2017年12月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (496) 「クリヤ・チャス」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

クリヤ

kuri-ya?
影・陸
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 37 号(国道 230 号と重複)で洞爺湖町虻田から豊浦町豊浦に向かう途中にトンネルが二つありますが、虻田側のトンネルの名前が「クリヤ隧道」です。アイヌ語由来のようであり、でも和語由来のようでもある感じがしますが……。

この「クリヤ」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」には出てこないものの、「竹四郎廻浦日記」に出てきます。

此所より山道(に)懸るなれ共雪深きが故に船にて出立。
     ホロナイ
此所より陸路本道を行時は山へ上りてホロナイ峠、チャシナイ等いへる処を過て下る(ベンベ)也。船にて是より行に海岸の眺望
     ホロナイ崎
     ク リ ヤ
     フウレシユマ
     アチヱボ
     チヤシナイ
     ヘモヱヒ
     シ ヒ ヽ
     チ ヤ シ
     アルトル
     ベ ン ベ
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.580 より引用)
「ここから先は山道なんだけど雪が深く降り積もっていたので船に乗っちゃったよ(てへぺろ)」と書かれていますね(若干違う)。「クリヤ」は「ホロナイ崎」の次ですが、「ホロナイ崎」は現在老人ホームがあるあたりでしょうか。

また、「東蝦夷日誌」にも次のように記されていました。

フウレシユマ(赤岩)、クリヤ(小澤)、ポロナイノツ(小岬)廻り、ポロナイ(小川)の澤目へ出る。此所にて山道と出合也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.54 より引用)
「初航蝦夷日誌」には次のように記されていました。

クリヤ 奇岩峨々たり。風景よろし。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.251 より引用)
このあたりの記載から考えるに、「クリヤ」は現在老人ホームがあるあたりの西側の窪地、およびその西側を海に向かって伸びている尾根のあたりを指していたと考えられそうですね。どちらかと言えば後者がより正確でしょうか。

さて肝心の「クリヤ」の意味ですが、永田地名解に次のように記されていました。

Kuri ya  クリ ヤ  岩影ノ丘 「クリ」ハ影ナリ、水中ノ岩影ヲ見ルベキ處ノ丘ナレバ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.173 より引用)
ふーむ。永田氏は ya の意味を誤解していたんじゃないか……と後に知里さんから指摘されることになるのですが、kuri-ya で「影・陸」と解釈できる可能性はありそうですね。説明については少々意味不明な感じがするのですが、「クリヤ」の尾根、または「ホロナイ崎」の尾根に日を遮られる時間が長いから、とかじゃないのでしょうか。

チャス

charse-nay?
チャラチャラと滑る・沢
chasi-nay?
砦・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 37 号(国道 230 号と重複)で虻田から豊浦に向かう途中でトンネルを二つ通過しますが、豊浦側のトンネルの名前が「チャス隧道」です。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「チヤシナイ」という川(と思われる)が描かれています。これは chasi-nay (砦・沢)で決まりだろう……と思っていたのですが、事態は意外な方向に展開します(ぇ

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ホロナイ崎
     ク リ ヤ
     フウレシユマ
     アチヱボ
     チヤシナイ
     ヘモヱヒ
     シ ヒ ヽ
     チ ヤ シ
     アルトル
     ベ ン ベ
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.580 より引用)
地球に優しいコピペで済ませてみました(ぉぃ)。「チ ヤ シ」とあるのが「チャス隧道」のあるあたり……と思いたくなるのですが、仔細に検討を加えてみるとそうではなくて、「チヤシナイ」が「チャス隧道」のあたりだと考えるに至りました。

ところが、「初航蝦夷日誌」を見ていて妙なことに気が付きました。

ヘモヱイ 少しの澗なり。奇岩に而立重りたり。幷而
チヱムイシユマナイ 両脇ニ大岩有て中央少しの澗有
チヤラシナイ 幷而
チヱムイシユマ 幷而
アチホヘ 壁立千仭。重々たり。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.251 より引用)
色々と違いがあるのですが(まず順序からして逆ですし)、素直に読み解けば「チヤシナイ」が「チヤラシナイ」になっていることに気づかれるかと思います。つまり、「竹四郎廻浦日記」にある「チヤシナイ」は、元々は「チヤラシナイ」だった可能性も出てきます。chasi-nay であれば「砦・沢」ですが、charse-nay であれば「チャラチャラと滑る・沢」ということになりますね。

そして、「東蝦夷日誌」では次のようになっていました。

アルトル(崖小川)山の向ふの事也。是カラフト語也。惣て山の向ふの事を相互にアルトルと彼地にては呼なせり。恐くは向ふより此方を呼なしたる名の残りしかと思はる。ツーシレトまたベンベシレト等號く。チヤシ(城跡)廻りてシヒヽ(岸岬)過てヘモエヒ(岩岬)廻りてチヤシユマムイ(小河)、岩湾の義也。また此上にも城跡有りともいへり。上の方高山雑樹陰森としたる山也。チエムイシユマ(小岬)過てアチヤボ(大岬)、此所岩重りて眺望よろし。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.54 より引用)
ar-utor は「山向こうの地」ですが、「是カラフト語也」としているのが興味深いですね。「虻田」の地名解で知里さんが「この地のアイヌは樺太アイヌと同系と考えられる節がある」という仮説を開陳していましたが、奇妙な整合性を感じてしまいます(もちろん偶然の可能性も十分ありますが)。

「東蝦夷日誌」には「チヤシナイ」も「チヤラシナイ」も無く、代わりに「チヤシユマムイ」という謎の新地名が出てきます。……この辺の地名は、かなり揺れ方が激しいですね。

注目すべきは「また此上にも城跡有りともいへり」という一文でしょうか。これは chasi-nay の存在、または誕生を示唆する一文かもしれません。元々 chasi-nay だったのであれば、松浦武四郎が誤謬を修正したことになりますし、逆に元々 charse-nay だったのであれば、これが chasi-nay と誤った瞬間だったのかもしれません。真相は藪の中……でしょうか。

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2017年12月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (495) 「虻田」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

