2017年7月31日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (127) 「親子熊岩」

「たぬき岩」や「マンモス岩」などの奇岩巨岩を眺めつつ、国道 229 号「追分ソーランライン」を南に向かいます。前方には「親子熊トンネル」(103.0 m)が見えてきました。
トンネルを抜けてから 300 m ほど先の右手(海側)に駐車場がありましたので、そこに入ってみることにしました。
この駐車場に何があるかと言いますと……
そう。大成町(あ、今はせたな町大成区でしたね)の奇岩群の中でも飛び抜けて有名な「親子熊岩」です。どこにあるのかと言えば……
めっちゃ近くにありました。

親子熊岩

この「親子熊岩」ですが、このコントラストだとわかりやすいでしょうか。子熊が立ち上がって親熊に縋りつこうとしているように見えますよね。
アングルとコントラストを変えてもう一枚。

親子熊岩物語

この「親子熊岩」は、形のリアルさも然ることながら、やはりその偶然の造形がストーリーを組み立てやすいものだったところに広く知られた理由があったのでしょうね。実際に「親子熊岩物語」と題された案内板が掲出されていました。
「親子熊岩」にはこんなストーリーがあったみたいです。誰が考えたものなのでしょうね。
そして、看板の下にはこんなアピールも。密漁はやめましょう。

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2017年7月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (459) 「七飯」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

七飯(ななえ)

nu-an-nay?
豊漁・である・沢
na-nay?
もっと?・沢
nam-nay?
冷たい・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
函館市の北、北斗市の東にある町の名前です。七飯町は町域の真ん中に分水嶺があり、南は函館平野、北は大沼公園と全く違った側面を見せています。

まずは定説から

JR 函館本線に「七飯駅」があります。ということで「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  七 飯(ななえ)
所在地 (渡島国)亀田郡七飯町
開 駅 明治 35 年 12 月 10 日(北海道鉄道)
起 源 アイヌ語の「ヌ・アン・ナイ」(漁のある川)から「ナンナイ」となり、それに七重の字を当てたが、明治 35 年 4 月 1 日飯田村と合併して七飯村としたので、その村名の「七飯」からとったもの。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.4 より引用)
ふむふむ。nu-an-nay で「豊漁・である・沢」と考えたのですね。

上原熊次郎曰く

山田秀三さんの「北海道の地名」には、上原熊次郎の説と永田方正の説が併記されていました。

七飯 ななえ
 町名,駅名。意味ははつきりしない。上原熊次郎地名考は「七重(なない)。夷語ナアナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾等もと申事。此辺渓沢の多く在故地名になすと云ふ」と書き,永田地名解は「ヌ・アン・ナイ。豊沢。急言してナンナイと云ふ。和人ナナイと云ふは訛なり。この地名は今の七重浜なる石川の末流に附したる名なり」と書いた。どっちも何か判然としない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.430 より引用)
意外なことに、山田さんは nu-an-nay 説にも若干懐疑的なようでした。上原熊次郎の説は na-nay で「もっと・沢」か、あるいは na-na-nay で「もっと・もっと・沢」だったのでしょうか(そんな用法があったかな……と思ったのですが、田村すず子さんの辞書にちゃんと記されていました(汗))。

永田地名解の検討

永田地名解の註に「今ノ七重濱ナル石川ノ末流ニ附シタル名ナリ」とありますが、「石川」は七重浜の東側を流れる「常盤川」の支流の名前です。一方、七飯駅のあたりは「久根別川」が流れていますが、久根別川は石川の支流ではなく、七重浜の西で海に注いでいます。

これをどう考えたものか……という話ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、「ク子ヘツ」の支流として「石川」という川が描かれていて、また、「七エハマ」の上(東側)に「トキハキ川」(現在の「常盤川」?)という川が描かれています。これはつまり、えーと……どういうことでしょう?(汗)

