さんの薄い本「室蘭市のアイヌ語地名」には少し違う解が記されていました。

(三八) マクニシ(幕西)。原名「マクヌシ」(Makúnusi)。語原「マクン・ニウシ」(<Makún-niusi〔後方の・森林〕)。「ニウシ」(<ni-us-i〔木・群生している・所〕)。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.16 より引用)
あ、こっちは makun ですね。makun-ni-us-i で「奥にある・木・多くある・ところ」と読めます。永田説への批判が無いのが少々残念ですが、runi に転訛したと考えるよりは、最初から ni だったと考えたほうが自然かもしれません。

追直(おいなおし)

o-inaw-us-i?
そこに・木弊・多くある・ところ
oyna-us-i??
物語を語る・いつもする・ところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
室蘭市役所のあるあたりから見て南(外海側)に「追直漁港」があります。現在は舟見町一丁目の南西にも漁港が広がっているようですが、元々は東側の「舟見町二丁目」の南にある岬のあたりの地名だったようです。「追直」で「おいなおし」と読ませるあたり、只者ではない感じがしますよね。

「東蝦夷日誌」には次のように記されていました。

ホンムイ(沙地)、ヲエナヲシ(遠見番所、臺場有)名義、昔し御目見蝦夷が日和待をして遊びし處也と。又ヲは在る、イナウシにて木幣多き義にも取なり。其上に山有、形ち富士の如し。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.86 より引用)
どうやら、ここで言う「ヲエナヲシ」が現在の「追直」のことのようです。「日和待をして遊びし處」か、あるいは「木幣多き義」のどちらかではないか、とありますね。

永田地名解には次のようにありました。

Oina ushi  オイナ ウシ  女ノ歌ヲ歌ヒシ處 土人等松前家ニ謁見ノ途中此處ノ洞穴中ニ舟待セシトキ女夷ドモ浄瑠璃ヲ歌ヒシ處○オ、イナウ、ウシ即チ木弊處ノ義ニアラズト云
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.192 より引用)
oyna-us-i で「物語を語る・いつもする・ところ」と解したようですね。「オイナ」は Oynakamuy を主人公とする口承文芸を意味するとのこと。oyna 自体が「オイナを語る」という意味の動詞になるようです。

永田方正は「木弊處ノ義ニアラズ」としましたが、一方で知里さんは次のように記していました。

(七六) オイナウシ(老名牛)。オイナオシ(追直)。原名「オイナウシ」(Oynausi)。語原「オ・イナウ・ウㇱ・イ」(<o-ináw-us-i〔そこに・幣・群立する・所〕)。古くここの岬の上(次項参照)に海神の幣場(ハシナウシ)があり、そこで祭なども行われたらしい。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.28 より引用)
うはー。真っ向から見解が割れましたね。知里さんは o-inaw-us-i で「そこに・木弊・多くある・ところ」ではないかと考えたようです。「ここの岬の上」というのが、どうやらこの場所みたいです。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ということで、今回も例によって永田地名解と知里さんの見解が割れたわけですが、「東蝦夷日誌」や永田地名解の見解については次のように記していました。

松浦日誌にヲエナヲシ(名義昔御目見蝦夷が日和待して遊びし処也)とあり、永田地名解に「女ノ歌ヲ歌ヒシ処」(土人等松前家ニ謁見ノ途中此処ノ洞穴中ニ舟待セシトキ女夷ドモ浄瑠璃ヲ歌ヒシ処)とあるのも、古くこゝで祭が行われらしいことを示す。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.28 より引用)※ 原文ママ
おやおや、これは上手に他の説を取り込みましたね。「武闘派」の知里さんにしては珍しい感じすらします。おそらく知里さんの説のほうが本来の由来に近いような気がするのですが、松浦武四郎以来の伝承も完全には否定出来ないので、今日のところは一旦両論併記としておこうかと思います。