虻田(あぶた)

ap-ta-pet?
鉤針・作る・川
hap-ta-us-i?
ウバユリの球根・掘る・いつもする・ところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
虻田郡洞爺湖町の郡名で、道央自動車道には「虻田洞爺湖 IC」があります。JR 函館本線には「洞爺駅」がありますが、かつては「虻田駅」という名前でした。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  洞 爺(とうや)
所在地 (胆振国) 虻田郡虻田町
開 駅 昭和 3 年 9 月 10
起 源 もと「虻田」といい、アイヌ語の「アプ・タ・ペッ」(魚のかぎを作った川)か、「ハㇷ゚・タ・ウシ」(ウバユリの根を掘る川)の意味でないかといわれていた。その後洞爺湖の出入口に当たるので地元の人びとの要望により、昭和 36 年 11 月 1 日、「洞爺」と改められた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.65 より引用)※ 原文ママ

ふむふむ。近年では「弟子屈駅」が「摩周駅」に改名された例がありますが、「虻田駅」が「洞爺駅」になったのは 1961 年のことだそうですから、随分と先を行っていたことになりますね。

秦さんに聞いてみた

地名解は両論併記の体となっていますが、たとえば秦檍丸(村上島之允)の「東蝦夷地名考」には次のように記されていました。

一アブタ
  アフは鉤の称。タの語解し難し。一にアブトといふ。アブトは雨の名なり。地名となりたる事、つまひらかならす。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.18 より引用)※ 原文ママ

秦檍丸は ap を「鉤」であると考えていたようですね。そして apto は確かに「」を意味するようです。upun で「吹雪」ではないかとされる地名もある(雨紛)くらいですから(個人的にはちょいと疑義もありますが)、「雨」という地名があってもいいのかもしれません。長崎あたりとかね(ぉ

上原さんにも聞いてみた

上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」では、秦説をより正確に解釈しようとしていました。

アプタ
  夷語アプタとは鉤針を作ると云ふ事。扨、アプとは鈎針の事。ターとハ作る、又は拵ると申意なり。此故事未詳。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.49 より引用)
秦檍丸の「『雨』を意味するのかも」という説は姿を消し、ap-ta(-pet) で「鉤針・作る(・川)」と考えたようです。

松浦さんにも聞いてみたよ

松浦武四郎の「郡名之儀ニ付奉申上候條」には次のようにありました。

虻田郡 西山越内領東ウス領界チヤランケ石ヲ以テ海岸九里十九丁、一郡ニ仕候。
  夷語アブとは釣針の事。夕とは製スル義。釣針ヲ作ル故事御坐候。釣作卜訳シテ宜シク候。
(松浦武四郎「郡名之儀ニ付奉申上候條」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.121 より引用)
わざわざ引用するまでも無かったのですが、「虻田」という漢字表記が誕生した瞬間かもしれないので引用してみました。「チヤランケ石」という場所?を境界にしているのは面白いですね。

知里さんに別件で聞いてみた

この「チヤランケ石」、なんと知里さんの「──小辞典」に出てきます。

cháranke ちゃランケ ((完動; 名)) 弁論(する);談判(する)。~-suma[弁論している・石]チャランケ岩。この岩はイブリ国ウス郡ダテ町字ウスの海岸にあり,陸の方から見れば,累々たる巨岩にすぎないが,遠く海上から眺めると人の起伏している姿に見える。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.14 より引用)
ほうほう。場所も一致するので、「郡名之儀ニ付奉申上候條」に出てきた「チヤランケ石」と同一のものを指していると見て良さそうですね。この「チャランケ岩」の伝説ですが……

昔,この海岸に鯨がより上ったとき,アブタのアイヌが先に見つけてそれを自分たちのものにしようとした。ウスのアイヌがそれに異議をとなえ,三日三晩ぶっ通しにチャランケしたあげく,ついにウスのアイヌが勝った。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.14 より引用)
うわわ。これはアブタのアイヌが不遇すぎますね。「チャランケ」は単なる言い争いではなく、今で言う「ディベート」に相当するものだと思うのですが、勝者が勝ち取る「名誉」は相当なものだったのだとか(敗者が逆なのもまた然りです)。

その瞬間弁者たちは石に化した。それで一方の石は勝ちほこって豪然と肩をそびやかしているのに対して,片方は面目なげに平伏しているのだという。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.14 より引用)
まるでメデューサのような話ですね(笑)。それはいいとして、「アブタのアイヌが見つけた鯨をウスのアイヌに言い負かされて失った」というストーリーは興味深いですね。往古に実際あった故事なのか、それともなにかを隠喩しているのか……。

永田さんにも聞いてみた

永田地名解の「國郡」の項には、次のように記されていました。

虹田郡 元名「アㇷ゚タペッ」(Ap ta pet)鉤ヲ作ル川ノ義、「アイヌ」口碑ニ云往時ハ大川ニシテ鉤ヲ作リ魚ヲ釣リシガ臼岳噴火ノ時埋沒シテ今ハ小川トナリ魚上ラズト「アイヌ」謂フ所ノ噴火ハ蓋シ文政五(壬午)年正月十五日(弘前蝦夷志二月朔日ニ作ル)ノ噴火ヲ言フナラン虻田ノ會所此時噴火ノ害ヲ蒙タ後「フレナイ」ニ移シタレドモ舊名ヲ稱シタ虻田會所ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.15 より引用)※ 原文ママ

なんか、色々と書いてありますが……。少なくとも地名解としては ap-ta-pet で「鉤・作る・川」で違い無さそうですね。つまり、ここまでの諸氏は全て ap-ta で「鉤針・作る」と解釈していたことになります。

更科さんにも聞いてみたよ

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。

 虻田(あぶた)
 いま、洞爺駅のあるところ。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.58 より引用)
はい、これはいいですね。続けましょう。

ここはもとフレ・ナイ(赤い川)という川があったので、この付近をそう呼んでいたが、現在の入江と呼んでいるあたりにあった虻田運上屋が、文政五年(一八二二)有珠岳の噴火で、村落が全滅しフレナイに移ったが、移ってからも虻田運上屋といったので、ここを虻田と呼ぶようになった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.58 より引用)
相変わらず一文が長すぎますが、言わんとする事は永田地名解と大差無さそうですね。元々「アブタ」は現在の「入江」のあたりの地名だったが、1822 年の有珠山の噴火で集落が全滅し、今は「赤川」のあたりに移ったという話です。

