国鉄「胆振線」の災難
「国鉄『胆振線』の災難」と題されたパネル展示がありました。国鉄胆振線は昭和新山のすぐ脇を通っていましたが、地表の隆起に伴い坂を登りきれなくなり、何度も川沿いに移設を強いられることになります。どのような状況であったかは、こちらの図がわかりやすいですね。
これだけ線路が持ち上げられてしまったら、そりゃあ普通の機関車では登ることができないですよね。かと言って手前には長流川が流れているので、新山と長流川の間の狭い場所に線路を通すことを余儀なくされます。図らずも山腹部を通ることになってしまった線路は放棄され、橋脚がそのまま残されていたようです。
国鉄「胆振線」は、昭和新山の火山活動が始まった時点では私鉄の「胆振縦貫鉄道」という名前でした。ただ、倶知安で算出される鉄鉱石を室蘭に運ぶ最短ルートとなることから、国によって買収され「国鉄胆振線」となります。
太平洋戦争で日本が制海権を失った結果、海外からの鉄鉱石の入手ができなくなります。そのため、国内で算出される鉄鉱石の運搬ルートの確保が何よりも最優先されました。「国鉄『胆振線』の災難」の説明文には、「軍部は『人間の血より鉄』を叫び『1 本足りとも列車をとめるな』と厳命。」とあります。
謎の「D 5105」
こちらの写真には、「泥流に立ち往生の D-51 懸命の復旧作業」とあります。最初は気づかなかったのですが、写真を眺めていて、あることに気が付きました。どこかと言いますと……こちらです。ナンバープレートですが、これ、よく見ると国鉄のものでは無かったのですね。
函館本線を走っていた「スワローエンゼル」こと C62 という蒸気機関車をご存知でしょうか。あの機関車は C62 型の 2 号機ということで、「C 62 2」というナンバープレートがつけられていました。ところが、このナンバープレートは「D 5105」とあるように見えます。D51 の 5 号機であれば、本来は「D 51 5」となる筈です。
国鉄型ではないナンバープレートをつけた D51 は、サハリン向けに生産されたものの存在が知られています。平取町振内に保存されている D51-23 には、次のようなナンバープレートがつけられていました。国鉄型であれば、本来は「D 51 23」となる筈です。
ただ、写真には「D 5105」とあり、間にハイフンはありません。一体これはどういうことか……と思ったのですが、Wikipedia に答が記されていました。
胆振縦貫鉄道
D5101 - D5105 → D51 950 - 954 : 1944年胆振縦貫鉄道より買収
内地私鉄がD51形同等機を新造した唯一の事例である。D5101 - D5103の3両は同鉄道開業前の1940年5月に設計認可を得て、開業直後の1941年1月に竣工した。厳密な竣工日は順に1941年1月9日、11日、13日。以後輸送力強化のため、それぞれ1942年7月17日・1943年5月7日付でD5104・D5105が増備された。製造はD5101 - D5104が汽車製造(製造番号2021 - 2023・2234)、D5105が日立製作所(製造番号1785)で、いずれも同時期の国鉄向けに準じた仕様で竣工しており、形態も標準形と同様である。
(Wikipedia 日本語版「国鉄D51形蒸気機関車」より引用)
こうして考えてみると、胆振縦貫鉄道は最初から国鉄に買収されるつもりで建設されたのかもしれませんね(似たような話は他でもちょくちょくありました)。www.bojan.net
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