ニラス岩

ni-rasu
木・木片
(典拠あり、類型あり)
追直漁港の南側にある岩礁の名前です。今は防波堤の一部に取り込まれているようにも見えますが、元々は陸から離れた岩礁だったと思われます。

知里さんの「室蘭市のアイヌ語地名」には、次のように記されていました。

(七八) ニラス。原名「ニラス」Niraš;Nirašu)。語原「ニ・ラス」(<ni-ras〔木・片〕;ni-rasú〔木・の片〕)。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.28 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。ni-rasu で「木・木片」だと言うのですね。ras あるいは rasu という語彙はちょっと目新しい感じがします。

海中の岩礁に「木片」というのも意味不明な感じがしますが、知里さんによると次のような伝説に由来する、とのこと。

伝説によれば、太古、創造神コタンカルカムイがこゝで木を伐っていたら木片が飛んで海中の岩になつたという。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.29 より引用)※ 原文ママ
更には次のような伝説もあったのだそうです。

また他の伝説によれば、昔二人の女が相対して寝たのが、この岩になつたという。岩の形が恰も二人の女が相対して寝ているかのように見えるので生まれた伝説であろう。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.29 より引用)※ 原文ママ
もはや木片も木っ端微塵な感じがしますが……(汗)。

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2018年2月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (511) 「増市町・小橋内町」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

増市町(ますいちちょう)

mas-chise
カモメ・家
(典拠あり、類型あり)
ハルカラモイの東側、測量山の北西側の地名です。三方を山に囲まれた地形で、住宅街が広がっています。海側の高台には「北海道室蘭清水丘高等学校」がありますね。

増市町の西には「ハルカラモイ」がありますが、増市町の南には「マスイチセ」があります。偶然の一致と言うにはあまりに似すぎていますが、これはやはり偶然ではなく、「増市」という地名は「マスイチセ」に由来するみたいです。

というわけで今回も、知里さんの薄い本「室蘭市のアイヌ語地名」を見ておきましょうか。

(七〇) マスイチ。原語「マスイチセ」(Masúycise)或は「マシュイチセ」(Mašuycise)。マスイチはマスイチセの下略形。マスイチの浜などと呼ぶ。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.27 より引用)
「マスイチセ」が「マスイチ」に化けた理由が若干謎なのですが、やはり日本語としての語呂、あるいは据わりの良さからなんでしょうか。そして気になる地名解ですが……

語原はマㇲ・チセ」(<mas-cisé〔海猫(の)・家〕)、或は「マㇱ・チセ」(<mas-cisé〔同上〕)。こゝの岩穴にカモメやウミネコの巣が多かつたので名づけたという。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.27 より引用)
ふむふむ。mas-chise で「カモメ・家」と考えられそうですね。現在は「閑静な住宅街™」という趣のある増市町にピッタリな由来でしょうか。

念のため「東蝦夷日誌」も見ておきましょうか。

マシユエチセ(岩平)黑く觜(くちばし)と蹼(みずかき)が赤き鳥が住む故號くと云。又鷗が留る穴があるともいへり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.86 より引用)
この特徴だと「ユリカモメ」が近そうでしょうか。

永田地名解には、また少し違った解が記されていました。

Mashui chise  マシュイ チセ  ツナギ鳥ノ巣
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.193 より引用)
はて、「ツナギ鳥」とは一体……? ちらっと調べた限りでは、焼鳥の部位の情報しか見当たりませんが……(汗)。

小橋内町(おはしないちょう)

o-has(-un)-nay?
河口・細枝(・ある)・沢
o-{has-inaw}(-un)-nay?
そこに・{枝つきのイナウ(木幣)}(・ある)・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
増市町の北東に位置する地名です。アイヌ語由来の地名にありがちな無理くり感が無いので見落としてしまいそうになりますが、これもおそらくアイヌ語由来の地名です。

