2018年2月12日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (新潟での伝道に関するノート (2))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」("Unbeaten Tracks in Japan")には「完全版」と「普及版」がありますが、「普及版」は「完全版」からいくつかのエピソードがカットされています。「新潟での伝道に関するノート」もカットされたエピソードのひとつです。

三年間の活動の成果

1878 年の時点で、新潟は外国人の居留が認められた数少ない都市のひとつで、イギリスからは「ファイソン氏」と「パーム医師」の二人が宣教師として派遣されていました。

ファイソン氏は一年のうち一定の季節に巡回説教する。氏はこの国にはキリスト教に対する強い偏見があること、新潟の人々はキリスト教にはきわめて無関心であることを知った。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.251 より引用)
江戸時代は、「寺小屋」(寺子屋)などの存在からもわかるように、仏教が事実上の「国教」のようなものだったような印象があります。そんな中に「異国の赤鬼」が「禁じられていた宗教」を持ち込んだところで、熱狂的に支持される筈も無かった……ということでしょうね。

下層階級で信じられているのは、宣教師は密かな政治的目論見があってイギリス政府に雇われている、改宗者は死んだとたん眼をくりぬかれ──死ぬまで眼があったとして──、その眼は軟膏をつくるのに使われる、宣教師は用心深く隠しておいたお金をこっそり持ち去ってしまう、などなどである!
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.251 より引用)
いつの時代も「FUD」は戦略として有効なんだなぁ……と思わせるエピソードですね(厳密な FUD の定義からは少し違うかも知れませんが)。もっとも、「密かな政治的目論見があって」云々のエピソードは、必ずしも間違いでも無いような気もしてしまいますが……(汗)。

越後の地元役所はキリスト教の普及になんの反対も現実にはしていない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.251 より引用)
そう言えば、明治政府はキリスト教に対してどのようなスタンスで臨んでいたのでしょう。限定的ではありながら「開国」を進めていた時代ではありますが、少なくともキリスト教を歓迎するという流れでは無かったであろうことは容易に想像がつきます。「事実上黙認」というスタンスだったのでしょうか。

新潟では、仏教の僧侶は新しい「道」を攻撃するのが望ましいと考えており、地元新聞はその攻撃とキリスト教改宗者からの反論を載せる欄を開設した。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.251 より引用)
これは中々興味深い記録ですね。この記述を見る限りでは、少なくとも新潟の仏教界は、キリスト教にそれなりの危機感を抱いていたことように読み取れます。ただ、実際のところは単なる異質なものに対するアレルギー反応のようなものだったのではないかな、と想像してしまいます。

キリスト教について学び、キリスト教が他の宗教よりすぐれていること、道理にかなっていることを認める人々も多くいるものの、こういった人々も宗教全般に対して非常に無関心であるため、それ以上先へは進まない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.251-252 より引用)
日本には「本音と建前」という考え方がありますが、イザベラがどの辺まで「本音」を掘り下げることができていたのか、個人的には少し疑問に思えてしまいます。

毎日の説教

イザベラは、日本におけるキリスト教の普及には「障壁がある」と感じていて、それは日本人自体の「資質」によるものが大きいと考えたようです。

実質的に、キリスト教にとって支障となるのは、あらゆる宗教に対しての全般的な無関心である。「宗教能力」は日本人の天性から失われてしまったようだ。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.252 より引用)
また、イザベラ自身がしばしば「宗教的退廃」と記していた当時の日本の現状から、「古い信仰」(=仏教)の衰退は「新しい信仰」(=キリスト教)の普及にむしろ資するのではないかという楽観的な見方が存在したことについては、次のような的確な反論を記しています。

古い信仰が衰えているからといって、日本が新しい信仰を受け入れるのに機は熟していると考えては大きな間違いである。この帝国は物質的な発展の道を走り出したのである。その方向にありそうなものはなにもかもかっさらい、吸収する。そうされないものは、価値なしとして排除される。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.252 より引用)
1878 年の頃の日本は、まさに「富国強兵、殖産興業」のスローガンのもと、なりふり構わず急速に近代化を推し進めていた時代だったでしょうか。当時の日本人は、自分たちに何が欠けていて、それをどのように補えば良いのか、なかなか的確な自己認識ができていたようにも思えます。キリスト教の受容は必ずしも「近代化」の必須要件では無い、ということも気がついていたのかもしれませんね。

医療伝道

イギリスから派遣された二人の宣教師のうち、一人は医師として「医療伝道活動」を行っていました。

 わたしが新潟を訪れた主な目的は、パーム医師の行った医療伝道活動についてなにがしかを学ぶことにあった。この活動は医師を必要とし、医師を仕事責めにし、医師のもとに患者を殺到させる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.253 より引用)
「伝道」を「医療」と抱き合わせで提供するというのは、率直に言っていい感じはしないですね。病気で悩んでいる人の心の隙につけこむというのは、人道的には許されない行為であると感じます。

範囲はどれもみな有用なありとあらゆる部門に及ぶ。病気の治療において科学的真理を広めること。手術や外国の薬に対する偏見を取り除くこと。いんちきな民間療法をその玉座からひきずり下ろすこと。良識や進んだ衛生学を紹介すること。世俗分野では知的な協力を促すこと。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.253 より引用)
ここまでのアプローチは決して間違っていないですし、歓迎されるべきものですが……

最後にこれまた重要なのは、この活動に必ず伴うよき医師の福音への道を均すこと。これらは日本における医療伝道にとって争う余地のない訴えである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.253 より引用)
最後の結論が実にいただけません。行為の是非はさておき、そもそもの目的は一体何なんだ、という話ですね。やっていることが生活保護者から金を巻き上げる「貧困ビジネス」と大差ないように思えるのです。

 現地人の医師は通行証の制約さえなければ、居留地の境界外までパーム医師を相談に呼び出しそうなほど「イギリス人ドクター」を高く評価している。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.254 より引用)
これはある意味では当然のことだったかもしれません。日本の医学が西洋医学と比べて遅れを取っていたことは間違いないことだったでしょうし、特に衛生水準という意味で圧倒的に遅れを取っていたのでは無いでしょうか。

イザベラは「職務中は愉快なことがしょっちゅう起きる」と前置きして、次のようなエピソードを記しています。パーム医師はある大きな手術を行い、結果として手術は失敗して患者は死亡してしまったのですが……

日本人漢方医(とんでもないいんちき療法と民間療法の一派)はイギリス式手術のすばらしさにたいへんな感銘を受け、手術が不成功だったにもかかわらず、それまでの自分のやり方を放棄し、自分はこれから西洋医学を学ぶことにした、おまえたちも同様にせよと三人の弟子を追い払ってしまったのである!
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.255 より引用)
「漢方」を「とんでもないいんちき療法と民間療法の一派」と断じているあたり、「まだまだ理解が足りないなぁ」と思わせますね(まぁ実際に件の漢方医が「いんちき療法」の使い手だった可能性も十分あるわけですが)。

プロパガンダ臭?

ここまで「新潟での伝道に関するノート」を見た限りでは、どうにも「プロパガンダ臭」がついてまわるなぁ……というのが正直な感想です。それだからこそ「普及版」ではカットされたのだなぁ、とも思えてきますし、もしかしたらページの右上に【 P R 】と書いてあったんじゃないかなぁ……とすら思えてきました。

イザベラはイギリス政府などから資金面でもサポートを受けていたこともあり、初版(完全版)には少なからず「スポンサー様向け」の内容が含まれていたように思われます。この「新潟での伝道に関するノート」もその一つだったのでは、と思われるのです。

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