2018年1月8日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (新潟での伝道に関するノート (1))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には「完全版」「普及版」がある……という話は既にご存知のことかと思います。最初に世に出たものが「完全版」で、一部をカットした「普及版」が後に出てきたというのは面白いですよね(前後が逆のパターンが多いかと思います)。

ここまでは、「普及版」でカットされた部分を高畑美代子さんの「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」で補ってきましたが、新潟に入ってからは「新潟伝道に関する覚書」「第 19 信」「第 21 信」「第 21 信(完)」「食品と調理に関する覚書」が完全にカットされていて、ついに不足分を補いきれないことが判明しました。

ということで、新たな助っ人として時岡敬子さん訳の「イザベラ・バードの日本紀行 上」にご登場願うことになりました。それでは、早速読み進めていきましょう。

キリスト教伝道団

イザベラは、キリスト教における伝道の意義を次の一文に集約しています。

「汝あまねく世に出でて神のあらゆる創造物に福音を説け」という主の命令について、かのウェリントン公爵の名言「教会の突撃命令」以上にこれをうまく定義したものはない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.248 より引用)
この一文を受ける形で、異教徒への伝道について、両者間に問題が存在したとしても「問題は神の手にゆだね、神の命令をいっさいの疑念なく服従して遂行する」のがキリスト教徒の共通認識である、としています(この認識の是非については、この場ではこれ以上踏み込みません)。

ただイザベラは、このような認識を共有していたとしても、実際に異教徒の暮らしぶりを目の当たりにすると「話がまったく異なってくる」としています。

 しかしながら、本国で海外布教にごく一般的な関心をいだくのと、三四〇〇万人の異教徒を前にして布教について考えるのとでは、話がまったく異なってくる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.248 より引用)
イザベラは、実際に異教徒(この場合は日本人)を前にして布教について考える際に、「自分自身の利己心と無関心を恥じる気持ちにたえず苛まれ」としています。「自分自身の利己心と無関心」については、具体的には次のように記しています。

こちらの利己心と無関心はキリスト教に伴ってきた一時的な恩恵と、「生と不死」の希望を享受することで満足し、何百万もの人々がこの恩恵と希望を知らずに生きて死んでいくという思いに苦悩を募らせることもない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.249 より引用)
更に先を読み進めていくとより理解できるのですが、西洋の文明、あるいはそれに裏打ちされた「文化的な生活」と「キリスト教の恩恵」が少なからず混同されていることに気付かされます。イザベラはこの両者を不可分のものであると認識していたのかもしれませんし、あるいは別物である可能性すら考えていないようにも思えてきます。

伝道基地としての新潟

イザベラは「新潟での伝道に関するノート」を記すにあたり、その拠点である新潟について次のように記しています。

 新潟は人口五万人の大都市で、越後という広くて人口の大きい地方の主都である。日本の日本海側にある唯一の開港場で、函館─長崎間(二都市間の距離は一一〇〇マイル〔約一七六〇キロ〕。人口は何百万かに達し、大部分は外国人との交流に汚染されていない)にあって、宣教師が住むことを許されており、プロテスタント・キリスト教はこの前哨地をファイソン氏とパーム医師という二名の力により確保した。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.249 より引用)
なるほど、日本海側における「国際的に開かれた港」は新潟が事実上唯一のものだったのですね。新潟には「宣教師が住むことを許されており」とあるということは、当時の外国人宣教師には居住の自由が無かったということを示していますね。

ふたりの宣教師

新潟には二人の宣教師が派遣されていましたが、一人は「エジンバラ医療伝道教会」から派遣された医師(パーム医師)でした。なるほど、これではイザベラが「文化的な生活」と「キリスト教の恩恵」を混同するのもやむを得ないですね。

イザベラは、二人の宣教師の人柄と業績を高く賞賛するとともに、宣教師の「派遣元」に対しては若干の批判を加えていました。

とはいえ、この辺地に宣教師をたったひとりで三年間放り出し、言語の障壁や日本人の無関心や気まぐれからつぎつぎと起きる問題と孤立無援で闘わせるとは、英国聖公会宣教協会も不可解な方針をとるものである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.249-250 より引用)
パーム医師(Dr. Palm)の日々の活動については、イザベラは次のように紹介しています。

しばらく前に妻を亡くし、子供もいないパーム医師は、協定で決められた二五マイル[約四〇キロ]以内にある人口の大きい町や村を広く定期巡回してきている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.250 より引用)
「協定で決められた」とあるのが興味深いですね。「約 40 km」の中には阿賀野市や三条市が含まれ、見附市や村上市、阿賀町(津川)などは含まれません。

また、もう一人の宣教師であるファイソン氏(Mr. Fyson)については、イザベラは次のように紹介しています。

ファイソン夫妻は徳の高いキリスト教徒の家庭の見本という、風紀の乱れているこの地においてはとても重要なものを提供している。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.250 より引用)
……。もはや何も申しますまい(絶句)。

宣教師はひどい日本語を話す最下層の労働者のことばで最も聖なるテーマを扱うと非難されるが、ファイソン氏は勉学に努めており、教育を受けながらも宣教師を忌み嫌っている伊藤は、氏の日本語は流暢ではないけれど、「本当によい日本語」だと言っている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.250 より引用)
これはちょっと興味深いですね。宣教師の日本語が労働者に影響されているというのも興味深いですし、イザベラの通訳である伊藤少年が宣教師を忌み嫌っているというのも面白いです。やはり、宣教師は警戒すべき対象であると認識していたのでしょうか。

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