2017年2月11日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (67) 市川~高田(会津美里町)(1878/6/28)

今日からは、1878/6/30 付けの「第十三信」(初版では「第十六信」)を見ていきます。と言っても、第十二信と日付が同じなので、事実上続編のようなものですが……。

若松平野

イザベラ一行は、会津美里町の「市川」から、現在の県道 330 号を北上して会津盆地に出ました。

 市川から馬に乗って、まもなく平野に出た。幅が約一一マイル、長さが一八マイルの平野である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.167 より引用)
幅が 11 マイルで長さが 18 マイルというと、なんか随分と狭そうな印象を受けますが、11 マイル=約 17.7 km で 18 マイル=約 28.9 km ですから、実はほぼ合ってるんですよね。

イザベラは、続いて「若松という大きな町」や「大きな猪苗代湖」について簡単に言及するとともに、「この平野は肥沃である」と結んでいます。そして、日本の農村の風景について、おそらくはイギリスの風景と比較して次のように記しています。

遠くには、森のある村々の切りたった屋根が見えて、絵のように美しい。いつものことだが、垣根や門は見られない。富裕な百姓の住宅の目かくしとして用いられる高い生垣のほかは、いかなる生垣も見ることができない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.167 より引用)
例えば、RAC ラリーが行われるあたりだと、ところどころに大きなお屋敷があって、壁があったり門があったりしますよね。そういったものが見当たらない、という話かなぁと思ったりします。

御神木

続いて、「御神木」と題された一節があったのですが、普及版ではカットされていました。内容は比較的他愛のないもので、何故にカットされたのかが見えてきません。まぁ、無くてもいいかと言われたら無くてもいい内容なのかも知れませんが……。

漆の木 Rhus vernicifera はたくさんあり、最も優れた自生の木の一つ、ケアキ[ケヤキ]つまり日本楡 Zelkowa keaki が、巨大な大きさに育っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.65 より引用)
訳者である高畑さんの註によると、ケヤキの学名は現在では Zelkowa serrata であるとのこと。

私はそのうちの神道の藁の注連縄が巻いてある 1 本の幹周りを測ってみましたが、根元から 4 フィー卜のところで、36 フィート 10 インチあることが判明し、その繁茂して垂れている葉の姿の調和は高貴に見えました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.65-66 より引用)
サブタイトルである「御神木」の話題ですね。36 フィート 10 インチは約 11.2 メートルとのことですが、まぁ、この程度の直径の木であれば「あり得ないほど巨大」ということでは無さそうですね。「巨木」と呼ぶには十分だと思いますが。

また、地誌的な情報も記されていました。

お茶の木はすべての庭に生育しており、桑の木はどこにでもあって、養蚕はこの地方の主たる産業の一つになっていることを示しています。製紙のためのカジノキ Broussonettia papyrifera(クワ科コウゾ属)もまた豊富です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.66 より引用)
こういった情報は当時の日本の産業構造を理解する上での一助となったと思われますが、「奥地紀行」という題目においては必ずしも記されるべきでは無かったのかもしれません。イザベラの「奥地紀行」はイギリス政府公認のものであり、初版本にはスポンサーに対するレポート的な色合いもあったのかもしれません。そして所与の目的を達した後、「よみもの」として再構成するにあたり、地誌的な記述もいくつか削られたということかもしれませんね。

軽い服装

「市川」から「高田」までは 10 km ほどの道のりですが、イザベラの旅は必ずしも順調なものとは言えなかったようです。

 道路が悪く、さらに馬が悪いために、興味がそがれた。良い馬であったら、一時間もすればこの平野を横断できたであろうが、実際はそうゆかず、七時間もかかり、疲れる旅であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.167 より引用)
「市川」から「高田」までは前述の通り約 10 km ほどですが、平野部に入ってからは約 6 km ほどでしょうから、イザベラは、馬上の旅であれば 6 km/h ほどで移動できると考えていたようですね。

徒歩でも頑張れば 4 km/h 程度で移動できそうなものなので、馬で 6 km/h は随分と遅いようにも思えますが、実際には「馬子」が徒歩で帯同していた筈なので、それを考えると 6 km/h という速度も驚異的に思えてきます。

高田の群衆

さて、イザベラは悪戦苦闘の末、ようやく高田(現在の会津美里町)にたどり着きます。高田の第一印象を次のように記していました。

 杉の並木道となり、金色のりっぱな仏寺が二つ見えてきたので、かなり重要な町に近づいてきたことが分かった。高田はまさにそのような町である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
会津高田は商人の町だったのでしょうか。この文章を読んだ限りでは、随分と栄えていたようにも思えるのですが……