これ、実は全く同じようなことを 21 世紀に入ってからも繰り返しているんですよね。道央自動車道の「虻田洞爺湖 IC」なんですが、もともとは虻田町入江からほどちかいところに IC がありました。ところが 2000 年の有珠山噴火で国道 230 号が埋まってしまい、北西にある「赤川」の近くにトンネルを掘削して復旧しました。虻田洞爺湖 IC も、国道の新ルート開通に合わせて移設されています。

閑話休題。地名解の話に戻しますと……

アブタはアプタペッのなまったもので、アプは樺太アイヌ語のハプで、姥百合の根(鱗茎)で "姥百合の根を掘る川" の意味ではないかといわれている。姥百合の根は昔の植物質食糧として大事なものであった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.58 より引用)
ようやくここで、hap-ta-pet で「クロユリの鱗茎・取る・川」という新説が出てきました。ただ、時系列で考えると「──駅名の起源」がオリジナルである可能性が高いかなぁと思われます。

北海道駅名の起源(昭和 29 年版)を見てみた

先程は、北海道駅名の起源(昭和 48 年版)を引用しましたが、今度は昭和 29 年版のものを見てみましょう。

 虻田駅(あぶた)
所在地 胆振国虻田郡虻田町
開 駅 昭和三年九月十日
起 源 アイヌ語「アプ・タ・ペッ」の上部を採ったもので、意味は(魚鈎を作った川)といわれているが肯けない。
(「北海道駅名の起源(昭和29年版)」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.342 より引用)
この時点では ap-ta-pet が定説と化していた筈なので、それに対して「頷けない」とした上で、新説を続けています。

樺太アイヌ語ではウバユリの根を「ハプ」と称する、この地のアイヌは古く樺太アイヌと同系と考えられる節があるので、地名も古くは「ハプ・タ・ウシ」(いつもそこでウバユリの球根を掘った所)であったのではなかろうか。
(「北海道駅名の起源(昭和29年版)」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.342 より引用)
ふーむ。「この地のアイヌは樺太アイヌと同系と考えられる節がある」とは中々思い切ったことを言いますね。昭和 29 年版の「北海道駅名の起源」は、高倉新一郎・知里真志保・更科源蔵の三氏に河野広道が加わった四人で編纂されたものですが、このようなダイナミックな仮説を世に問うことができたのは、おそらく知里さんだけだったんじゃないかなぁと思ったりします。

山田秀三さんにも聞いてみた

山田秀三さんは、「北海道の地名」にて ap-ta-pet 説と hap-ta-us-i 説を紹介していました。ap-ta-pet で「鉤針・作る・川」については

釣針はここだけで作ったわけではないだろうが。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.410 より引用)
至極ごもっともなツッコミですね。一方で hap-ta-us-i で「ウバユリの球根・掘る・いつもする・ところ」という解釈については

音に合わせて考えられた研究的一案である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.410 より引用)
と評していました(あくまで「研究的な一案」であると捉えたようですね)。全体的には、次のように考えていたようです。

とにかく,古く秦檍麻呂,次いで上原熊次郎の時代からずつと釣針説が土地のアイヌの解だったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.410 より引用)
確かにその通りですね。実際の語源はさておき、少なくとも地元のアイヌは「釣り針」に由来すると考えていた、ということは間違い無さそうです。

ここの駅名も虻田だったが,昭和36年洞爺と改名した。駅に行ったら洞爺と書き直されていて唖然としたのだった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.410 より引用)
この辺の感覚は、今も昔も変わらないみたいですね(笑)。

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2017年12月29日金曜日

福塩線・三江線各駅停車 (0) 「最後の『ひかりレールスター』」

間もなく 2017 年も終わろうかとしているこの時期に、新連載をスタートさせることになりました(汗)。記念すべき第一回を新年に取っておくべく、初日の今回はゼロからのスタートにしてみました(無理やり感)。

冬の夜の新大阪駅

昨年(2016 年)12 月のある日のこと、新幹線の新大阪駅にやってきました。これから福山に向かうのですが、こんな時間になったのには理由がありました。
そう、20:20 に博多行きの「ひかりレールスター」が出発するのですね。かつては 1 時間に 1~2 本は走っていた「ひかりレールスター」ですが、九州新幹線の開業に伴って軒並み「さくら」と「みずほ」に置き換えられ、今ではなんと一日一往復を残すのみになってしまいました。

「ひかりレールスター」が生まれるまで

東海道・山陽新幹線には「のぞみ」が頻繁に走っていて、それを補完する形で「ひかり」と「こだま」が走っています。東海道新幹線は(車輌運用の都合もあり)全ての列車が 16 両編成で走っていますが、山陽新幹線では 16 両編成は供給過多ということもあったため、山陽新幹線内で完結する「ひかり」や「こだま」については、独自に車両数を少なくした編成を組んで運行していました。

供給過多ということは、「利用客が多くない」ということでもあるのですが、さらに裏を返せば「座席数に余裕がある」ということでもありました。そのため、山陽新幹線の「ひかり」は減車するとともに指定席車の座席を横 5 列から横 4 列のゆったりしたものに交換して、「飛行機よりも格段にゆったりしたシート」を追加料金無しで提供することにしました。

この「指定席車の 4 列シート化」は好評を以て迎えられました。しかしながら、300 系「のぞみ」が最高 270 km/h で走行し、500 系「のぞみ」に至っては最高 300 km/h で走行する中、0 系・100 系の「ひかり」は最高 220 km/h しか出せなかったため、どうしても「のぞみ」の通過待ちが増えてしまい、所要時間の面でハンデを負うことになってしまいました。

そのため、「ひかり」自体の高速化を図るべく、「のぞみ」用に新たに開発された 700 系をベースにした独自仕様の 8 両編成を「ひかりレールスター」という名前で投入したのでした。今から遡ること 17 年前、2000 年のお話です。
独特なノーズの形などは「のぞみ」用の 700 系とそっくりですが(同じ形式ですから当然なのですが)、カラーリングが全く異なるので雰囲気もかなり違いますね。

