2016年11月30日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (94) 「木古内のほぼ真ん中なのに」

松前に向かう国道 228 号は、文字通り「海の横」を走ります。国道の路肩がそのまま岸壁になっているような感じですね。
ということで、木古内町に入ります。北海道新幹線の駅のある街ですね。

木古内のほぼ真ん中で

木古内町釜谷の集落に入りました。いかにも北海道らしい、道幅のゆったりした集落ですね。
さて、釜谷から西に走り続けて泉沢の集落を抜けると、木古内町橋呉というところにやってきます。
この「橋呉」、実は「はしくれ」と読むのだとか。木古内町内の国道 228 号ではちょうど真ん中あたりなのですが、地名は「はしくれ」です。

確かにほぼ真ん中だった

この「橋呉」は川の名前でもあるのですが、その「橋呉川」が見えてきました。
「もしかして……」と思われた方はいらっしゃいますでしょうか。そう、実はその「もしかして」なんです。左から読んでも、右から読んでも「橋呉橋」。はしくれなのに右からも左からも距離が変わりません(一体何を言ってるのだ)。
……昨日に引き続き、脱力系の内容で失礼しました(汗)。

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2016年11月29日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (93) 「ルネッサーンス!」

北斗市茂辺地(茂別館跡が有名ですよね)からは、海沿いの国道 228 号を走ります。
木古内を経由して、松前に向かいます。松前まではたった 75 km ……ん、ふつーに一時間以上かかりそうですね(汗)。
海沿いを走ります。前方に見える岬は「葛登支岬」でしょうか。この天気にしてこの景色、うぉぉ、たまりませんねぇ!
葛登支岬でクルッと向きを変えると、当然ながら光の差し方もコロっと変わる訳でして、海もまた違った色合いに見えてきます。

当別と言えば

「当別 3 丁目」にやってきました。「当別」と言えば石狩の当別町が有名ですが、渡島当別のほうが確か駅ができたのが古いんですよね。
「禁密漁」という、まるで交通標識のような看板が目を引きます。そしてその隣にはどことなくルネッサンスの香りが漂う看板も(違います)。
「男爵いも」の生みの親と言われる「川田龍吉男爵」の記念館みたいですね。もちろんあの二人は関係無い筈です。

ルネッサーンス!

これは割とツッコミどころの多い写真です。前方は渡島当別の駅で、貨物列車と特急「白鳥」がすれ違おうとしています。「スーパー白鳥」じゃなくて「白鳥」なのがちょっとだけポイント高いですよね(そうか?)。
右手前に見える「トラピストバター」。トラピスト修道院のバター製品は有名ですが、販売店なんでしょうか。そして、写真のど真ん中にはルネッサンス……(もういい)。

国道は海のすぐ横

ビッグビジネスの予感がする(そうでもないでしょう)「トラピスト修道院」の案内がありました。駅だと「道南いさりび鉄道」の渡島当別駅が最寄りでしたね。
渡島当別を過ぎると、再び大釜谷まで国道は海すれすれを走ります。海が荒れた時は越波も凄そうです……(汗)。

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2016年11月28日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (92) 「海に向かって一直線!」

函館江差道……まだ全通には程遠いので、「函館いつかは江差道」などと呼びたくもなりますが……の現時点での終点が見えてきました。
現時点での終点は「北斗茂辺地 IC」ですね。ここも残念ながら(期待してたのか)「旧○○ IC」という看板はついていません。
函館江差道ですが、現在も木古内方面に向かって建設が進んでいるみたいです。いつかは江差まで……たどり着けるといいですね(短絡効果はそれなりにあるのではないかと)。

海に向かって一直線!

