2017年11月14日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (194) 「フカバ集落の壊滅」

「フカバ」の謎

麦畑が隆起して「昭和新山」ができた……という話はご存じの方も多いと思いますが、畑があったということは集落もありました。戦前の陸軍図(スタンフォード大学さん本当にありがとうございます)を見ると、昭和新山の東側に相当するところに「フカバ」という集落があったことが確認できます。

在りし日のフカバ集落を俯瞰した図が展示されています。「ここに火山が出来た!」とありますね。
ちなみに、この「フカバ」という集落名ですが、かつてこの地に道立のサケ・マス孵化場があったことから「フカバ」と呼ばれるようになったのだそうです。ここには 7 ℃の冷水が湧いていたことから、明治 23 年に孵化場が建設されたのですが、明治 43 年の噴火活動で水温が 43 ℃に変わってしまったため、孵化場としては使えなくなってしまいます。

冷泉が温泉になってしまったので、孵化場の代わりに温泉宿ができるという冗談のような話が本当にあったらしいのですが、今度は数年後に水温が下がり始め、昭和新山ができる頃には 18~20 ℃程度の冷泉になってしまい、温泉宿は廃業を余儀なくされたのだそうです。なるほど、そう言われてみれば陸軍図にも「フ」の字の上に温泉マークが記されていますね。
こちらは「昭和新山生成前の壮瞥村字フカバ集落 昭和 16 年写」と題された写真です。「東九万坪台地」の上から集落を俯瞰した写真で、家々には世帯主の名前がマークアップされています。この地に居を構えていた人の名前が記されるだけで、単なる写真の筈が妙なリアリティを帯びてしまいますね。

写真には「胆振縦貫鉄道(昭和19年7月より国鉄胆振線)」という文字も並んでいます。「鉄橋(コンクリート橋脚が新山中腹に残存)」とありますね。

噴火は麦畑にはじまった!

フカバ集落は昭和新山の誕生の結果、壊滅させられることになるのですが、一朝一夕に壊滅したというわけではありませんでした。「噴火は麦畑にはじまった!」と題された写真で、「西九万坪作業小屋付近より噴気を望む」というサブタイトルがつけられています。
上の写真から四ヶ月ほど経った頃の写真がこちらです。「裏庭が山になる! 大地の隆起で壊滅する『フカバ集落』」と題されています。
この写真はいつ頃の撮影なんでしょうか。「新火山の一部に取り込まれつつある字フカバを行く三松正夫」とあります。猟銃を携えての調査ですが、「当時乏しい蛋白資源である野兎・野鳥を期待して」とあります。戦中の食糧事情の厳しさが偲ばれますね。

フカバ部落の壊滅

「フカバ部落の壊滅」と題されたパネルです。「岩倉宅と宅裏の崖」などの生々しい情報にはドキッとしますね。注目すべきは国鉄を表すラインの数で、最も上(山に近い)に描かれている線路と、最も下に「迂回線」として描かれている線の間に三本もの異なる線路が描かれています。隆起した山を避けるべく、長流川の古川沿いに迂回線を敷設したものの間に合わず、最終的には古川に架橋してかつての中洲を経由することを余儀なくされたのでした。
フカバ集落の壊滅は、カメラに収められただけでなく、三松さんの肉筆でもしっかりと記録されていました。「隆起中の東九万坪台地」や「隆起中の東区万坪とフカバ集落」と言った題が付されています。
フカバ集落の人々が集団避難した際の写真のキャプションには「当時は避難所の開設どころか、これ位の事で逃げるのは『銃後の民』の恥とされた」とあります。改めて考えてみると恐ろしい話ですよね。

地殻変動状況平面図

この「地殻変動状況平面図」には、フカバ集落がどのように新山に飲み込まれていったかが克明に描かれています。現在の昭和新山の山容からは、単純に西から東に山が形成されたようにも思えてしまいますが、「地殻変動状況平面図」を見ると、先に南側が隆起し、やがて隆起がフカバ集落に近づいていったことが良くわかります。
隆起は壮瞥川の河口部にも及び、天然ダムを形成して壮瞥川の河口に池ができることになります。

消えたフカバ部落

「昭和新山で消えた フカバ部落」と題された新聞記事のコピーです(1980 年 3 月 17 日の北海道新聞)。「昭和新山生成前の壮瞥村字フカバ集落 昭和 16 年写」の写真が使われていることが確認できます。

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