「Rail Star」のロゴ

先頭車のドアの前には「Rail Star」のロゴが。下には WEST JAPAN RAILWAY の文字も見えますね。
レールスターのロゴをよーく見てみると……「r」の字の上あたりに、なにかゴジラのような絵が描かれていますね。
これ、実は……
単に汚れがついていただけみたいです(ぉぃ)。

伝統の横 4 列シート

ということで、「ひかりレールスター」の 8 号車に乗車しました。「ウエストひかり」からの伝統である「指定席車の横 4 列シート」は「ひかりレールスター」にも受け継がれています(そして九州新幹線の「さくら」「みずほ」にも受け継がれました)。
テーブルのサイズは「のぞみ」と似たようなものだと思いますが、そのおかげでシートの大きさが際立っていますね。

コンパートメント席

「ひかりレールスター」は、横 4 列シート以外にもいくつかのユニークな要素が組み込まれていました。たとえば 4 号車では車内のアナウンスが始発直後と終着駅直前を除き一切流れない「サイレンス・カー」というサービスが行われていましたし、また今では当たり前になった感のある「電源のある座席」を「オフィスシート」という名前で発売していました(車輌の最前列 4 席が「オフィスシート」という扱いでした)。

他に類を見ないユニークな要素が多かった「ひかりレールスター」ですが、その最たるものが 8 号車最後部にあった「コンパートメント席」でしょう。
「コンパートメント席」には、4 人が向かい合わせに座るボックスシートに壁とドアがついていました。ちなみに 4 人で利用した場合は追加料金は不要とのこと。現在では一日一往復だけになってしまった超レアな席なので、きっと誰も使っていないだろう……と思ったのですが、この日はなんと(一室だけですが)利用客がいたようでした。知る人ぞ知る幻の席と言ったところでしょうか。

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2017年12月28日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (終) 「おうちに帰るまでが遠足です」

グリルで夕食を頂いて、19:15 頃に部屋に戻ってきました。敦賀港到着は定刻の 20:30 を予定しているとのこと。到着まであと一時間ほど、いつでも退出できるように荷物を整えて、のんびりと部屋で呼び出しがかかるのを待ちます。
ちなみに、往路(敦賀から苫小牧東)も「すずらん」に乗船した……ということは何度か記した通りですが、船が同じだっただけではなく、クルーの人も同じ方でした。「ようこそお帰りなさいませ」と挨拶されて大いに焦ったのでした(汗)。

新日本海フェリー「すずらん」は、20 時過ぎに敦賀港に入港しました。まぁフェリーは飛行機以上に停止(着岸)するまでが長いので、引き続きのんびりと呼び出しがかかるまで待ちます。「あかしあ」や「はまなす」はシリンダー錠なので、入港の前に鍵の回収というイベントがあるのですが、「すずらん」「すいせん」はカードキーなので、係の人が鍵を回収に来ることもありません。

下船開始!

車輌甲板が開放されたとのアナウンスが流れたのは 20:26 でした。キャリーバッグを転がしながら車輌甲板に向かいます。
右舷後部の出口が開いて下船が始まったのが 20:38 頃でした。割とスムーズに下船が始まったほうではないでしょうか。
フェリーターミナルビルの前を通って敷地の外に出ます。偶然、前の軽自動車にフォーカスがピッタリ合ってしまい、謎の疾走感が醸し出されていますね。

おうちに帰るまでが遠足でした

おうちに帰るまでが遠足です……とは良く言ったものですが、敦賀港から自宅までは渋滞などに遭遇することもなく、すんなりと帰宅することができました。
Day 0 から Day 5、そして最終日(Day 6)の総走行距離は 1,578 km でした。うち 362 km は本州での走行距離ですから、道内では 1,216 km ほど走ったことになりますね。
平均燃費は 100 km あたり 8.4 リットルでした。リッターあたり 11.9 km ということになりますね。2,946 cc という前近代的な大型エンジンの割には悪くない数字ですが、これ以上燃費を伸ばすには、かなり工夫が必要なのかもしれません。

極限の燃費走行へのチャレンジは、またそのうち記事にする……と思います。

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2017年12月27日水曜日

新日本海フェリー「すずらん」スイートルーム乗船記(夕食編)

何時になくスピード感のある展開で、五日目にして早くも夕食編に辿り着きました。
ということで、まずはいつものチケットからです。スイート(とジュニアスイート)にはグリルでの食事がついてくるのですが、乗船直後に案内所でカードキーを受け取る時に、一緒にこのチケットも受け取ります。チケットには予め時間が記されているので、時間に合わせてグリルに行けばテーブルが用意されているという寸法です。

昨日の記事でも記しましたが、スイート以外のグレードでも、グリルでの昼食・夕食を事前に予約することができます。その場合も乗船後に案内所で時間が記されたチケットを受け取る……という流れだったような気がします(ちと記憶が曖昧)。

ちなみに、チケットは入場時に係の人に預けて、食後に押印されたものを返してもらいます(朝食と昼食の場合)。ですので、食事を終えたら必ずチケットを受け取ってから退出するようにしましょう(タイミングによっては、係の人が厨房に戻っている場合がありますので、その場合は焦らず 2~3 分待ちましょう)。

あ、そうそう。グリルにもオプションドリンクの設定があります(滅多に頼まないので存在を忘れ気味……)。アルコールやコーヒーなどを追加することができますが、その場合は食後に現金で精算することになります。朝食と昼食の場合にツケが利いたかどうかは覚えていません(以前は確か大丈夫だったような気がするのですが……)。

船内屈指の(ry

この日の夕食は 18:30 からとのことで、時間通りにグリルに向かいます。グリルは完全予約制なので、予定していた客が入場した時点で入り口のドアは一旦閉められます。というのも、たまにレストラン(こちらは入場自由)と間違えて入ってくる人がいるんですよね。
新型「すずらん」のグリルは、「はまなす」とは違って左舷側に位置しています。「はまなす」のグリルは右舷側で、しかも廊下の内側に位置していたので外の景色を楽しむことができなかったのですが、新型「すずらん」のグリルはオーシャンビューになりました。もっとも、夕食は日没後なのでオーシャンビューの恩恵は殆ど無かったりするんですけどね。