道道 1167 号「茂辺地インター線」を通って、海沿いを走っている国道 228 号を目指します。
かつての JR 江差線(現在は「道南いさりび鉄道」)をオーバークロスする跨線橋が見えてきました。いやーそれにしてもいい天気ですよね!
江差線(当時)を越えると……おおっ! 海に向かって一直線じゃないですか!(カーブしてるけど)

海沿いを通って松前へ

国道 228 号が見えてきました。まずは松前を目指すので右折ですね。
密漁はやめましょうね!
ということで、国道 228 号に入りました。ここからは、ほぼ海沿いを通って松前を目指します。

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2016年11月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (395) 「キウス・シュッタノ沢川・ニサナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

道東道のキウス PA がある千歳市の地名については、北海道のアイヌ語地名 (33) 「キウス・於兎牛山・穂別・富内」をご覧ください。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

キウス

chiw-as-i
波・立っている・もの
(典拠あり、類型あり)
穂別、茂別から更に穂別川沿いを遡ったところにある地名です(道東道の PA がある千歳市キウスとは違います)。今回も戊午日誌「東部武加和誌」を見てみましょう。

また少し上りて
     キ ブ シ
左りの方小川。是ヲトイマケウシの川端え来りし処の並びなりと。其名義チウシのよし、汐早く有ると云儀なり。チは汐也、ウシは早く有ると云儀。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.577 より引用)
なんと! 千歳のキウスは ki-us で「草・多くある」だと思われますが、穂別のキウスは chiw-as-i のような……。chiw-as-i は「波・立っている・もの」という意味ですね。

シュッタノ沢川

sup-ta??
渦流・にある
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
さぁ、再び「シュッタ」がやってきました!(謎のテンション) 実は、お隣の平取町には「シュッタ川」と「シュウター川」という川があって、永田方正さん(鍋大好き)はどちらの川にも「鍋ヲ作ル」という謎な解を出していたのでした。

というわけで今回も……と思ったのですが、今回はなんと永田地名解には記載がありませんでした。これにはテンションガタ落ちですが、とりあえず戊午日誌「東部武加和誌」でも見てみましょうか。

またしばし過て
     シユツタ
右の方相応の川也。其名義しれず。案ずるに洪水の節水早く出る義かと云へり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.580 より引用)
へ!? これは一体……? 「洪水の節水早く出る義かと云へり」というのは……インフォーマントからの伝聞ですかね?

どう解したものかさっぱりわからないのですが、無理やり意味が近そうな形をひねり出してみると…… sup-ta で「渦流・にある」とかですかね……(かなり自信なし)。

ニサナイ

i-san-nay???
アレ・降りる・沢
(??? = 典拠なし、類型未確認)
穂別の集落から鵡川沿いを東に遡ったところ(南岸)にある集落の名前です。今回も戊午日誌「東部武加和誌」に記載があったのですが……

五六丁にて
     イサナイ
右のかた小川也。是ウエンナイの上の沢也。蘆荻原也。凡五丁計上には山有。其名義大木のうとうの木有りしと云儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.587 より引用)
これなんですが、「大木のうとうの木」が一体何を指すのかが良くわかりません。鳥の「ウトウ」ならわかるのですが……。「うとう」をアイヌ語だと考えても、植物編には utukani で「ミズキ」という単語があるくらいで、しっくり来るものが見当たりません。

「うとうの木」を一旦外して「イサナイ」という音から考えると、i-san-nay で「アレ・降りる・沢」あたりでしょうか。「アレ」は、やはり山の方の土地ですから、山の神様、すなわちクマでしょうか……?

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2016年11月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (394) 「マコップ沢川・パンケオピラルカ沢川・茂別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

マコップ沢川

mak-o-p
奥・そこにある・もの
(典拠あり、類型あり)
「穂別橋」の少し南側で鵡川に合流している東支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には記載が見当たりませんでしたが、戊午日誌「東部武加和誌」に記載があるようです。早速見てみましょうか。

川端え下り
     マツコウ
是シユフシナイの少し上也。平地なる故に此名有るよし。〔上欄=此処より東岸ホヘツフトまで皆平地也〕
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.554 より引用)
うーん、現在の地形図を見た限りでは「マコップ沢川」のあたりが「平地である」とはちょっと言い難いんですよね(マコップ沢川から一山越えた先は河岸の平地なのですが)。