「竹四郎廻浦日記」を見ていて、面白いことに気づきました。

     ク子ベツ
板橋有。川巾十余間。此川峠下村の端にて渡りし川の末流也。越て右の方有川村道、左り箱館えの本道。
     水 堀
     コフキ浜
     七 重 浜
此処にて休息致し一蓋を傾け、其次聞(ま)て行侭、
     七 重 川
此河源は七重村より来る故に号るか。此川有川亀田村の境也。巾五・六間、遅流にして深し。魚類は鯽魚・土鰍・似嘉魚・トケヨロ等有り。此橋は文化度羽太・戸川の両鎮台の決断にして架られ、其名を常盤木橋と号られし也。思出すまゝ降積る雪を項かぬ斗りして渉り行。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.605 より引用)
これで「トキハキ川」の謎が解けましたね。どうやら「常盤木橋」を川の名前と解釈してしまった、というオチなのでは無いでしょうか。そして永田方正が「豊漁の沢」とした川が、現在の「常盤川」であると考えられそうです。

七重川は七重村を流れていたのか

最後に残った謎が「果たして七重川は七重村を流れていたのか」ということです。「竹四郎廻浦日記」の記述からは、七重浜を流れる「七重川」は現在の「常盤川」であると読み取れます。また、永田地名解の記述もこの解釈と矛盾の無いものです。

ところが、常盤川、あるいはその支流である石川も、せいぜい桔梗のあたりまでしか遡ることができません。というのも、函館市と七飯町の間に「蒜沢川」(にんにくざわ──)が流れているのですが、蒜沢川は久根別川の支流です。従って七飯町域に「常盤川」「石川」の源流を求めることはできません。

そして、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ク子ヘツ」の支流として「七重」という川が描かれています。この「七重」は「中スタ」と「水ナシサワ」の間を流れているとされているのですが、面白いことに「中須田川」と「水無沢川」という川が現存しています。「中須田川」と「水無沢川」の間には「鳴川」という川が流れているので、これを「七重」と認識されていた可能性も考えられます。

ただ、「東西蝦夷山川地理取調図」では「七重」よりも「中スタ」のほうが長大河川として描かれているので、元々は「中須田川」が本流で、どこかのタイミングで「鳴川」に水をバイパスさせた可能性もありそうに思えます。

ということで、ここまででわかったことは、松浦武四郎さんが「七重村から来てるから七重川じゃね?」と書いたことがどうやら違うんじゃない? ということです。今でこそ鉄道も国道も桔梗から七飯を経由していますが、松浦武四郎の時代は大野経由の道を使っていたようで、七飯のあたりにはあまり注意が払われなかった、というオチなのかもしれません。

まとめ

今更ながら、「角川──」(略──)を見ておきましょうか。

地名の由来は,「北海道蝦夷語地名解」「北海道駅名の起源」にアイヌ語のヌアンナイ(豊かな沢,漁のある谷川の意),「蝦夷地名考井里程記」にはナアナイ(多く渓谷有るという意),
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1051 より引用)
うんうん、そうでしたよねぇ。

「アイヌ地名考」にはナムナイ(冷たい流れ又は谷の意)によるという各説がある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1051 より引用)
え(汗)。でも、なんかこの説も意外とアリなんじゃないかなぁと思えてきました。大胆な仮説ですが、「七重浜」(北斗市)と「七重」(七飯町)の由来は実は別で、「七重浜」が nu-an-nay で「七重」が na-nay あるいは nam-nay だと考えると、割と自然な形に落ち着くように思えるんですよね。

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2017年7月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (458) 「鶉・木間内・古佐内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

鶉(うずら)

ut-nay?
肋・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「厚沢部川」の北支流に「鶉川」という川があります。国道 227 号はずっと厚沢部川沿いを通ってきましたが、上流部は鶉川沿いを通ります。

鶉川は、中流部で「小鶉川」と合流しています。鶉川と小鶉川の間に「鶉町」の集落が形成されていて、鶉川の南側には「うずら温泉」もあるようですね。鶉川の上流部には「鶉ダム」もあります。

そろそろ「鶉」という文字がゲシュタルト崩壊を起こしたことと思いますので、本題に行きましょう。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウツラ」という川が記されています。但し、「ウツラ」と記された位置は現在の「当路橋」のあたりで、該当する川は鶉川ではなく「館川」です。逆に、鶉川と思しき川に「館」と記されています。位置認識の混同があったようです。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

 扨此処より本川すじの奥を見るに、両山相蹙て其沢目見えがたし。凡十丁も此処より奥に入る時は左りの方に小沢有。是を ウツラと云。人家十七八軒も有也。向て右の方金堀穴、メノコシ等云字有と。又左りの方に行や此辺土地余程開け畑多く、人家も沢山有るよし。惣名を館と云と。むかし古城が有しに依て号るとかや。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.239 より引用)
「蹙」は「せまる」と読むのだそうです(へぇ)。……よく見たら「顰蹙」の「蹙」じゃ無いですか!