秋限定『紀行 秋薫る会席』

閑話休題、本題に戻ります。この日の南航の夕食は「秋限定『紀行 秋薫る会席』」と題された和食メニューでした。ん、そういや朝・昼・晩の三食ともお箸でしたね。確かにナイフとフォークよりも箸のほうが上手に使える人が多そうですが……。

前菜・酢物

まずは「前菜」と「酢物」が出てきました。お品書きには「赤魚鮟肝和え 針葱」と「りんご霙(みぞれ)和え(りんご釜・かに棒肉 くらげ、しめじ、生菊、紅蓼」とありますが……エビのインパクトが抜群ですね(笑)。

造里

続いてお造り(造里)の登場です(「鱈の昆布〆」と「ボタン海老」)。やっぱ海の幸と言ったら刺身は外せないですよね。

焼物・揚物

お造りに続いて「焼物」と「揚物」が出てきました。お品書きには「秋野菜と秋刀魚包み照り焼き 矢中生姜 菊蕪良」と「天ぷら(きのこ三種・エリンギ、舞茸、シメジ)原塩 レモン 青唐 紅葉麩」とあります。

食事

そして追い打ちをかけるが如く、「イクラごはん」と「ナメコ汁」が出てきました。いやー、見事なバランス感覚と言いますか、つまみ食い感覚でいろんなものを味わえるのは素晴らしいですね。
コース料理だと一品食べ終えてから次の品が出てくるまでに妙な間が生じることがありますが、この日はちょうど一品食べ終えた頃に次の品が出てくるという、タイミングも申し分ないものでした。

デザート

デザートは「季節のフルーツ」とのことですが、マスカットの緑色と皿の色が見事にマッチしていますね。緑茶の色合いとも良く合ってます。
大変おいしゅうございました(まる)

秋の道南・奥尻の旅 (終) 「おうちに帰るまでが遠足です」に続きます……

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2017年12月26日火曜日

新日本海フェリー「すずらん」スイートルーム乗船記(朝食・昼食編)

日本海の上で朝を迎えました。……いい天気ですね!
何を今更という話ですが、南航の場合、洋上で朝日を眺めたければ左舷の部屋を、僚船とのすれ違いと夕陽を眺めたければ右舷の部屋を取ることをオススメします。

ちょっと分かりづらいですが、新日本海フェリーのインターネット予約では、予約後(決済後だったかも)に部屋の仮指定ができます。「すずらん」のスイートの場合、右舷が 001、左舷が 002 となります。

船内屈指の空席率を誇るあの場所

さて、スイートと言えば、船内屈指の空席率を誇る(ぉぃ)グリルでの朝食です。この日も見事にガラガラですが、スイートの船客は最大 8 名しかいませんから、スイート(とジュニアスイート)が満室だったとしても、グリルが満席になることはありません。

グリルでの朝食はスイートの船客だけに提供されています。なお、昼食と夕食はどなたでもご利用可能です(事前に予約することをお勧めします)。
この日の朝食は和定食でした。焼鮭と卵焼きがメインですが、品数も分量も多すぎず少なすぎず、ツボの押さえ加減は流石だなぁと思わせます。贔屓の引き倒しなんじゃないかって? それもまぁいいじゃないですか。

秋限定『大地の秋 堪能ランチ』

いつもは朝食の後に船内を探検するのですが、さすがに 9 月末には「クイズラリー」などの企画もありませんし、しかも数日前の北航で船内を一通り見て回った後だったので、今回は省略します! ということで、時は移ろい、早くも昼食です!
昼食は「秋限定『大地の秋 堪能ランチ』」と題されたランチを頂きます。

前菜

さっそく前菜が出てきました。「秋野菜のバーニャカウダ パンチェッタ添え」と題された一品です。平たく言えば野菜を生のまま丸かじり……なんですが、こうやって綺麗に盛り付けられると、それぞれの野菜の味わいが深みを増してくるような気すらしてくるのが不思議なところです(場の雰囲気に呑まれているだけでは)。

スープ

続いては「きのこと玉葱の秋スープ スフレ仕立て」と題されたスープです。これは余計な説明は不要でしょう。

メイン

そしてメインの登場です。「煮込みハンバーグ フォアグラコロッケと共に」とあります。うおぉぉぉぉ!(落ち着け

デザート

締めのデザートは「かぼちゃのアイス かぼちゃ餡添え」と題された一品です(あと食後のコーヒー)。字面を見ると「えー?」と思われるかもしれませんが、実際に写真を見てみると「アリかも」と思えてきませんか? 実際の味もその通りで、結構「アリ」でした。
グリルでの昼食は、事前、あるいは乗船後に案内所で申し込んだ人とスイートの船客が対象です(数に限りがありますが、当日に申し込んでも多分大丈夫です)。一度だけ団体さんが大挙して食事していたことがありましたが(事前に予約していたっぽい)、そうでもない限りは滅多に満席になることもありません。

レストランの昼食も悪くないですが、船内屈指の空席率を誇る(やめなさい)グリルでの食事もいいですよ~。冬場は残念ながらグリルの営業はありませんが、春から秋にかけて新日本海フェリーで旅をすることがお有りでしたら、是非一度グリルにも足をお運びください。あ、これはステマじゃありませんので……!