ちょっと良くわからないので、永田地名解も見ておきましょうか。

Mak-o-p   マコップ   後ノ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.212 より引用)
ああ、これだと意味が取りやすいですね。mak-o-p で「奥・そこにある・もの」になろうかと思います。これだと実際の地形にも即しているように思えます。

このあたりの河川を「東西蝦夷山川地理取調図」と照らし合わせてみると、もしかしたら「マコップ沢川」と「シユフンナイ」は同じ川のことを指していたのかな、とも思えてきます。supun(-un)-nay であれば「ウグイ(・いる)・沢」と考えられそうですね。

パンケオピラルカ沢川

panke-o-pira-ru-ka??
川下の・河口・崖・道・その上
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
穂別の北側、道道 933 号「北進平取線」沿いを流れる川の名前です。この川は鵡川に直接注ぐのではなく、鵡川の北支流である「穂別川」に西から注いでいます。

今回も戊午日誌「東部武加和誌」に記載がありましたので、見てみましょう。

また此方に
     パンケヲヒラルカ
南岸相応の川也。是当川第一の支流。其名義は川口に平(ピラ)が有と云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.572 より引用)
ふむ。これだと「パンケオピラ」までは理解できるのですが、最後の「ルカ」がどうにも良くわかりません。鍋大好き永田地名解を見ても……

Panke o pira ruka   パンケ ヲ ピラ ルカ   下ノ川尻ノ崖路ノ上
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.212 より引用)
うーむ。確かにこう考えるしか無さそうですよね。

ちなみに現在の「パンケオピラルカ沢川」は、途中で道道 933 号のルートから離れますが、戦前の地図では道道 933 号沿いに西から東に流れるルートでした。どこかのタイミングで本流と支流が入れ替わってしまったような印象があります。

東西蝦夷山川地理取調図を見た感じでは、道道 933 号沿いが本来の「パンケオピラルカ川」のルートのように思えるのですが……。

ちょっとスッキリしないのですが、panke-o-pira-ru-ka で「川下の・河口・崖・道・その上」と考えるしかなさそうな感じです。

茂別(もべつ)

mo-pet
小さな・川、穏やかな・川
(典拠あり、類型多数)
穂別の北にある地名です。道南にも同名の地名がありますね。

地形図を見ると、茂別の近くを「ペンケベツ沢川」という川が流れていますが、おそらく戊午日誌「東部武加和誌」に記されている次の川のことだと思われます。

またしばし出て右の方に
     ヘンケモベツ
是上の小川と云儀、其訳前に志るせし如し。相応の川也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.576 より引用)
ということで、モベツ(茂別)は mo-pet で「小さな・川」と考えて良さそうですね。ただ「相応の川なり」とあるので、あるいは「穏やかな・川」と意訳したほうが良いのかもしれません。

「その訳は前に記したように」とあるので、ペンケモベツのほうも見ておきましょうか。

また少し上りて向ふの方に
     ハンケモヘツ
本名ハンケホヘツのよし。モとホと同じ事にして、小さしと云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.575 より引用)
「『ホベツ』も『モヘツ』も同じようなもんだよハッハッハ」と記してありますが、穂別は pon-pet と考えるのが自然でしょうか。pon-pet は確かに「親川」(この場合は「鵡川」)に対する支流の名前としては相応しく思えます。

その pon-pet の支流に mo-pet という名前をつけたということは、「更に小さな川」だと言いたかったのか、それとも「穏やかな川」と言いたかったのか、どうなのでしょうね。

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2016年11月25日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (91) 「とりあえず『北斗』を追加しました」

かつての「大野 IC」である「北斗追分 IC」をスルーして、更に西に向かいます。
このあたりは片側一車線の対面通行なのですが……うわっ!
駐車帯でも無いところにトラックが停まっていました。センターラインにはブロックが置いてありますし、大型車両が来た時は大変なことになりそうな……。