絹や縄や人参の相当大きな取引きをしている大きな町で、県の高官たちの一人の邸宅がある。街路は一マイルも続き、どの家も商店となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
ところが、実際には次のように記されていました。

町の概観はみすぼらしく、わびしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
そして、ここでもイザベラはお約束どおりのリアクションを目にすることになります。

外国人がほとんど訪れることもないこの地方では、町のはずれで初めて人に出会うと、その男は必ず町の中に駆けもどり、「外人が来た!」と大声で叫ぶ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
「外人が来た!」の原文を確認してみたところ、単純に "Here's a foreigner!" でした。これを「外人が来た!」と訳すセンスはなかなかのものですよね。

すると間もなく、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、目の見えない人までも集まってくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
「目の見えない人までも」というセンテンスには、思わず苦笑いしてしまいますね。当時の日本の農民が西洋人の女性のことを、あたかも「異形のもの」であるかのように認識していたというのは、ここまでも何度も目にしてきた光景なのですが、今回もまた、繰り返し描かれたことには理由がありました。

宿屋に着くと、群集がものすごい勢いで集まってきたので、宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋へ移してくれた。ところが、大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子どもたちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、その結果、みながどっと殺到してきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
……まるでドリフターズのコントのような(汗)。イザベラは障子を閉めることを余儀なくされたわけですが、当然ながらとても気を休めるわけには行かなかったようです。そして、良からぬことは更に続きます。

黒いアルパカのフロックコートに白いズボンをはいた五人の警官が、ずかずかと部屋に入ってきて、そうでなくても心もとない私の私的生活を侵した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
イザベラは、高田の宿屋には単なる休憩のために立ち寄ったようなのですが、そこで何故かパスポートの呈示を求められます。イザベラは「夜泊まるところ以外では、今までに要求されることがなかったものである」と淡々と記していますが、やはり若干の戸惑いはあったことでしょう。

警察官がやってきたのは「外人が来た!」から派生した騒動が原因だったようで、

彼らは洋服を着ているので、日本式に堅苦しくお辞儀をすることはできなかったが、非常に丁寧に挨拶をして、群集が大勢きてたいへん困ります、と言って群集を追い払った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168 より引用)
最終的にはいい仕事をしてくれたようです。パスポートの確認も、いわば職務質問の一環だったのでしょうか。

ただ、この後もやはりお約束どおりの展開だったようです。

しかし、警官たちが去ってしまうと、また人が大勢集まってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168-169 より引用)
あははは……(乾いた笑い)。

私は宿を出ると、千人も人々が集まっているのを見た。昔、ガリラヤから奇蹟を行なう人(キリスト)が着いたとき、ユダヤの町々から群集が出てきた様子が、私には理解できるような気がする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)
イザベラも、自身がまるで「見世物」のような扱いを受けていることに憤懣やる方なかったのか、ついにはイエス・キリストの境遇と自身を重ね合わせるに至ります。

ただ、群衆の立ち居振る舞いの違いについても、冷静に把握していたようです。

そのときも、この町の人々のような服装の群集であったであろう。しかし、一日中も説教をし、奇蹟を行なってきたキリストが、群集と喧騒の中でどれほど疲労を感じたかは、私には想像できない。これら日本の群集は静かで、おとなしく、決して押しあいへしあいをやらないからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)
一口に「群衆」と言っても、「もみくちゃにされる」のと「遠巻きに見ている」のでは随分と印象が変わってきます。イザベラの周りに集まってきた群衆は、おそらく遠巻きに見ていたのでしょうね。ひたすら好奇の目を寄せる割には決してコミュニケーションを取ろうとはしない農民の姿に、イザベラもやはり疎外感を覚えたのでしょうか。

あなたに向かって以外は、彼らに対する苦情を言う気にはとてもなれそうもない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.169 より引用)
この設定を忘れがちですが、「日本奥地紀行」は「イザベラから妹への書簡」という形で記されているんですよね。ですから、ここで言う「あなた」は、イザベラの妹さんのことです。

高田の町を通り抜けることは、イザベラにとって想像を上回る苦行になったようです。

警官の中の四人が戻ってきて、私に町の郊外まで付き添ってきてくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.168-169 より引用)
最終的には、警察官のエスコートを受ける羽目になったのでした。

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