2017年10月8日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (475) 「博多・大尽内川・戸長川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

博多(はかた)

(博知石)
hat-kuchi-us-i
ぶどう・コクワ(サルナシ)・多くある・もの
(典拠あり、類型あり)
明治から大正にかけて、北の大地に開拓民が大挙して移住した時期がありました。開拓民は出身の地域単位で「移民団」を形成し、時には移民先に移民元の地名を持ち込むこともありました。移民団は市町村レベルではなく県レベルで形成されることが多かったため、「愛知」「秋田」「茨城」「岩手」「岡山」「香川」「岐阜」「熊本」「滋賀」「静岡」「栃木」「鳥取」「山形」「山梨」などの、都道府県の名前を冠した集落が成立することとなりました。

さて「博多」の話題です。「博多」は松前町中心街のやや西より、唐津内沢川の西側の地名です。国鉄松前線の松前駅があったあたりでしょうか。

ちなみに「唐津内沢川」の東側には「唐津」という地名があります。これは「唐津内沢川」から来ていると考えるのが自然でしょうね。

さて、そんな「博多」ですが、実は九州とは全然関係のない地名で、元々は「博知石」で「ばくちいし」と読ませる地名だったのだそうです。ギャンブルで身を持ち崩したお医者さんがいた……という訳では無いことを祈りましょう。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。

 博知石(ばくちいし)
 松前町の海岸にほら穴のある博知石というところがあり、この石のほら穴でむかしバクチをやったので名付けられたのだという伝説がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.8-9 より引用)
やはり……(汗)。ちなみにこの「伝説」の詳細も記されています。下手に抜粋するより引用したほうがいいと思うので、ちょいと長いですが引用してしまいます。

時化のときにこの岩の付近で難破する船が多いので、相談の結果この岩にほら穴を掘って船霊様を祭ることになり、徳蔵という男が三年がかりで神の岩屋を完成したところ、神を祭る前に漁夫達がこのほら穴で酒盛りをした上にバクチをやったので、徳蔵が怒ってこの穴にこもり絶食して憤死したという話がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.9 より引用)
こりゃあ酷い話ですね。徳蔵さんの憤りも相当なものだったことでしょう。

さて、まだ続きがあります。

しかし、バクチ石の原名は北海道に多いアイヌ語のハクチ・ウシで、こくわの多いところである。現在博多と改名した。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.9 より引用)
やはり……(汗)。「博打」と「石」を組み合わせるために、わざわざあんなストーリーを考えたんですね……(汗)。永田地名解にも次のように記されていました。

Hat kuchi ushi  ハッ クチ ウシ  葡萄獮猶桃(ブドウコクワ)多キ處 此地名新冠郡ニモアリ、松前人ハ土語ノ「ウシ」ヲ「イシ」ト訛リ石ノ字ヲ充テタルコト極メテ多シ後人知ラズ妄リニ一個ノ石ヲ指シテ曰ク古ヘ此岩穴中ニ博奕セシコトアリ故ニ博知石ト名クト古ヘニ暗キコト甚シト云ト云フベシ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.150 より引用)
hat-kuchi-us-i で「ぶどう・コクワ(サルナシ)・多くある・もの」と解釈できそうです。「新冠郡にもあり」としているのは、おそらく「泊津」のことでしょうね。

ということで、ギャンブルで身を持ち崩した漁夫の実在は否定できそうな感じになってきましたが、上原熊次郎さんが全く違う説を唱えていました。

博知石
  夷語パウチウシなり。交合なす所と譯す。扨、パウチとは交合、ウシとは成す亦は所とも申事ニて、則、此所に岩屋ありて此内にて昔時夜な夜な若きもの交合なしたるものあるゆへに地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.39 より引用)
……(汗)。確かに pawci は「淫乱」という意味ですよね。中々大胆な説です(確かに)。そして面白いのが、上原説も永田説も、どっちも「岩穴」が出て来るんですよね。もしかしたら「岩穴で博奕」説も上原説から進化?したものなのかもしれません。

大尽内川(おおつくしない──)

poro?-chi-kus-nay
大きな・我ら・通行する・沢
(典拠あり、類型あり)
松前の市街地を西に抜けたところに「折戸海岸」という海岸があります(なるほど、やはり「降りる処」なんですかね)。そして、折戸海岸から更に 1 km ほど北西に向かったところに「大尽内川」と「小尽内川」が並んで流れています(両者の間隔は、海岸部では 300 m ほどです)。

この「大尽内川」と「小尽内川」、「竹四郎廻浦日記」にも「小ツクシ」と「大ツクシ」と記されています。どこかのタイミングで大小入れ替わったようなのですが……。

閑話休題(それはさておき)。この「ツクシ」が、実は……永田地名解には次のように書いてありました。

Chi kush nai  チ クㇱュ ナイ  通路澤 舊地名解ニ云フ此澤ヨリ東西ヘ通路セシ故ニ此名アリト
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.150 より引用)
うわっ、そういうオチでしたか。chi-kus-nay は確かに「我ら・通行する・沢」という意味ですが、それが「尽」という一文字にまとめられていたとは想像が追いつきませんでした。巧い字を当ててしまったものですね(笑)。

ちなみに、「大尽内川」や「小尽内川」沿いを歩いたとして、確かに東にある及部川の流域に出ることはできるのですが、相当な遠回りでとてもメリットがあるようには思えません。唯一考えられるのが松前の市街地を通らずに済むということで、松前藩と敵対していたアイヌの交通路だった、ということなのかもしれませんね。

戸長川(とちょう──)

to-chis??
海・中凹み
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
松前町館浜(かつての「根部田」)の北西を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「トチウイシ」と記されています。また「竹四郎廻浦日記」には「トウチサワ」(あるいは「トアウサワ」?)と「トチユウサワ」(あるいは「トテウサワ」?)という小川が記録されています。

「トウチサワ」については「トツチヨウ」と解読する向きもあるようですが、面白いことに「戸長川」を「トッチョ川」と呼ぶ流儀もあるらしいですね。

なお、「戸長役場」(こちょうやくば)制度の成立が 1878 年ですから、「トチウイシ」と直接の関係はなさそうです。よってアイヌ語で解釈できるのではないかと思ってみたのですが……難航していまして、ええ。

「トチウ」が「トピウ」の転訛したものと考えるならば、topi-o(-i) で「竹・多くある(・所)」なのかもしれません。あるいは「トチウ」が「ノチウ」の転訛したものと考えると、nociw で「星」となります。

「トチウ」をそのまま素直に読み解いたとすると、to-chiw で「沼(海)・波」あたりでしょうか。あるいは to-chis で「沼(海)・中凹み」と考えることもできるかもしれません。

to は一般的には「沼」であったり「湖」あたりを意味しますが、場所によっては(時代によっては?)「海」のことも to と呼んでいたケースもあったと聞きます。戸長川の流域には沼や池はなさそうですから、仮に to だとしたら「海」と考えるしか無いんですよね。

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