位置関係の問題があるので、若干長めに引用してみましたが、廻浦日記での位置認識は正しそうな感じですね。

これだけだと地名の由来がさっぱりわからないのですが、「角川──」(略──)には次のように記されていました。

地名の由来は,アイヌ語で川が横から注ぐ低い所という意のウツラによるとも,脇から流れる川,横川の意のウツナイによるともいう(アイヌ語地名解)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.180 より引用)
なるほど、ut-ra で「肋骨・低い」と考えたのでしょうか。あるいは ut-nay で「肋・沢」が転訛したと考えたのでしょうか。永田地名解にも「ウッ ナイ」という記載があったので、永田っちut-nay が転訛したと考えたようですね。

空知の上砂川町にも「鶉」という地名があります(函館本線の上砂川支線に同名の駅がありました)。こちらは福井県鶉村(現在の福井市内)からやってきた開拓民にちなむとのことで、直接アイヌ語との関係は認められない地名です。

木間内(きまない)

kim-oma-nay?
山・そこに入る・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
厚沢部町鶉町から鶉川を東に遡ったところに位置する集落の名前です。早速ですが更科さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 木間内(きまない)
厚沢部町の水田地帯、キ・オマ・ナイ(茅原の川)の訛ったものと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.20 より引用)
さすが更科さん。ふんわりした感じの地名解は今日も健在です。

続いて「角川──」(略──)を見ておきましょうか。

地名の由来は, アイヌ語の村の奥にある川という意のキマクナイによるという(アイヌ語地名解)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.471 より引用)
ふーむ。「ナイ」は nay と考えて良さそうですが、その前の解釈が若干ブレてますね。どちらが適切だろう……と考えてみたのですが、どちらでもなく(ぉぃkim-oma-nay という可能性は無いでしょうか。これだと「山・そこに入る・沢」と考えられそうです。

となると、どの川を指して kim-oma-nay と呼んだのか、という疑問が出て来るわけですが、これは「鶉川」そのものを指したと考えるしか無いような気がします。国道 227 号は峠下からそのまま中山トンネルで北斗市(旧・大野町)に抜けてしまいますが、鶉川は峠下からさらに北にずーっと伸びています。このことを kim-oma- と呼んだのでは無いかなぁと、後づけで考えてみました(汗)。

古佐内川(こさない──)

kosa-nay?
ムグラ?・沢
(? = 典拠あり、類型未確認)
厚沢部町本町から館町に向かう途中に「五郎助岳」という山があるのですが、その山の東側を南から北に流れて厚沢部川に合流する支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」にも「コサナイ」と記されていますね。

更科さんの「アイヌ語地名解」に記載がありましたので、早速見てみましょう。

 古佐内川(こさないがわ)
 厚沢部川の左小川。アイヌ語コサ・ナイの当字で、むぐらの生えている沢の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.21 より引用)
へぇ~。本当かなぁ……と思ったのですが、永田地名解にも次のように記されていました。

Kosa nai   コサ ナイ   葎艸ノ澤 アイヌ此草根ヲ食料トス
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.148 より引用)
この kosa という語彙について確認してみた所、残念ながら知里さんの「植物編」には記載が無いことがわかりました。ただ、田村すず子さんの辞書には次のように記されていました。

kosa コサ【名】[植物]「フジ」。☆参考「今はない、昔あった、土地のいいところにだけ生える、紫の花が咲く、れんこん(蓮根)のような直径 3 センチくらいの節のある根を持ち、その根は食べられる、つるはものをしばるのに用いる。」( S ) ☆参考 藤ではない。クズの一種らしい。〔知分類 なし、p.109 oykar クズ(方言ふじ) 〕{E: a kind of arrowroot plant.}
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.338 より引用)
これは永田っちの「アイヌ此草根ヲ食料トス」という表現とも一致しますね。「むぐら」は「葎」のことで、「藤」とも「葛」とも違うのですが、まぁその辺は見なかったことに……(ぉぃ)。

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2017年7月28日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (126) 「たぬきもいればマンモスも」

昨日の記事の続きです。「止まって下さい!」とお願いされたのも束の間、次の瞬間には……
機嫌よく送り出して下さいました。ありがとうございます!