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2017年12月25日月曜日

新日本海フェリー「すずらん」スイートルーム乗船記(水まわり編)

新型「すずらん」のスイートルーム乗船記、三日目の今日は洗面所とバス・トイレなどの水回り編です。

洗面所はバスルームとトイレの間にあります。極ごく一般的なデザインの洗面台ですね。飲料水もここから取水できます。
ひとつ謎なのが、なんで洗面台の下の S 字トラップが丸見えなんでしょう。ダミーでもいいのでカバーをつければいいのに……と思ってしまいます。

オーシャンビューのバスルーム

洗面台の左、窓側にバスルームがあります。オーシャンビューのバスルームは「はまなす」「あかしあ」のスイートでおなじみですが、新型「すずらん」のスイートにもこの構造は引き継がれています。
朝方は日光が差し込んで随分と雰囲気が変わりますが、
おすすめはやはり午後の入浴でしょうか。時間にも余裕がありますし、南航の場合は左舷の部屋であれば日光が差し込むこともありません。もちろん外から船内の誰かに覗かれることもありませんのでご安心を。
さて、そんなオーシャンビューの浴室ですが、サーモスタット式の混合水栓が二つも用意されています(一つはバスタブ用で一つはシャワー用)。そして洗面器と椅子の用意まであるんですよね。船室内のバスルームとしては、国内最強なんじゃないでしょうか。

ほぼバリアフリーなトイレ

洗面所の右側(バスルームの反対側)にトイレがあります。
TOTO のウォシュレットで、床は段差の無いバリアフリー構造です。
リモコンスイッチは独立型で、手を伸ばしやすい位置にあります。最近はこういった気の利いた構造の製品が増えてきましたね。
ユニークなのが真空式トイレの洗浄ボタンで、ちょうど便器の蓋で隠れる場所にあります。便器の洗浄スイッチは伝統的に便器の奥にあるものですが、このスイッチだけが場所的にイマイチなのが面白いですね。個人的には「改善の余地あり」に思えるのですが……。

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2017年12月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (494) 「ベンベ川(豊浦)」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ベンベ川

pe-un-pe?
水・ある・ところ
pewre-pet?
若い・川
pe-pe?
水・水
pet-pet?
川・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
豊浦駅のすぐ近くを流れる川の名前です。ドイツの自動車メーカーは関係ないものと思われます(そりゃそうでしょ)。

それでは、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか(何故?)。

  豊 浦(とようら)
所在地 (胆振国) 虻田郡豊浦町
開 駅 昭和 3 年 9 月 10 日
起 源 もと「弁辺(べんべ)」といったところで、アイヌ語の「ペッペッ」(川・川)、すなわち(小さい川が集まったところ)から出たものであるが、ごろが悪いというので、村名を「豊浦」と改称したから、駅名も昭和 10 年 4 月 1 日村名に合わせて改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.65 より引用)
なんと! 元々は「弁辺」という駅名だったんですね!(絶対最初から知ってただろ)。pet-pet で「川・川」では無いか、という説のようです。

山田さんに聞いてみよう

この「ベンベ」については、山田秀三さんの「北海道の地名」にとても良くまとめられているので、引用しておきますね。

 豊浦 とようら弁辺 べんべ
 豊浦町市街は急坂の下の海岸にあり,弁辺川(小川)は急斜面を流れ下っている。この川が二股になり,ポロ・ベンベ(北股),ポン・ベンベ(南股)となっているので,永田地名解は「ペペ。二川合流する処」と書いたが研究を要する。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.412 より引用)
現在の地形図を眺めてみると、ウィンザーに向かうロープウェイ?乗り場のあるあたりから川が描かれていますが、これは「南股」の「ポン・ベンベ」でしょうか。「ポン・ベンベ」は「小さなベンベ」ですから、やはりベンベもダウンサイジングの波に……(違います)。

この川筋泉が多く,あっちやこっちに,ちょろちょろと流れていたという。上原熊次郎地名考は「ベンベ。ベーウンベの略語なり。此処冷水の所々に湧き出るゆへ地名になすといふ」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.412 より引用)
ん、これは「蝦夷地名考并里程記」も見ておかないといけませんね。

上原さんにも聞いてみよう

確かに「蝦夷地名考并里程記」には次のように記されています。

ベンベ                番家休所アプタ江二里半程
  夷語ベーウンペの略語なり。則。冷水の生する所と譯す。扨、ベーとは水の事。ウンとは生す。又は有ると申事。ペとは所と申事にて、此処冷水の所々に湧き出るゆへ地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.48 より引用)
ふーむ。上原説は pe-un-pe で「水・ある・ところ」では無いかという説ですね。

秦さんにも聞いてみよう

せっかくなので秦檍丸(村上島之允)の「東蝦夷地名考」も見ておきましょうか。

一 ベンベ
 べは水の訓なり。此處、清川二流あり。故に此名ある歟。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.17 より引用)
これは……。若干判断に苦しみますね。「川が二手に分かれているから」という考え方は永田地名解の説に通じるのですが、「べは水の訓なり」というのは後の上原説に通じるものがあります。

松浦さんにも聞いてみよう

東蝦夷日誌には次のように記されていました。

越て沙濱(半里計)、ベンベ〔辨邊〕(小川、小休所、漁や、蔵有)土人廿餘軒。本名ベウレベツにて、冷水生る所多しの義也。此間の岩間に清水の涌出る所有。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.53-54 より引用)
おっと。新説が出てきました。「ベウレベツ」は pewre-pet でしょうか。であれば「若い・川」と読めるかもしれません。

pewreonne(老いている)の対義語と捉えることもできるかもしれません。地名における onne は「温根沼」や「恩根内」などの例がありますが、「老いている」と言うよりは「大きい」であったり、あるいは「親」と言った風に捉えられます(そういったニュアンスをなるべく活かすべく「長じた」とする時もあります)。

地名における onne の対義語は、多くの場合 pon(小さい)だとされます。ただ、pewre(若い)を使う場合も稀にあったのではないか……と考えています(たとえば中標津町の「ペウレベツ川」など)。

「ベンベ川」は距離も短いですから onne では無い……と考えることもできますが、むしろ湧水(=若い水)があることを指していたのかもしれません。

永田さんにも聞いてみよう

山田さんの「北海道の地名」によると、永田地名解は「ペペ。二川合流する処」と記しているとのことですが、より正確にはどのように記されていたのでしょう。ということで、永田地名解も見てみました。

Pepe  ペペ  二川合流スル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.174 より引用)
うーむ。これ以上の情報は得られないのか……と思ったりもしたのですが、しれっと隣にこんな項目がありました。

Pepe shir'etu  ペペ シレト゚  二川合流スル處ノ岬 「ペペ」ハ水ノ義ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.174 より引用)
あ。永田さんも pe は「水」だと解釈していたのですね。となると「──駅名の起源」の pet-pet 説はどこから出てきたのか……。