昔の名前でd(ry

大野川を渡って、次の「北斗中央 IC」に近づいて来ました。
なるほど、ここがかつての「上磯 IC」だったのですね……(笑)。
北斗中央 IC の出口が見えてきました。欄外に「旧上磯 IC」の文字が輝きます。
出口ランプウェイと本線の間の柱にも「旧上磯 IC」の文字が。インターチェンジの名前が変わること自体が珍しいからかもしれませんが、「これでもか!」と言わんばかりに旧称をプッシュしてくるのがなんか笑えますよね。

とりあえず「北斗」を追加しました

北斗中央 IC(旧上磯 IC)をすぎると、函館江差道は緩やかに左にカーブして、南南西に向きを変えます。4~5 km ほど走ると、次の「北斗富川 IC」です。
ここには「旧○○ IC」という案内が見当たりませんが、それもその筈。北斗富川 IC は上磯町と大野町が合併して「北斗市」になった後で共用された IC なので、最初から「北斗」を冠した名前になった……ということですね。ちなみに計画段階では「富川 IC」だったとのこと。

山と海の狭間へ

函館平野を東西に突っ切っていた「函館江差道」ですが、平野部は北斗富川 IC までで、その先は山と海の間の隙間を縫って走ることになります。
現時点で「函館江差道」唯一のトンネルである「矢不来トンネル」を抜けると、茂辺地川の広い谷を一気に越える「茂辺地高架橋」です。

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2016年11月24日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (90) 「昔の名前で出ています」

函館 IC から函館江差道に入りました。相変わらずのいい天気ですね。ちなみに気温は 17 ℃ とのこと。この時期(9 月下旬)だとやや暖かいくらいでしょうか?
函館江差道は追い越し車線もある快適な道路ですが、制限速度は 70 km/h とのこと(もしかしたら今は少し引き上げられたかも知れませんね)。
それはそうと、気になったのがこちら。
なんか、どう見ても IC の名前を上から貼り直した感が……。現在は「北斗追分 IC」と「北斗中央 IC」という名前のようですが、あっ、これってもしかして……?(察し

さようなら追い越し車線……

函館江差道は片側二車線の快適な自動車専用道路だったのですが、やはりと言うべきか、予想通りの警告標識が出てきました。
さようなら追い越し車線……(涙)。

昔の名前で出ています

かくして追い越し車線はついにその姿を消してしまったのでした。そして、片側一車線になったところで道路脇に出てきた看板がこちら。
欄外にひときわ燦然と輝く「旧大野 IC」の文字が(汗)。
はい、やはりこういうオチだったのですね。一般的に、自動車専用道路の IC 名は市町村合併の後も旧来の名前を引き継ぐことが多い印象があるのですが、大野町と上磯町が合併してできた「北斗市」は、北海道新幹線の駅名命名騒動などを見ても、かなりネーミングにこだわりのある自治体なのでしょうか。

ちょっと面白いのが、旧大野 IC、つまり現在の北斗追分 IC があるところが、かつての大野町域ではなくて上磯町域だったんですよね。もちろん今は「北斗市」ですから大野だ上磯だという話にはならないような気もするのですが、北斗市追分の人にとっては「大野 IC」という名前はびみょうに面白くなかったのかもしれません……(汗)。

江差に向かうには函館江差道から脱出しましょう

北斗追分 IC のちょっと手前で、ようやく北斗市に入りました(ここまで函館市)。
北斗市に入ってから 300 m ほどで、北斗追分 IC(旧大野 IC)のランプウェイです。
この道は「函館江差自動車道」だった筈なのですが、江差に向かうには最初の IC で流出しろというのも最高にシュールな感じがします。「北斗追分 江差方面」という字が並ぶと「江差追分」みたいですね。
それにしても、ここでも欄外から全力でアピールする「旧大野 IC」……(汗)。

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2016年11月23日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (63) 川島(南会津町) (1878/6/26)