隷書体が気になる「横澗トンネル」

国道 229 号を南下して、ツラツラ岬をショートカットする「横澗トンネル」(全長 290.0 m)が見えてきました。右の小さな山が「ツラツラ岬」ですね。こうやってみると立方体のような岬ですね……。
この「横澗トンネル」、何が印象的かと言うと……
トンネルポータルに隷書体で刻まれた「横澗トンネル」の文字ですよね。大きさといい味わい深さと言い、なかなかのインパクトがあると思いませんか?

たぬき岩

横澗トンネルを抜けてからは奇岩のオンパレードです。右側にちょこんとした岩がありますが、これが「たぬき岩」という名前なのだとか。

マンモス岩

そして、こちらの巨岩が……
「マンモス岩」なのだとか。確かに巨大ではありますが……(汗)。

一応、旧・大成町の Web ページと思しきものを参考に岩の同定を行っているのですが、地理院地図に記入された位置と微妙に異なるのが気になるところです。

名称不明岩

この岩もなかなか変わった形をしていますが、名前があったりするのでしょうか。

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2017年7月27日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (125) 「日本海給油地点」

太櫓川の支流の「二俣川」沿いを南に向かいます。やがて二俣川の更に支流にあたる「久遠沢」沿いを駆け上がり……
「太櫓越峠」をショートカットする桧山トンネルに入ります。この桧山トンネル、実は全長が 1010.0 m もあるのです。そう言えば何故「桧山トンネル」なんでしょうね。「太櫓越トンネル」ではダメだったのでしょうか。

ここは「日本海給油地点」

トンネルを抜けて、太櫓越川沿いを南西に向かいます。雲の切れ間が随分と広くなってきました。直前までにわか雨に振られていたとは思えない空模様です。
せたな町大成区宮野の三叉路が見えてきました(青看板を見やすいように補正をかけてます)。ちょうど一時間ほど前に青看板の「左上」からやってきて「右上」に向かったんですよね。そして、これからは「左上」に戻ることになります。
三叉路には ENEOS のガソリンスタンドがあったのですが、謎なコピーが目を引きますね(笑)。「点」の異体字?もいい味が出てます。
ちなみにこの交叉点、右側にはこんな花壇がありました。無事故カウンターがその後リセットされてしまったという話は以前の記事で触れたとおりです。

レアな組み合わせ?

国道 229 号「追分ソーランライン」は、ここから海沿いに戻ります。臼別川にかかる「臼別橋」が見えてきました。それにしても、この道路のスペックで 40 km/h 規制というのはキツいですねー……。
せたな町大成区貝取澗にやってきました。ちょうど「ヨリキ岬」のあたりでしょうか。空を覆っていた雲もすっかり少なくなり、夏の空が戻ってきました(連載名は「秋の──」ですが(汗))。
ところで、この「あわび山荘」ですが、海の幸+山荘という組み合わせはなかなかレアなのではないかと……(笑)。

わかって下さい(違)

貝取澗の集落を抜けて、横澗川のあたりで「止まって下さい!」とお願いされました。ということで、今日の記事もこの辺で止めておきます。

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2017年7月26日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (124) 「今度は栄に」

せたな町北檜山区愛知の国道 229 号を南に向かいます。
川筋で言えば、後志利別川の流域から太櫓川の流域に向かっていることになります。ということで早速分水嶺のトンネルが見えてきました。全長 115.0 m の「若松トンネル」です。
トンネルを抜けた先も北檜山町……じゃなくてせたな町北檜山区なのですが、なんと地名が「栄」です! そう、「栄」と言えば名古屋で一番の繁華街ですが、ついさっきまで「愛知」にいたんですよね。

