七飯(ななえ)
まずは定説から
JR 函館本線に「七飯駅」があります。ということで「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。七 飯(ななえ)
所在地 (渡島国)亀田郡七飯町
開 駅 明治 35 年 12 月 10 日(北海道鉄道)
起 源 アイヌ語の「ヌ・アン・ナイ」(漁のある川)から「ナンナイ」となり、それに七重の字を当てたが、明治 35 年 4 月 1 日飯田村と合併して七飯村としたので、その村名の「七飯」からとったもの。
上原熊次郎曰く
山田秀三さんの「北海道の地名」には、上原熊次郎の説と永田方正の説が併記されていました。七飯 ななえ
町名,駅名。意味ははつきりしない。上原熊次郎地名考は「七重(なない)。夷語ナアナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾等もと申事。此辺渓沢の多く在故地名になすと云ふ」と書き,永田地名解は「ヌ・アン・ナイ。豊沢。急言してナンナイと云ふ。和人ナナイと云ふは訛なり。この地名は今の七重浜なる石川の末流に附したる名なり」と書いた。どっちも何か判然としない。
永田地名解の検討
永田地名解の註に「今ノ七重濱ナル石川ノ末流ニ附シタル名ナリ」とありますが、「石川」は七重浜の東側を流れる「常盤川」の支流の名前です。一方、七飯駅のあたりは「久根別川」が流れていますが、久根別川は石川の支流ではなく、七重浜の西で海に注いでいます。これをどう考えたものか……という話ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、「ク子ヘツ」の支流として「石川」という川が描かれていて、また、「七エハマ」の上(東側)に「トキハキ川」(現在の「常盤川」?)という川が描かれています。これはつまり、えーと……どういうことでしょう?(汗)
「竹四郎廻浦日記」を見ていて、面白いことに気づきました。
ク子ベツこれで「トキハキ川」の謎が解けましたね。どうやら「常盤木橋」を川の名前と解釈してしまった、というオチなのでは無いでしょうか。そして永田方正が「豊漁の沢」とした川が、現在の「常盤川」であると考えられそうです。
板橋有。川巾十余間。此川峠下村の端にて渡りし川の末流也。越て右の方有川村道、左り箱館えの本道。
水 堀
コフキ浜
七 重 浜
此処にて休息致し一蓋を傾け、其次聞(ま)て行侭、
七 重 川
此河源は七重村より来る故に号るか。此川有川亀田村の境也。巾五・六間、遅流にして深し。魚類は鯽魚・土鰍・似嘉魚・トケヨロ等有り。此橋は文化度羽太・戸川の両鎮台の決断にして架られ、其名を常盤木橋と号られし也。思出すまゝ降積る雪を項かぬ斗りして渉り行。
七重川は七重村を流れていたのか
最後に残った謎が「果たして七重川は七重村を流れていたのか」ということです。「竹四郎廻浦日記」の記述からは、七重浜を流れる「七重川」は現在の「常盤川」であると読み取れます。また、永田地名解の記述もこの解釈と矛盾の無いものです。ところが、常盤川、あるいはその支流である石川も、せいぜい桔梗のあたりまでしか遡ることができません。というのも、函館市と七飯町の間に「蒜沢川」(にんにくざわ──)が流れているのですが、蒜沢川は久根別川の支流です。従って七飯町域に「常盤川」「石川」の源流を求めることはできません。
そして、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ク子ヘツ」の支流として「七重」という川が描かれています。この「七重」は「中スタ」と「水ナシサワ」の間を流れているとされているのですが、面白いことに「中須田川」と「水無沢川」という川が現存しています。「中須田川」と「水無沢川」の間には「鳴川」という川が流れているので、これを「七重」と認識されていた可能性も考えられます。
ただ、「東西蝦夷山川地理取調図」では「七重」よりも「中スタ」のほうが長大河川として描かれているので、元々は「中須田川」が本流で、どこかのタイミングで「鳴川」に水をバイパスさせた可能性もありそうに思えます。
ということで、ここまででわかったことは、松浦武四郎さんが「七重村から来てるから七重川じゃね?」と書いたことがどうやら違うんじゃない? ということです。今でこそ鉄道も国道も桔梗から七飯を経由していますが、松浦武四郎の時代は大野経由の道を使っていたようで、七飯のあたりにはあまり注意が払われなかった、というオチなのかもしれません。
まとめ
今更ながら、「角川──」(略──)を見ておきましょうか。地名の由来は,「北海道蝦夷語地名解」「北海道駅名の起源」にアイヌ語のヌアンナイ(豊かな沢,漁のある谷川の意),「蝦夷地名考井里程記」にはナアナイ(多く渓谷有るという意),
「アイヌ地名考」にはナムナイ(冷たい流れ又は谷の意)によるという各説がある。
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