引き続き 1878/6/30 付けの「第十二信」(本来は「第十五信」となる)を見ていきます。イザベラが「ずっとひどい」「まったくひどい」と評した宿で、宿の主人の息子が咳で苦しんでいるのを見かけたところから話は始まります。

病気の群衆

イザベラは見るに見かねてか、手持ちの「クロロダイン」を咳で苦しんでいる子どもに飲ませてみました。すると……

宿の亭主の小さな男の子は、とてもひどい咳で苦しんでいた。そこで私はクロロダインを数粒この子に飲ませたら、すべて苦しみが和らいだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.160 より引用)
どうやら「クロロダイン」の効果は覿面だったようですね。ちなみにこの「クロロダイン」ですが、「クロロホルム」と「モルヒネ」を含む鎮痛剤とのこと。これは確かに効きそうです……(汗)。

このイザベラの取った行動は、本人が予想もしなかった形で波紋を広げます。「異人さんの薬がたちまち子どもの咳を快癒させた」という噂は村の中を駆け巡り……

治療の話が翌朝早くから近所に広まり、五時ごろまでには、ほとんど村中の人たちが、私の部屋の外に集まってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.160 より引用)
……このような事態を招いたのでした。

私は障子を開けてみて、眼前に現われた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。人々は押しあいへしあいしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.160 より引用)
想定外の出来事にさすがのイザベラ姐さんも困惑を隠しきれなかったようです。

素人医者

困惑しながらも、イザベラは眼前に広がる光景を冷静に分析していました。群衆の中には少なからぬ数の「野次馬」が紛れていることもイザベラは見抜いていたようです。

イザベラは、群衆に向かって正直に語りかけることで事態の収拾に努めます。

私は、悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の貯えがないこと、私の国では絶えず着物を洗濯すること、絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦すること、これらは同じような皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方法である、と彼らに話してやった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.160 より引用)
イザベラは、蔓延する疾病の多くは衛生面の問題に起因すると見ていたようです。あくまで想像でしか無いですが、この見立ても大方当たりだったのでは無いでしょうか。残りの構造的な問題は貧困に起因する栄養不足と偏りにあったのではないかな、と思ったりもします。

衛生面を改善する必要がある旨を群衆に伝えた後、手持ちの医薬品(に類するもの)を無理のない程度に施したようです。

そして彼らの気持ちをなだめるために、ある人の貯蔵品からやっともらってきた動物性脂肪や硫黄華を、少し塗りつけてやった。それから、重症の場合にはどう手当てをするかを話してやった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.160-161 より引用)
イザベラから施しを受けた群衆は、明らかに名残を惜しんでいたようです。

ぜんぶの子どもたちが、かなりのところまで私の後について来た。かなりの数の大人たちも、同じ方角に行くのだから、と言いわけをしながら後について来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.161 より引用)
まるで敗戦後に「ギブ・ミー・チョコレート」を連呼した子どもたちのようですね。

風呂、清潔の欠如

イザベラの「紀行文」は、ここで少し趣を変えて、日本の農村がいかに衛生面で立ち遅れていたかを詳らかに記していました。当時の風俗を窺い知るには良い資料だと思われるのですが、さすがに「紀行文」としては度を越したと考えたのか、後に発表された「普及版」ではバッサリと削られています。

というわけで、例によってちょっと文体が変わりますが、カットされた部分を見ておきましょう。

私は日光を出発して以来見てきたありありと見える貧しさと現実の不潔さと不快感に対してまったく準備が出来ていなかった。私たちにとって、汚いという種類の貧困は一般に怠惰か飲みすぎ(アルコール中毒)によるものですが、ここでは、前者は知られていなく、後者は小農地所有者の間では稀です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
イザベラは、日本における農村の不潔さがこれまで知られていた類型に属さないことに気づきます。「不潔さ」が「怠惰」にも「飲み過ぎ」にも起因しないことを、イザベラは次の一文で証明しようとしています。

彼らの勤労は途切れることなく続き安息日というものがなく、彼らがするべき仕事がないときのみが休日です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
また、次のような面白い一文がありました。