「栄」という地名は「栄石」か「サキリカンナイ」あたりから出たものだと思うので、「愛知」とはおそらく何の関係も無いでしょうけど。

またしても函館バス

太櫓川にかかる「栄石橋」が見えてきました。以前(2010 年)に道南の西海岸経由で函館を目指したことがあったのですが、その時はせたな町大成区貝取澗と長磯の間が通行止めで、泣く泣く八雲に抜けたことがあったのでした。
下若松のあたりで函館バスとすれ違いました。今日は良く函館バスとすれ違うなぁ……と思ったのですが、
何のことは無い、大成で出会ったバスと同じ車輌でした。

雨が降ったり、すぐ止んだり

この日はとにかく良くわからない天気で、驟雨に見舞われたかと思えば……
数分後には完全なドライ路面を走っていたりと、路面状況も目まぐるしく変わる感じでした。

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2017年7月25日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (123) 「なぜか愛知」

道道 740 号「北檜山大成線」の終点が……いや、こっちが起点でしょうか。前方の T 字路の先が国道 229 号です。このあたりに国鉄瀬棚線の踏切があった筈ですが、さすがに痕跡は見当たらないようですね(「止まれ」のすぐ手前が線路跡の筈です)。
久しぶりの国道 229 号です。いや、実際にはこの二日前に北檜山から瀬棚に向かって走っている筈なんですが、記事にしたのは一年近く前なんですよね(汗)。
ここはかつての北檜山町ですが、「せたな町役場」「せたな警察署」「せたな町立国保病院」など、せたな町を代表する施設の多くが北檜山にあるのですね(悪質なコピペ)。

北檜山の目抜き通り

国道 229 号は北檜山の市街地のど真ん中を通っています。最近は郊外を通るバイパスが整備されていることが多いのですが、ここは本当に街の目抜き通りがそのまま国道になっていますね。
国道 229 号と 230 号の分岐点まで戻ってきました。左折すると今金に戻ってしまうので、ここは右折です。
道路沿いの建物が少なくなると同時に、前方には橋が見えてきました。

なぜか愛知

「清流日本一」の後志利別川にかかる「真栄橋」が見えてきました。はい。5 分ほど前に南から北に渡ったばかりですが、今度は北から南に渡り直しです。
「真栄橋」を渡った先は……
なんと、そこは「愛知」でした! 入植元の都道府県名が地名として残るケースはちょくちょくありますが、「愛知」というのは割と珍しいんですよね(旧・大滝村に「愛地」があるようですが)。

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2017年7月24日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (122) 「威風堂々、鷹ノ巣岬」

道道 740 号「北檜山大成線」で北檜山に向かいます。鵜泊から良瑠石(らるいし)に向かう途中で……
またしても短いトンネルを通ります。トンネルの名前は「鵜泊隧道」と言うのですが、
このトンネル、大型車のすれ違いはちょっと難しそうなサイズですね。

威風堂々、鷹ノ巣岬

良瑠石を通り過ぎ、古櫓多(ごろた)に向かいます。手前に見えるのが「鷹ノ巣岬」で、海の向こうには風力発電の風車が見えます。風車の見える辺りがせたな町瀬棚区ですね。
古櫓多のお隣の太櫓にやってきました。ここも高台に避難するための階段が整備されていますね。
このアングルだとわかりやすいでしょうか。緑豊かな斜面の上に金属製の階段があるのはやはり目立ちますね。金属製にしたのは、土砂災害に強そうなのも理由の一つかもしれませんね。
鷹ノ巣岬が近づいてきました。これまた堂々とした岬ですね。地形図で見たところでは、高さは 60 m ほどありそうです。チャシ(砦)か、少なくとも見張り台くらいはあったんじゃないかなぁと思わせる威容ですね。
鷹の巣トンネルに入ります。後ろの岩の地層の歪み具合が見事ですね!

清流日本一、後志利別川

鷹の巣トンネルを抜けて、岬沿いにクルッと向きを変えた後、太櫓川の河口に広がった平野をまっすぐ抜けます。ここでついに海から離れることになりますね。
太櫓川を越えてからも内陸寄りを走ります。2~3 分ほど走ったところで「清流日本一」の後志利別川が見えてきました。道道 740 号の完走まであとすこしです。

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