更科さんにも聞いてみよう

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。

 豊浦(とようら)
 室蘭本線豊浦町はもと弁辺村といった。ベンベでは語呂が悪いといって、昭和七年漁の豊かであることを祈念して豊浦と村名を改めた。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.57 より引用)
ふむ。村名を改めたのが昭和 7 年で、駅名が改められたのが昭和 10 年なんですね。このあたりはニセコ町の先を行った感じでしょうか。

ベンベはアイヌ語で川また川というペッ・ペッの訛りで、駅のわきを流れているベンベ川の水がちらばって流れていたので名付けられたものである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.57 より引用)
なるほど。「──駅名の起源」の pet-pet 説は更科さんがオリジナルだったのでしょうか(更科さんが「──駅名の起源」説を参考にしたという可能性もあるんですけどね)。

もう一度山田さんに聞いてみよう

例によって色々と出てきましたが、大別すると「湧き水説」「細流説」「BMW 説」などがあったでしょうか(最後のは無い)。山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のようにまとめられていました。

土地のアイヌ古老伊貸(いかし)松蔵さんに聞いたら,老人はベーベナイと呼んでいたとのことであった。つまり pe-un-pe(水・ある・処),pe-pe-nai(水・水・川)か,または pe-pe(水・水)から来た名だったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.412 より引用)
なるほど、pe-un-pe で「水・ある・ところ」だけではなく、pe-pe で「水・水」とも読めてしまいますね。

ごろが悪かったので

そして、「ベンベ」が何故「豊浦」に改名されたのかという謎については、次のように記されていました。

「ベベ」は北海道方言で女陰をいうので,それを避けて豊浦と改名したものらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.412 より引用)
あー……。更科さんは「語呂が悪い」と表現を濁していましたが、ズバっと言っちゃいましたねぇ……(汗)。「豊浦」「ニセコ」「御影」が道内三大「ごろが悪いので改名」系の駅名でしょうか。

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2017年12月23日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (76) 津川(阿賀町) (1878/7/3)

今日からは、1878/7/4 付けの「第十五信」(初版では「第十八信」)を見ていきます。イザベラは、津川から新潟まで阿賀川を下ることにしたようです。

急ぎ

津川の宿からの出立は、想定外に慌ただしいものになったようです。

新潟行きの船は八時に出ることになっていたが、五時に伊藤が私を起こして、船が満員になったから、すぐ出かけよう、と言う。そこで私たちは急いで出発した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.183 より引用)
船が満員になったから予定の時間よりも早く出発するというのは、まるでどこかの沿岸バスのようですね。もっとも、この船には「続行便」は無かったでしょうから、言い方を変えれば、機を見ることに敏い伊藤少年のおかげでイザベラは船に乗ることができた、と言えるのかもしれません。

イザベラ一行の「駆け込み乗船」を宿のご主人も全力でサポートしたようです。

宿屋の主人は私の大きな籠を背負って川まで走ってくれ、出立する私たちお客に別れをつげた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.183 より引用)
こんなエピソードもあってか、イザベラの津川に対する心象は大変良いものだったようです。

ここは二つの川が一つに合流している。景色がとても美しいので、もっとゆっくりしていたいと思うほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.183 より引用)
津川で阿賀野川に合流するのは「常浪川」(とこなみ──)ですね。津川は阿賀野川沿いの街だという印象がありますが、厳密には「阿賀野川の支流の常浪川沿いの街」と言ったほうが正しいのかもしれません。まぁ、別にどっちでもいいと言えばそれまでですが(汗)。

急流を下る

津川から新潟まで乗船する船について、イザベラは次のように書き記していました。

この定期船は、建造ががっしりしていて、長さが四五フィート、幅が六フィート、船尾の船頭はともがいで漕ぎ、もう一人は短くて水かきの幅広い櫂で漕ぐ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.183 より引用)
長さが 45 ft ということは、約 13.7 m ということになりますね。路線バスに使われる車輌が 10~11 m だそうですから、バスよりもちょっと長いくらいでしょうか。幅の 6 ft は約 1.8 m ですから、これは 3 ナンバーの乗用車並みでしょうか。

船頭は二人とも立ち続けで、雨傘のような笠をかぶっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.183 より引用)
雨傘は、「日本奥地紀行」表紙のイザベラのイラストでも描かれていますが、当時の日本では一般的な装いだったということでしょうか。

後部には藁葺きの屋根があって、私たちが出発したときには、日本人が二十五名入っていたが、川に沿った村落で彼らを下ろしたので、新潟に着いたときには三人だけとなった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.183-184 より引用)
なるほど、鉄道が開通する前のこのあたりでは、阿賀野川の水運が公共交通機関としての役割を担っていたということが良くわかりますね。船客がどんどん減っていったというのも興味深いですが、三時間も早く出発したということは、途中で客を拾うというオペレーションはそもそも想定外だったのかもしれません。

奇想天外の景色

イザベラは、船旅を心行くまで楽しんでいたようです。

私は、船荷の上に椅子を置いて腰を下ろしていた。一日に一五か一八マイルしか進めない、泥沼を這うような疲れる陸地旅行とくらべると、船の旅は楽しい変化であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
「泥沼を這うような疲れる陸地旅行」というのはなんとも酷い言い様ですが、限りなく事実に近いのですから苦笑いするしか無いですね。

津川から新潟への舟行を、イザベラは「津川の急流下り」と記していますが、この「急流下り」の危険性について、次のように詳細を記しています。

この船旅は「津川の急流下り」と呼ばれている。というのは、約二一マイルにわたって、川は高い断崖に囲まれ、見える岩や沈んでいる岩が流れに散在し、急に曲がるところも数個所あり、浅瀬のところも多く、船は矢のように流れを下るからである。しばしば起こりうる大事故を防ぐためには、長い間の経験と熟練、そして冷静さを必要とするといわれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
豊かな阿賀野川の水の上を、船は高速で縫うように走ったのでしょうね。見える岩のみならず「見えない岩」や「浅瀬」を巧みに避ける操船技術について「経験と熟練、そして冷静さを必要とする」と称賛していた……と思ったのですが

