2017年8月11日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (70) 片門(会津坂下町)~野沢(西会津町) (1878/6/29)

引き続き、1878/6/30 付けの「第十三信」(初版では「第十六信」)を見ていきます。イザベラ一行は片門(会津坂下町)での小休止の後、更に西に向かいます。

山の景色

イザベラ一行は……途中で落馬した伊藤少年を除いて……会津坂下町の片門から西に向かいました。現在の会津坂下町から西会津町に抜けるために山越えをしたと考えられるのですが、そのルートは「束松峠」経由だったでしょうか。現在は磐越自動車道の「束松トンネル」が通っている近くです。

この手に負えない場所を去ると、こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものとなってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.173 より引用)
会津坂下町片門から西会津町の野尻に向かうには、只見川→阿賀川沿いを進むこともできたようにも思えますが、やはり遠回りだという判断だったのでしょうか。イザベラ一行はダイレクトに山越えするルートを選んだようです。

今や会津山塊の高峰に近づいており、二つの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.173 より引用)
この文でルートが特定できるかなぁと思ったのですが、あまり参考にならない内容でした。確かに会津盆地は「磐梯山」「明神岳」などの山々に囲まれています。「西南にそびえる明神岳」は、会津美里町と柳津町の間に聳える「明神ヶ岳」のことでしょうか。

謎だったのが「糸谷山」なのですが、これは金坂清則氏の訳によると「飯豊山」のことではないかとのこと。あ、これって「飯豊」を「いとよ」と誤読したということでしょうか。

どうやら「飯豊山」のことを「いいとよさん」と読む流儀もあるとのこと。イザベラのインフォーマントは「いいとよさん」と読んだのかもしれませんね。

会津盆地から眺めることができる山々について、イザベラは次のようなインプレッションを記していました。

これらの峰は、岩石を露出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色におおわれている低い山山の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私が考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性昧を力強く出しているものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.173 より引用)
なるほど。画一的な日本の風景に与えられた格好のスパイスなのではないかと感じたわけですね。この解釈にはとても同感できます。富山や松本のあたりに行くと雪をいだいた北アルプスの山々を見ることができますが、どれだけ眺めていても飽きませんからね。

イザベラ一行は、おそらくは途中から現在の「越後街道」を経由して西会津町の野沢にやってきました。磐越西線の「野沢駅」のあるところですね。

私が先頭になって騎馬旅行を続け、ただ一人野沢という小さな町に着くと、人々は好奇心をもって集まってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.173 より引用)
野沢からは現在の国道 49 号のルートを通ったようですね。阿賀野川が大きく U ターンしているところで、蝉峠山の麓にはすぐ近くに阿賀野川が迫っていた筈です。

ここで休息をしてから、私たちは山腹に沿って三マイルほど歩いたが、たいそう愉快であった。下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.173 より引用)
イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には、初版の「完全版」と、その後に出された「普及版」がありますが、以下の一節は何故か「普及版」でカットされていたようです。

寺の唐金(からかね)の鐘の音は静かな空気の中を甘く悲しく流れ、そのような牧羊地区風に見える地域によりふさわしかっただろう、雌牛のモウーと鳴く声や羊のメエーと鳴く声が欠けていたことを忘れさせていました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.68 より引用)
前述の通り、「普及版」を世に送り出す際に「完全版」からカットされた部分があるのですが、それらは「地誌的に過ぎる記述」であったり「宗教に関する記述」であったりする例が多いようです。推測ですが、イザベラの奥地紀行はイギリス政府のバックアップを受けていたこともあり、スポンサー様(イギリス政府)に対する「視察レポート」としての側面もあったのではないかと思われる節があります。実際、「完全版」には一般的な「紀行文」としては必要の無さそうな文章も少なからず含まれていました。

ただ、ここでカットされた一節は「地誌的」で無ければ「宗教的」でもありません。これまでカットされたケースとは違いがあるように見受けられますが、単純に「これ、別に無くてもいいよね」と思ってカットしただけなのかもしれません。

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