2017年3月5日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (421) 「熱郛・チョポシナイ・歌才」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

熱郛(ねっぷ)

kunne-net-pet
黒い・漂木・川
(典拠あり、類型あり)
JR 函館本線は、黒松内駅から朱太川沿いを北に向かい、1.5 km ほど北上したところで大きく右にカーブして、朱太川の支流の熱郛川沿いを東に向かうことになります。黒松内の次の駅が「熱郛駅」ですが(黒松内駅から見て東の方角)、地名としての「熱郛」は熱郛川が朱太川と合流するあたりを指すようです(黒松内駅から見て北の方角)。「熱郛」は地味に読めない地名ですよね。

昨日はうっかり引用するのを忘れていたのですが、駅名ですからね。「北海道駅名の起源」を見ておきましょう。

  熱 郛(ねっぷ)
所在地 (後志国)寿都郡黒松内町
開 駅 明治36年11月 3 日(北海道鉄道)
起 源 はじめ「熱郛」といい、明治37年10月15日に「歌棄(うたすつ)」と改称し、明治39年12月15日またもとの「熱郛」と改めた。アイヌ語の「クンネ・ネッ・ペッ」(黒い標木の川)のつまったもので、「歌棄」はアイヌ語の「オタ・シュツ」(浜の草原がつきて砂原にかかるあたり)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.28 より引用)※ 原文ママ

色々と「へぇ~」な内容です。まず熱郛駅が 2 年 2 ヶ月ほど「歌棄駅」を名乗っていたというのは初耳でした。「歌棄」と言えば「江差追分」にも「せめて歌棄磯谷まで」と歌われた海沿いの地名で、熱郛からは随分と離れているのですが、明治の頃は朱太川・熱郛川に郡の境界があり、東側が「歌棄郡」だったのだそうです。そのため、歌棄郡熱郛村に所在した駅は一時的に「歌棄駅」を名乗った、ということみたいですね。

ちなみにお隣の目名駅(蘭越町)も、明治37年10月15日の開駅時から明治39年12月15日まで「磯谷駅」を名乗っていました。

本題に戻りますと、「熱郛」は東西蝦夷山川地理取調図にも「メツフ」と記されていたほか、竹四郎廻浦日記にも「メツフ」と記されていて、随分と古くから「めっぷ」と呼ばれていたことを伺わせます。「駅名の起源」にある「クンネ・ネッ・ペッ」はどうやら明治期の地形図に記されている「クン子子ップ川」のことを指すのだと思われますが、これは現在の「赤井川」のことのようです。

ということで、「熱郛」は kunne-net-pet で「黒い・漂木・川」だったと考えて良さそうな感じです。

チョポシナイ

chep-us-nay?
魚・多くいる・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
チョポシナイ川は熱郛川の北支流のひとつで、熱郛川の河口から 1.8 km ほど遡ったところで熱郛川に合流しています。地形図を見たところでは、川沿いの地名としても現存しているようですね。

このチョポシナイ川、東西蝦夷山川地理取調図には記載は無さそうですが、明治期の地形図には「チエッポシ川」と書かれているように見えます。どうやら利尻の「仙法志」か、あるいは釧路町の「仙鳳趾」と同型の地名と見て良さそうでしょうか。細かな差異はあるかもしれませんが、chep-us-nay で「魚・多くいる・沢」あたりでは無いかと思います。

歌才(うたさい)

u-tasa-i?
互いに・向かう・もの
(? = 典拠あり、類型未確認)
黒松内町南部の地名・川名です。黒松内はブナの北限地として有名ですが、地形図にも「歌才ブナ自生北限地帯」と記されています(もっともその場所は歌才川沿いではなく朱太川沿いですが)。

東蝦夷日誌には次のように記されていました。

上りエナヲ峠(昔し山越内・アブタ〔虻田〕の境也) 土人等エナヲを立し跡有。しばし過(六七丁)境柱(今此所を界とす)。是より下り木立原。右にスツヽベツ、左黑松内川を眺々下りて風栗の木臺、是ぶな多が故號く。後ろウタサイ(丸山)と云山有。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.40 より引用)
ということで、これによると「歌才」はどうやら山の名前のようですね。

さて、肝心の「歌才」の意味ですが、どうにも釈然としません。ここで参考になりそうなのが戊午日誌「東部安都辺都誌」の以下の記述です。

またしばし過て
     ウタサイ
右小川。其名義は両方より岬互に合て川が曲り重り有りと云事のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.110 より引用)
ふむふむなるほど。u-tasa-i で「互いに・向かう・もの」、つまり「向かい合うもの」と読み解けそうですね。東蝦夷日誌に「エナヲ峠」と記された峠(蕨岱の北の分水嶺のことだと思われます)のあたりの山容から命名された地名だったのでしょうね。

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