知里さんの「室蘭市のアイヌ語地名」には、非常に力のこもった解説が記されていました。ちょっと長いですが、引用してみましょう。

(四四) オハシナイ(小橋内)。原名「オハㇱナイ」(Ohašnay)。語原は次のような説が考えられる。(イ)「オ・ハㇱ・ウン・ナイ」(<o-has-un-nay〔沢口に・灌木・ある・沢〕)で、「オハシュンナイ」→「オハㇱナイ」と転訛した。(ロ)この「オハㇱナイ」に対して、後のアイヌは簡単に「オ・ハㇱ・ナイ」(o-has-nay〔川尻の・流木の・沢〕) と解していたかもしれない。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.18 より引用)
o-has(-un)-nay で「河口・細枝(・ある)・沢」という解釈ですね。とても妥当な説に思えるのですが、知里さんはもう一歩踏み込んだ解釈を記していました。

(ハ)この「ハㇱ」(haš)は単なる「灌木」「柴」の意味ではなく、「ハㇱナウ」(<has-ináw〔柴・幣〕)の意味だつたのではなかろうか。そうだとすれば、アイヌが海幸の神に捧げる柴幣の幣場が昔こゝの岬の上にあったのでそう名づけられたのかもしれない。それだと「そこに・柴幣の幣場のあつた沢」の意である。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.18 より引用)※ 原文ママ
八雲町に「ハシノスベツ川」という川があるのですが、これを {has-inaw}-us(-pet) で「{枝つきのイナウ(木幣)}・多くある・川」ではないかと考えていました。似たような考え方で、知里さんは o-{has-inaw}(-un)-nay で「そこに・{枝つきのイナウ(木幣)}(・ある)・沢」と解釈したようです。

知里さんが「岬の上」と記したのは、小橋内町と港南町の間の山のことでしょうか。都合の良いことに、現在も「小橋内稲荷神社」という神社が存在するようです。

知里さんは、has-inaw 説にこだわりがあったようで、次のようにインフォーマントからの情報も記していました。

現地出身の漁夫平三良翁(80才位)の談によれば、この人の年少の頃こゝに「イナウ」(inaw〔幣〕)を飾る柱が立つていたのを見た由で、戦争のあつたときそこに幣を飾つて祈つた所だつたと古老から聞いた記憶があるそうである。そうだとすれば、いよいよ柴幣説が確からしくなってくる。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.18 より引用)※ 原文ママ
そして、has-inaw 説の「根拠」について、次のように続けていました。

そういう柴幣の幣場は海に臨んだ高所に設けられるのが常であるし、それをどこでも「ハシナウシ」」(<hašinaw-us-i〔柴幣・ある・所〕と呼ぶのが普通である。こゝの岬の上にも恐らくハシナウシがあつたのであろう。
(知里真志保・山田秀三「(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名『室蘭市のアイヌ語地名』」知里真志保を語る会 p.18 より引用)※ 原文ママ
さて。一旦知里さんの薄い本から離れて「東蝦夷日誌」を見てみます。

ホンヲハシナイ(小灣)、ホロヲハシナイ(小川)、ホロシレト(大岬)、アルトル(山岬)山向ふの義。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.85 より引用)
「東蝦夷日誌」によると、「ホンヲハシナイ」が「小灣」で「ホロヲハシナイ」が「小川」とあります。これはあくまで地名の地形的な特徴を記したものと考えたいところです。「ホンヲハシナイ」も -nay ですから、本来は川の名前だったと考えないとおかしいですよね。

元々は、「ホロヲハシナイ」と「ホンヲハシナイ」という川が並んで流れていたと考えるのが自然です。測量山の麓から増市町と港南町を流れて海に注ぐ川が「ホロヲハシナイ」で、小橋内町を流れる(現在は暗渠化されているようですが)川が「ホンヲハシナイ」だった可能性がありそうです。

