(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
来拝川(らいはい──?)
(典拠あり、類型あり)
「朝に礼拝、夕に感謝」って何でしたっけ。あ、若林佛具製作所さんでしたか。どう考えても京都ローカルっぽいような気がしてきたのでこの辺にしておいて、本題に進みましょう。「来拝川」は、乙部町栄浜のあたりで突符川と合流する支流の名前です。突符川は来拝川と合流してから 6~700 m ほどで日本海に注いでいますが、河口付近にかかっている国道の橋の名前は「来拝橋」と言うみたいですね。
「来拝橋」「来拝川」というネーミングから、てっきりお堂でもあってそれに因んだものかと思ったのですが、いえいえ実は全然違ったようです。「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、なんと「ライハ」と書かれているではありませんか!
永田地名解にも、次のように記されていました。
Rai pa ライ パ 死人ヲ見附タル處 此地名ハ虻田郡及幌別郡ニアリあー、確かに黒松内に「来馬川」がありましたね。登別にも「来馬」という地名がありました(「サンライバスキー場」というスキー場があります)。確かに pa は「見つける」という意味の他動詞なのですが、このような語順があり得るのか否かは不勉強なものでちょっと判断がつきません。
地名として一番ありそうなのは、やはり ray-pet で「死んだように流れの遅い・川」でしょうか。ray を「人の死」として考えることももちろん可能ですが、知里さんの十八番である「地名擬人化」の考え方のほうが本質を突いていることが多いような気がするんですよね。
この「来拝川」が他の川と比べて「死んだように流れが遅い」のかどうかという話ですが、地形を見た限りでは、谷の中を流れる川にしては勾配が緩いように思えます。特に「左股川」と合流した直後からが顕著に感じられます。このあたりの特徴からついた名前なのでは無いでしょうか。
女男川(めな──?)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
来拝川の東支流……だと思うのですが、もしかしたらこっちが本流なのかもしれません。と言いますのも、「竹四郎廻浦日記」に次のような記載があったからなのですが……。大茂内川いろいろと示唆に富んでいたので、ちょっと長めに引用してみました。「辷りて」は「すべりて」と読むみたいです。
またラヘヂ川とも云。川巾貳十間斗、瀬浅くして小石川辷りて危し。越て直に村に入。
扨此渡し場より弐三丁上に メナ、此処平地にて谷地有。其左右畑多し。二股右の方本川左りメナ川と云。少し上に ラハイ、並て二股、此処右が股の沢、左り股の沢と云。源サヽ山より落る。
ここで言う「大茂内川」は、現在の「突符川」のことです。引用部を読み進めて行くと、大茂内川の支流としてまず「メナ」が出てきますが、これが現在の「女男川」のことだと考えられます。その後で「ラハイ」なる謎の川が出てきますが、これは「ライハ」の誤りだったと考えるのが自然でしょう(現在の「来拝川」だと考えられます)。ここまでの流れから考えると、突符川に合流していたのは「来拝川」ではなく「女男川」だったと考えられそうです。
ただ、最初に「またラヘヂ川とも云」とあるのがちょっと気にかかります。と言うのも、「ラヘヂ」が ray-pet のことを指しているようにも思えるのですね。ray-pet は「来拝川」の元の名前ではないかと考えているのですが、廻浦日記の記載を素直に受け止めるなら、「大茂内川」(現在の「突符川」)自体が ray-pet と呼ばれていたことになってしまいます。また、支流の名前と混同していたと言うのなら、支流の名前は「メナ」ではなく「ライハ」だったと考えないとおかしいですよね。
OpenStreetMap で確認した限りでは、突符川に注ぐ支流の名前は「来拝川」となっています。どこかのタイミングで「女男川」から「来拝川」に変わったのか、それとも……?
いい加減本題に戻りましょうか。この「男の娘川」じゃなくて「女男川」は、道南に偏在する mena に由来すると思われます。mena は道南にいくつか存在する謎地名の一つで、正確な意味は未詳ですが、知里さんの「──小辞典」には次のように記されていました。
mena メな ①上流の細い枝川。②【シズナイ】たまり水。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.59 より引用)
この解釈について、山田秀三さんは「北海道の地名」で疑問を呈していた……のですが、詳しくは北海道のアイヌ語地名 (419) 「昆布・目名・チリベツ川」をご覧いただけたらなぁ……とか(手を抜いたな)。とりあえず、今日のところは mena で「細い枝川」だったんじゃないかなぁ、としておきましょう。
小茂内川(こもない──)
(典拠あり、類型あり)
突符川の南を流れる川の名前です。前述の通り、「突符川」自体の旧名が「大茂内川」でした。小茂内川の河口部に広がる集落は、現在は「鳥山」という名前のようですが、これも元々は「小茂内」だったのだそうです。何ゆえに鳥山……?永田地名解に次のような記載を見つけました。
Onne mo nai オンネ モ ナイ 静謐ノ大川 元祿郷帳ニ「大(オホ)モナイ」トアル是レナリ今突符村ニ屬ス
Pon mo nai ポン モ ナイ 静謐ノ小川 元祿郷帳ニ「小(コ)モナイ」トアル是レナリ今小茂内村ト稱ス
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.147 より引用)
ほほう。どうやら「小茂内」は元々は pon-mo-nay で「小さな・{静かな・沢}」だったようですね。pon は「小」と意訳され、mo-nay は音に合わせて「茂内」という字が当てられたという割と珍しい形態の地名だったようです。乙部(おとべ)
(典拠あり、類型あり)
爾志郡乙部町の町名です。「乙部漁港」がありますが、「乙部町乙部」と言った地名は存在しないようですね。乙部町の中心部は「姫川」という川の河口部に広がっています。久しぶりに、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみます。
乙部(おとべ)
現在姫川と呼んでいる川は、アイヌ語でオ・ト・ぺ(川尻が沼の川) と呼んでいたのに、当字をしたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.21 より引用)
へぇ~。念のため、山田秀三さんの「北海道の地名」も見ておきましょうか。永田地名解は「オトへ otope。川尻に沼ある川」と書いたが,語尾の -pe は,語法上名詞にはつかないので変だと思っていたら,古い上原熊次郎地名考では「乙部。ヲトヲウンベなり」と書かれていた。o-to-un-pe「川尻に・沼が・ある・もの(川)」の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.442 より引用)※ 原文ママ。永田地名解には「オトペ」と記されている
的確な補足をありがとうございます。語形からして o-to-un-pe だろうなぁ……と思っていたのですが、上原熊次郎の記録から確認できていたのですね。
乙部に行ったが沼がない。土地の人に聞くと昔は沼であったが,新川を通して整地し,現在は水田にしているのだという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.442 より引用)
なるほど、これも割とありそうな話ですね。本題に戻りまして、乙部は o-to-un-pe で「河口・沼・ある・もの」と考えて良いかと思います。www.bojan.net
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