目に見える貧困は彼らがまだ身に馴染んでいない心地よさへの無関心に起因するのかもしれません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
農村の民が貧困から抜け出せないのは、「貧困」以外の状態を知らないからではないか……という仮説です。俗な表現をすれば「なりたい自分を知らない」とでも言えるのでしょうか。この見立ては確かに正しいのかもしれません。

話題は「不潔さ」に代表される衛生面の問題から、人々の入浴習慣に移ります。

個人の家の風呂は 4 フィートの高さの浴槽があり、平均的な大きさの人間が普通にしゃがんだ姿勢で膝を折って入るには充分な大きさがあります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
4 フィート はメートル法に換算すると約 122 cm ですね。広くない代わりに高さがある日本式の浴槽(五右衛門風呂)はやはりイザベラには目新しいものだったのでしょうか。更にはこんな記述もあります。

その温度は華氏 110°から 125°[約 43~52 ℃]で、老人の間では、風呂に入っている間に卒倒して命に関わることが知られています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
43 ℃ を超える風呂というのは結構な熱さですよね。50 ℃ というのは確かに生命に関わりそうな気もしますが、昔の日本人は熱々の風呂が好きだったということなのでしょうか……?

この「日本式風呂」のシステムでも、イザベラは衛生面での懸念を記していました。

個人の家の風呂は家の同居人全員が 1 回も水を変えずに使い、公衆浴場では、大勢の客が水を変えることなく使います。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
これは……。現代の日本でも割と当てはまるような気がしますね。24 時間循環式の風呂でも雑菌が繁殖する問題を防ぎきれていないような気もしますね。

風呂は洗浄のためではなく、ゆったりとした気分を味わうために浸かります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.59 より引用)
これは全くその通りなのですが、50 ℃ のお湯でゆったり気分を味わうのは少々難しいような気も。

現在では、一般的な浴室には必ず「洗い場」があって、そこで体や頭を洗うのが普通ですが、これは衛生面での手当を行いつつも水や湯を節約して、また湯船をくつろぎの場に変えるという「一挙三得」のような素晴らしい仕組みであるように思えてきました。現在の日本の「スーパー銭湯」をイザベラが体験したならば、どんなコメントを残してくれたのか、ちょっと興味が湧いてきました。

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2016年11月22日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (89) 「函館 IC」

七飯藤城 IC と函館 IC の間を結ぶ「函館新道」は、七飯藤城 IC から 2 km ほどは片側一車線・対面通行ですが、その後は片側二車線の高速道路ばりの道路が続きます。ただ、この日は右側の車線が単管バリケードで封鎖されていたのでご覧の有様……でした。
おさるさんが串刺し……じゃなくてパイプを支えていましたが、やがてスコップ片手(片足?)のキリンさんにチェンジすると……
ほどなく終点の函館 IC です(汗)。

工事用車両

ということで、せっかく復活した追い越し車線を走ることの無いまま、函館新道を流出して函館江差道に向かいます。
函館 IC の流出路、前方はダンプカーがややゆっくりと走っています。ランプウェイは片側一車線なので、ダンプカーの後ろをゆっくりと走ることになりそうですね。
……と思っていたら、うわわ! 突然道路の外へ出てしまいました(汗)。この「工事用車両出入口」は現在の東行きランプウェイでしょうか(2013 年当時は函館 IC -赤川 IC の間は未開通だったような)。

JCT のような IC

前方に函館山が見えてきました。函館山って本当に漢字の「山」みたいな形をしていますよね。
まるでジャンクションのような緩やかなカーブのランプウェイを進みます。この函館 IC、名前こそ「インターチェンジ」ですが、まぁ実態は「函館新道」と「函館江差道」が交差するジャンクションですからね。
函館江差道に入ります。厳密には函館 IC の西行き流入路と合流するところですね。本来の本線は右側の盛土の部分です(2013 年当時は未開通でした)。

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