永田地名解にも、二つ並んで記載されていました。

Poro oha ush nai  ポロ オハ ウㇱュ ナイ  大空ノ澤 「オハ」ハ空虚ノ意疱瘡流行ノ際土人或ハ逃走シ或ハ死シテ土人居ル者ナク空虚トナリシヲ以テ名ク
Pon oha ush nai   ポン オハ ウㇱュ ナイ  小空ノ澤 同上
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.195 より引用)
poro-oha-us-nay で「大きな・からっぽの・そうである・沢」と読み解くことができそうですが、この解釈を知里さんは「語意の上から無理な説である」と切り捨てています。どのように無理があるのか、もう少し具体的に示していただけたら有難かったのですが……。

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2018年2月23日金曜日

三江線各駅停車 (33) 「浜原」

沢谷から次の「浜原」までは、三江線は西に向かって進みます。この右往左往ぶりはもはや凄いとしか……。

浜原駅(はまはら──)

沢谷から 3.7 km ほどで、浜原に到着です。浜原駅は 1937 年(昭和 12 年)から 1975 年(昭和 50 年)までの間、ずっと三江線(→三江北線)の終着駅でした。そのため、現在も交換設備のある大きな駅です。
下り線のホームが見えてきました。下部が中空になっているシンプルな構造です。
駅名標と駅舎の写真を無理やり撮影してみました。
上り線ホームと下り線ホームの間は跨線橋があるようですね。駅名標と例のアレの写真を撮影したのですが、残念ながら例によってピントが合わず……(恥)。このあたりのホームは昔ながらの構造なので、もともと短いホームがあって、どこかのタイミングで延伸したというところでしょうか。

例のアレ「大蛇」

ということで、浜原駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「大蛇」と書いて「おろち」と読む、のだそうです。そういや同じく島根県と広島県を結ぶ「木次線」というローカル線がありますが、木次線の出雲坂根と三井野原の間を並走している国道 314 号には「奥出雲おろちループ」という橋がありましたね。

ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、この「大蛇」は「日本神話のクライマックス『八岐大蛇』を神楽化したものです」とのこと。舞台は「出雲国斐伊川上流」だとのことで……あれ、やっぱ木次線沿線じゃないですか(汗)。

なんで木次線沿線の話が浜原の「例のアレ」なんだろう……という謎が出てくるのですが、「演目との関連等」によると「『大蛇』は斐伊川氾濫の治水が基になったとされ、浜原ダムは「中国太郎(江の川)」治水の要であることから連想」とのこと。やや無理くり感のある連想だったということでしょうか(汗)。

待合室の中に?

江の川の治水の要である浜原は、三江線の運行の上でも要となる駅の一つです(浜原から式敷、あるいは三次まで「大雪によるバス代行」なんてこともありました)。下り線ホームにも随分と立派な待合室があります。
待合室の中に絵が描いてある……のかと思いましたが、これは我らが石見川本行き 424D の 1 両目が写り込んでいるだけでした。デザインの全容は石見川本到着後にじっくりと!

昔の名残?

浜原駅の下りホームは、江津側も下が中空の構造でした。三江線は、かつては臨時列車として快速や急行が設定されていた時期もあるので、延伸されたホームはその名残だったりするのでしょうか。
口羽から浜原までは 1975 年(昭和 50 年)の開通ですが、浜原から石見簗瀬までは 1937 年(昭和 12 年)の開通です。そんなこともあってか、駅の北側にはふつーに踏切がありました。

口羽から浜原の間には踏切がない……のかと思ったのですが、沢谷駅の東に踏切がありましたので、少なくとも踏切ゼロでは無かったです。

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2018年2月22日木曜日

三江線各駅停車 (32) 「沢谷」

石見川本行きの 424D は、定刻通りに潮を出発しました。駅の北側には駐車場があるのですが……
わあっ! 手を振って下さってる方がっ!
この先、江の川は S 字状に蛇行して浜原に向かいます(途中に「浜原ダム」があります)。並走していた国道 375 号は 2 本のトンネルを経由して北北西にある浜原に向かいますが、三江線は「登矢丸トンネル」で北北東に向かいます。
トンネルを抜けたあとは西北西に方向を変えて、沢谷川沿いを経由して浜原に向かいます。並走する県道 166 号「美郷飯南線」に何やら幟が並んでいますが……
「さぁ 三江線に 乗ろう。」とありますね。これまで見かけたコピーの中では、割と普通な感じのものだったでしょうか(懇願調のものもありましたよね)。