激流といっても小規模であるから、決して手ごわいものとは見えない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
おいぃぃぃ。イザベラ姐さん、ひたすら持ち上げたオチがそれですかぁ。

川の水嵩が現在の高さであるならば、船は八時間で四五マイルを下ることができる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
8 時間で 45 マイルということですから、時速約 9 km ということになりますね。「矢のように流れを下る」という表現から考えるとあまり速くないように思えますが、途中で客を降ろすために何度か停まったことが影響しているのでしょうか。まぁ表定速度が 9 km/h ということですから、最高速度はもっと出ていたことになりますし、イザベラのこれまでの旅での移動速度と比べると、破格に速かったとも言えそうですね。

ちなみに「45 マイル」は約 72.4 km ですが、津川から新潟まで高速道路経由だと 53.4 km とのこと。阿賀野川が三川のあたりで蛇行しているのも影響しているのかもしれませんね(逆に言えば、「45 マイル」という数字はそこそこ正しそうに見えます。若干過大な気もしなくも無いですが)。

料金はたった三十銭《一シル三ペンス》だが、川を上るには五日から七日も要し、棹で進めたり、岸から綱でひっぱったりして、非常に困難な仕事である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
これまた興味深い情報が記されています。そうなんですよねぇ。確かに「川下り」は結構な速度で進むことができますが、船を津川に戻さないといけませんよね。平野部の緩やかな流れであれば船を逆行させることもそれほど苦では無いのかもしれませんが、上流の激流部はロープで引っ張っていたんですね……。

「川を上るには五日から七日を要し」とありますから、船が一艘しか無いのであれば、船は五日から七日に一回しか出ないことになります。さすがに二艘くらいはあったのかもしれませんが、それでも数日に一度の船便ということになります。イザベラはうまいタイミングで津川に入ったものだなぁと思ったりもしますが、実際は何日おきの運航だったのでしょう。

私はこの日飽きることなく楽しんだ。川の流れを静かに下るということは、実に愉快であった。空気はうまかったし、津川の美景のことは少しも聞いていなかったから、私にとって予期しない喜びであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
イザベラは阿賀野川下りを心の底から楽しんでいたようですが、それにはある理由があったようです。

その上、一マイル進むごとに、私が待ち望んでいる故国からの便りが来ているところ(新潟)に近くなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.184 より引用)
これは、イザベラも人の子と言うべきでしょうか。イザベラが旅した明治初頭の日本はまだまだ「未開の地」で、現在では当たり前に整備されているようなインフラも軒並み存在しない社会でした。ところが、そんな「未開の奥地」を旅している筈のイザベラに、旅の途中でイギリスからの手紙が届いているというのも、すごく不思議な感じがします。人類未踏の洞穴に川口浩隊長が足を踏み入れる姿が中から撮影されているような違和感でしょうか(それは違うと思う)。

繁茂する草木の間から、ぱっと赤らんだ裸岩の尖った先端が現われてくる。露骨さのないキレーン(不詳)であり、廃墟のないライン川である。しかもそのいずれにもまさって美しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.185 より引用)
インターネット(というか、Google に代表される検索サイト)は、「人類の集合知」へのアクセスを極めて容易なものにしてくれたという印象があります。高梨謙吉さんが「不詳」とした「キレーン」についても、多分あっさり見つかるだろう……と期待してみたのですが、期待通りにあっさり見つかりました(汗)。

Quiraing はスコットランドで 2 番目に大きな島である「スカイ島」の北部にある場所(地形)のようで、小ぶりのグランドキャニオンのような場所だと言ったらスコットランド人に怒られるでしょうか(詳しくはリンク先をどうそ)。はっ、まさかキレーンでスコットランド人が小銭を落としたというオチでは……(汗)。

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2017年12月22日金曜日

新日本海フェリー「すずらん」スイートルーム乗船記(お部屋編)

新日本海フェリーで、主に苫小牧東-敦賀航路を担当している新型「すずらん」のスイートルーム乗船記です。二日目の今夜は(ある意味メインの)お部屋の話題です。

ベッドルーム

ドアを開けても、正面にすりガラスの衝立があるので、部屋の中を覗かれる心配はありません。ただ、右のほうを向くと……
デスクとベッドが丸見え……なんですが、さすがにこれは仕方がないですよね。それはそうと、この写真の画角の中だけでも相当広いのに、更に倍以上?のスペースが専有できるというのは……凄いとしか。

リビング

ベッドルームは窓のない内側の区画にありましたが、ソファーセットは窓側にあります。今はカーテンが閉まっていますが、航海中は日本海の大海原とその先に見える陸地をのんびりと眺めることができます。
ソファーが青と赤のペアになっているのがちょっと面白いですね。このあたりは同じ船でも部屋によってチョイスが異なるので、内装担当者さん?の腕の見せ所なのかもしれません。

ダイニング?

入り口の前にある「すりガラスの衝立」を部屋側から見てみました。衝立になっているのはあくまで棚の上だけで、棚の下(棚の中)には冷蔵庫などが入っています。
また、部屋に二つ目のテレビがあることにお気づきでしょうか。小樽-舞鶴航路を主に担当している「はまなす」のスイートは、テレビはソファーの向かい側の壁に掛けられているだけでしたが、今回の「すずらん」では二つ目のテレビがティーテーブルの近くにも追加されていました。「テレビ 2 台」がスイートの常識になる日も近いのでしょうか……(汗)。

ベッドルームふたたび

ソファーのあたりからベッドルームを望みます。ベッドの横のデスクも広いですよねぇ。あとベッドそのものもかなり幅広に見えます。140 cm くらいはありそうですよね。

洗面所

先程も記しましたが、ベッドの横には窓はありません。ベッドの横はトイレになっていて、その更に横に洗面所と(オーシャンビューの)バスルームがあります。このあたりの構造やレイアウトは先輩に当たる「はまなす」と同じですね。

そしてテーブルランプ

洗面所からソファーセットを眺めます。画角のせいか、それほど広そうには見えないですね。実際には結構広いんですが……。
長ソファーの左右にテーブルランプが備え付けられているのですが……
こうやって見ると、かなり愛嬌のある顔立ちに見えますね(笑)。

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