2017年1月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (411) 「滝ノ澗・海栗前・稲穂」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

滝ノ澗(たきのま)

tak-oma?
ゴロタ石・そこにある
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
学生街……じゃなくてガロ川の東に位置する岬の名前です。地理院地図には「滝ノ潤岬」と記されていますが、「潤」は「澗」の誤字だと思われます。岬の南側一帯の地名も「滝ノ澗」なのですが、こちらは「澗」の字が使われていますね。

ガロ川と滝ノ澗岬の間には「ポロ島」という「岩」があります(「島」では無いのがミソ)。これは poro-suma で「大きな・岩」なのでしょう。

本題の「滝の澗」に戻りますが、東西蝦夷山川地理取調図には「タキノマ」と記されています。また西蝦夷日誌には次のように記されています。

瀧の間(小瀧)、
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.22 より引用)
わざわざ枠を設けて引用することも無かったような気もしますが……(汗)。確かに滝ノ澗岬……じゃなくて「滝ノ潤岬」と「ポロ島」の間を川が流れていて、標高 50 m ほどの台地から海に向かってまっすぐ流れ落ちているように見えます。

ですので、「滝」は和語で「澗」が ma である可能性もゼロではないのですが、tak-oma あたりで「ゴロタ石・そこにある」とも考えられるのではないかなぁ、と思っています。

海栗前(のなまえ)

nona-oma-i
ウニ・そこにある・ところ
(典拠あり、類型あり)
滝ノ澗の東にある集落の名前です。道道 39 号「奥尻島線」も、海栗前から先は海岸部を通ります。このあたりは津波の被害があったところなので、今は道道と海の間に立派な防潮堤ができていますが……。

この「海栗前」は、東西蝦夷山川地理取調図や西蝦夷日誌には記載がありません。戦前の地形図(陸軍測量部図)には、既に現在と同じ(?)「海栗前」の記載があります。更に古い地形図(北海道測量舎五万分一地形図 後志国)には「野名前」とあります。もしかしたらこっちのほうが古い表記なのかも知れませんね。

「海栗」は「ウニ」のことですが、アイヌ語の nona も「ウニ」という意味です。つまり、ウニを意味する nona という音に対して、ウニという意味の「海栗」という漢字を当ててしまったということになりますね。「『本気』と書いて『マジ』と読む」系の地名でしょうか(何か違うような)。

ということで「海栗前」の地名解ですが、nona-oma-i で「ウニ・そこにある・ところ」だと考えられます。「海栗前のなまえが野名前」です(意味不明)。

稲穂(いなほ)

inaw-us-i?
木弊・多くある・ところ
maw-san
息吹・山から浜に出る
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(典拠あり、類型あり)
奥尻島最北の岬の名前であり、また、岬の西側の大地名で、同名の集落もあります。東西蝦夷山川地理取調図や西蝦夷日誌には記載がありませんが、明治期の地形図に「稲穂岬」の記載が見られます。ということで和名の可能性もあるのですが、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」によると……

 稲穂岬(いなほみさき)
 奥尻島の東北端のみさきの名。稲穂の地名は北海道内に随分多い。多くは山奥の峠か海岸の岩礁の多い岬に名付けられている。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.27 より引用)
ふむふむ。続きを見てみましょうか。

この稲穂岬も岩礁が多く、多くの船が難破し、幾多の人命をのみ込んだ所。その岬のもとにそれらの人びとの供養に石を積み重ねた賽の河原という所がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.27 より引用)
稲穂岬の「賽の河原」、残念ながら雨模様だったのでちゃんと見られていないのですよね。惜しいことをしました。そして、更に続きがあります。

 稲穂はアイヌ語の木幣のことで、イナウ・ウㇱ(木幣沢山あるところ)の略で、木幣をあげて安全を祈って通った所。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.27-28 より引用)
はい。ということで更科さんは「稲穂」の語源が inaw-us-i木弊・多くある・ところ)ではないかと考えたようです。確証は無いですが、筋は通っているようにも思えます。

一般にゴメ岬と呼んでいる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.28 より引用)
そうなんですよね。戦前の陸軍測量部図には「岬穂稻」という文字が二つ描かれていて、一つは現在の地形図にも「稲穂岬」と記されている海沿いの突端部で、ルビが「ホ ナイ」即ち「イナホ」と記されています。

もう一つ、灯台のところにも「岬穂稻」と記されているのですが、こちらには「メ ゴ」(即ち「ゴメ」)とルビが振られているのです。「ゴメ」で連想されるのは「カモメ」ですが、果たして「ゴメ岬」の由来は……?

稲穂(集落)

さて、岬の西側にある「稲穂」集落に話題を移します。ここは元々「菰澗」と書いて「ごむま」と読ませていたのだとか。東西蝦夷山川地理取調図には記載が見当たりませんが、西蝦夷日誌に気になる記述がありました。

イワヲイ(小川)、ホンイワヲイ(小川)、轉太濱上に硫黄の気有るコモマ(小川)、瀧の間(小瀧)、エクマ(岩崩)、マウサン(北岬〔稲穂岬〕)、
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.22 より引用)
この「コモマ」が「菰澗」の元になったようにも思えるのですが、文章からは滝ノ澗……じゃなくて「滝ノ潤岬」の *西側* の川の名前と読み取れます。「菰澗」集落は「滝ノ潤岬」よりも東なので、厳密には異なる地名ということになりますね。

もっとも、名前が同じなのであれば由来も同じである可能性が高いので、意味を考えてみましょうか。素直に kom-ma と読めば、「曲がった・澗」となりそうです。

また、先に引用した「西蝦夷日誌」によると、後の「菰澗」のあたりを「エクマ」と呼んでいたように読み取れます。これを e-kuma(-ne-sir) と考えると「頭・横棒(のような山)」と読めそうです。稲穂集落の東に位置する山は、台地状の平べったい形をしているように見えるので、それを指して「頭が横棒のような山」と呼んだのではないかなぁ、と思ったりもします。

稲穂岬ふたたび

西蝦夷日誌は「稲穂岬」のことを「マウサン」と記していますが、これは東西蝦夷山川地理取調図も同様です。これは maw-san で「息吹・山から浜に出る」と読み解くことできます。この maw-saninaw-san にいつしか転訛して、最終的には「稲穂岬」になったと考えることもできそうです。

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