日本におけるカーリングの歴史
もうひとつの大きなパネルがこちらなのですが、中でも興味深いネタ……いや、話題をピックアップしてご紹介します。まずは「日本のカーリング その 1」と題された話題です。
これは「カーリング」というスポーツがいつ、どのようにして日本に紹介されたかという話なのですが、1936 年のガルミッシュ・パルテンキルヘン五輪に参加した日本選手によって持ち込まれた、ということだったんですね。1940 年の札幌五輪(結局開催されず)に向けて持ち込んだとのことですが、もしこのタイミングでオリンピック競技になっていたならば、今とは違った形で世界にカーリングが普及していたのかもしれません。
結局、カーリングが正式にオリンピック競技になるのは、1998 年の長野五輪まで待たされることになります。
続いては「日本のカーリング その 2」という話題ですが、これこそ「なんで常呂ではカーリングがめちゃくちゃポピュラーなのか」という謎に対する答が記されています。
常呂町にカーリングが持ち込まれたのは、「農閑期(冬季)における運動不足を解消し町民の健康増進に繋げるため」なのだとか。なるほど、同じ氷上のスポーツでもスケートやアイスホッケーは肉体的な負荷も比較的高く、またある程度の反射神経も求められますが、その点カーリングは老若男女が楽しむことができます。
また、カーリングは 2 人~ 5 人でチームを組んでプレーするスポーツだったのも良かったのでしょうね(パネルの紹介文には「冬期間のコミュニティー形成」とあるところです)。スポーツに限らず、なんでも気の合う仲間がいればこそ続けられる……なんて話もありますから。
あと、1988 年の「はまなす国体」に向けてカーリングホールが整備されたのも大きかったのだと思います。結果として常呂町においてはカーリングの競技レベルの上昇が続き、オホーツク海沿いの小さな町からオリンピアンが量産され続けることになります。
常呂町カーリング事始め
結果的には「何となく始めたカーリング」がどハマリしたとも言える常呂町ですが、その始まりは倹しいものだったようで……国際大会で使用されるカーリングのストーンは、「スコットランドのアルサクレッグ島で算出された花崗岩」が事実上の標準となっています。カーリングのストーンは 1 個 10 万円以上するらしいのですが、もちろんそんな高価なものを揃えることができるわけもなく、「ビールのミニ樽」をストーンにして(中に水でも入れたんですかね?)カーリングを楽しんだのだそうです。
Curling Hall of Fame
そして、パネルの右の方は Hall of Fame(名誉殿堂)とも言うべき内容となっていました。上から「常呂協会初代会長」の「小栗祐治さん」、続いては元世界チャンピオンで黎明期の日本に幾度となく来日しカーリングの講師を務めてくださった「W・ウースリアクさん」(Mr. Wally Ursuliak)、その下は 1992 年のアルベールビル五輪でのエキジビジョンに出場した「東光舗道レディース」、そして 1989 年から 1995 年の間に 5 回も日本選手権を制覇した「イワケシュアトムズ」、そして……
最近では TV 解説でもおなじみの敦賀信人(つるが・まこと)さんが、1998 年長野五輪に出場した際のチームだった「アイスマン(チーム北見)」、そして 2016 年世界選手権で銀メダル!という超・快挙を成し遂げてしまった「LS北見」こと「ロコ・ソラーレ」の面々が!
最近の女子カーリングの世界では、小笠原歩さんが率いる「北海道銀行フォルティウス」と、本橋麻里さんが結成し現在は(元中部電力の)藤澤五月さんが率いる「ロコ・ソラーレ」が 2 強とも言える存在ですが、この 2 チームに所属する 10 名中 9 名が北見市常呂町の出身なんですよね。
唯一「常呂出身」ではないのがロコ・ソラーレの藤澤五月さん(北見市出身)ですが、なんでも藤澤さんのお父さんが「常呂出身」だったということですから、まぁ、殆ど同じようなものと言えるのかもしれません。
町内を二分する前に
常呂町の人口が 5 千人弱だと言いますから、ほぼ「知り合いの知り合いがオリンピアン」状態なんでしょうね。そして「ロコ・ソラーレ」と「フォルティウス」の対決は「常呂ダービー」とでも言えるのでしょうか。町内を二分する対決になっていたら恐ろしい感じもしますが、「フォルティウス」の小野寺佳歩さんのお父さんが「ロコ・ソラーレ」のコーチをされているという話もあるくらいなので、真っ先に心配すべきは小野寺家の今後かもしれません(汗)。
いや、余計なお世話ですよね(笑)。失礼しました~
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