沢谷駅(さわだに──)

ということで(どういうことだ沢谷駅に到着しました。あっ、これはもしかして……
もしかした通りでした(汗)。石見松原に続き、三連続で規格品(違う)の待合室でした。

例のアレ「猿丸太夫」

沢谷駅の「例のアレ」こと「三江線神楽愛称駅名」は「猿丸太夫」とのこと。
ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、この「猿丸太夫」は地元の伝説をベースに創作された「新作演目」とのこと。ご当地ネタがあると解説もシャキっと締まりますよね!(直前が「温泉はいいぞ」だっただけに尚更)
そういや今回は、珍しく駅名標もピンぼけせずに撮影できたのでした。毎回こうでないといけないんですけどね……。

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2018年2月21日水曜日

三江線各駅停車 (31) 「石見松原・潮」

石見都賀を出発して、5.6 km の間でトンネルを 9 つほど抜けると次の「石見松原」です。

石見松原駅(いわみまつばら──)

ということで、トンネルを出て石見松原駅に到着したのですが……おおっ! こ、これは……
ご覧の通り、待合室なのですが……
この「石見松原駅」、手書き……というか、人の手によるレタリングですよね。すごく味があって好き!ですね。

生まれながらの無人駅?

石見松原駅は、一面一線、つまり本線にホームがついているだけの構造です。その割に立派な待合室があるのは積雪対策なんでしょうか……?
石見松原駅の開業は、三江線の口羽から浜原の間が開通したのと同時の 1975 年(昭和 50 年)です。
開業前から無人駅として設計されていたのか、改札設備などは最初から存在しなかったようで、集札箱も郵便受け型の極めてシンプルなものでした。

例のアレ「戻り橋」

石見松原駅の「三江線神楽愛称駅名」は「戻り橋」だそうです。一条……?
ぶらり三江線WEB」の「神楽愛称駅名 演目解説」によると、やはりというか偶然か、「戻り橋」は平安時代の京都を舞台にした演目だったようです。では何故「石見松原」が「戻り橋」なのかと言うと、「旧大和村は個性的な吊り橋などが 7 つ存在」とだけ……(汗)。選者の苦労が偲ばれますね。

石見松原から潮へ

石見松原からは先は、国道 375 号と並走する形で北東に進みます。三次から見て江津は西北西の位置にあるのですが、江の川自体が大きく蛇行している関係で、三江線も右往左往を強いられます。
石見松原から次の「潮」までは 3.2 km ですが、これを 5 分ほどかけて進みます。一箇所ややタイトな右カーブがあるので、そこで時間をロストしているような感じでしょうか。

潮駅(うしお──)

潮駅のホームが見えてきました。
一見、何の変哲もないホームの写真ですが、よく見ると……
「停車場中心」の文字が。それほど大きな駅では無いのに、ちゃんと「停車場中心」の札が掲げられているのが面白いですよね。ピントが合ってないのはお約束ということで。

潮駅の駅名標と待合室が見えてきました。待合室は石見松原と同様のブロック積みの構造でしょうか。そして手前の花壇はレンガ積みでしょうか。
「停車場中心」のあたりはプランターもあるので、近くにお住まいの方が手入れをされているのかもしれません。

例のアレ「潮払い」

潮駅の例のアレ()は「潮払い」(しおはらい)だそうです。
「神楽愛称駅名 演目解説」によると、「演目との関連等」は「近くにある潮温泉で、身も心も清めてリフレッシュ」とのこと。あーはいはい……と思ったのですが、地図を見ると確かに駅の南に温泉マークが!

生まれながらの無人駅、再び?

潮駅の駅舎(待合室)は、石見松原駅とソックリでした。位置こそ異なりますが、郵便受け型の集札箱があるところも同じですね。

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