2016年10月31日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (82) 「ハイシャーベット」

江差行きの最終便の乗船手続きを行うべくフェリーターミナルにやってきましたが、出港の 1 時間 25 分前ということで……まだ、ちょいと早すぎたようです。
ターミナルの 2 階には「喫茶軽食うにまる」と「辻おみやげ店」があるとのこと。行ってみましょう。

歓迎 ようこそ佐藤投手のふる里へ

ということで、これがターミナルの 2 階なのですが……(何故か外観のみ)。
建物の手前には、「歓迎 ようこそ佐藤投手のふる里へ」との看板が。
「佐藤投手」は言わずと知れた「佐藤義則さん」のことですが、これだけ持ち上げられるとオチオチ立ち○○もできないのではないかと余計な心配をしてしまいます。

ハイシャーベット

さて、フェリーターミナル 2 階の「辻おみやげ店」でついに手に入れたものがこちら!
奥尻と言えばこれ! 奥尻町は青苗にある坪谷冷菓店の「ハイシャーベット」です。左には奥尻島のシンボル・鍋釣岩のイラストが描かれていて、そして「氷菓・無果汁」の文字が光ります。パッケージの裏側も見ておきましょう。
まぁ、普通に「名称」「原材料名」「内容量」「保存方法」そして「製造者」が記されているわけですが……。おやっ?
無果汁なのに「リンゴ果汁・果肉」とはこれいかに。これ、実は有名なネタらしいのですが、「0カロリー飲料」が実はカロリー0ではないのと同様に、果汁も一定量以下しか含まれていない場合は「無果汁」という扱いになるらしいですね。

実食レポ!

ということで、溶け切る前にいただくことにしました。
おおっ、無果汁なのにイチゴのつぶつぶがっ!w ちなみにこちらのハイシャーベット、奥尻限定ではなく函館あたりでも入手可能だそうですので、見つけた折には是非お試しを!

一度食べたらやめられない

ちなみに、フェリーターミナル 1 階・階段前の掲示板?にも「ハイシャーベット」が PR されていたんですよね。この写真をよーく見ると……
なんか、割とぞんざいな扱いですが……ま、いっか。

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2016年10月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (387) 「富川・オコタン川・シノダイ岬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

富川(とみかわ)

sar-putu
沙流川の・河口
(典拠あり、類型あり)
沙流川の河口近くに位置する日高町(旧・門別町)の地名で、日高線に同名の駅もあります。ということで久しぶりに「北海道駅名の起源」から。

  富 川(とみかわ)
所在地 (日高国) 沙流郡門別町
開 駅 大正 2 年 10 月 1 日(苫小牧軽便鉄道)
起 源 もと「佐瑠太(さるふと)」といい、アイヌ語の「サル・プト」(沙流川の川口) から出たものであるが、昭和 19 年 4 月 1 日字(あざ)名の「富川」に改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.89 より引用)
ということで、元々の地名は「佐瑠太」で、sar-putu で「沙流川の・河口」ということでした。

ビタルバ

富川のあたりも河岸段丘状の地形で、沙流川沿いの平地が「佐瑠太」や「川向」(面白いことに、富川駅の所在する側が「川向」でした)と呼ばれていて、段丘の上は「ビタルバ」という名前があったようです。現在の「富川西」のあたりでしょうか。

「ビタルバ」は pitar-pa で「川岸の小石原・頭」だと考えられます。佐瑠太や川向のあたりは小石の多い原っぱで、その原っぱに突き出していた台地状の地形を形容するのにぴったりな名前に思えます。

オコタン川

o-kotan-o-sar
河口に・人家・ある・葭原
(典拠あり、類型あり)
富川東の集落を流れる沙流川の支流の名前です。ふつーに考えると「河口に村落のある川」なんですが……。戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

扨川まゝ上ることまがりて凡北向に行けるに、凡七八丁にして
     ヲコタノサル
右のかた小川有。其名義は、元来サル村は此処に有りしによって号と。是サル村の根元によって号也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.641 より引用)
ふむふむ。o-kotan-o-sar だとすれば「河口に・人家・ある・葭原」となりそうな感じもしますが、松浦武四郎は sar を固有名詞と考えたようですね。

「佐瑠太」改め「富川」は、沙流川の北西岸に位置していますが、これまた元々は南東岸にあった……という話もあるそうで、この「ヲコタノサル」という地名がそれを裏付けている……とも言えそうな感じもしますね。

富仁家(とんにか)

さて、「佐瑠太」改め「富川」は和名だと考えられますが、現在の「富川東」の近くには「富仁家」と書いて「とんにか」と読ませる地名がありました。この「富仁家」が「富川」の直接のルーツであるとは言えないかもしれませんが、「富川」という地名を「創作」する上でのヒントになった可能性はありそうな感じもします。

戊午日誌「東部沙留志」には、次のようにありました。

行て右のかた川よりは十丁も引上りて
     トンニカ村
平地、荻と薄との原槲柏のみ也。依て号。トンニカはコムニカの訛り也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.640 より引用)
「トンニカはコムニカの訛り」というのは随分と大胆な推論のように思えますが、実は結構ハイレベルな勘違い?で、kom-nitunni もどっちも「柏」という意味だったのでした。従って、tunni-ka で「柏・かみ」と考えるのが自然かもしれません。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

なお左留日誌の終わりの句はトンニはコムニの誤りとしたが,実際は共に柏の木で,土地の平賀さだも媼(故)に尋ねたら,トゥンニは「大きい柏の木」だとのことであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.360 より引用)
ふむふむ。大きさによって使い分けていたと言ったところだったのでしょうか。知里さんの「植物編」には「但し,穂別の日常語でわ下記の如く túnni を用いる」などとあり、このあたりでは tunni のほうが良く使われていた可能性もありそうです。

シノダイ岬

si-nup-tay
大きな・野原・林
(典拠あり、類型あり)
沙流川河口と門別川河口の間にある岬の名前です。東蝦夷日誌には次のように記されていました。

シノタイ(漁や有)名義、シノは至る、タイは山の事也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.129 より引用)
なんとも謎な解ですが、実はこの解は松浦武四郎のオリジナルでは無いようで、古くは秦檍麻呂の「東蝦夷地名考」にも次のように記されていました。

シノは至而といへる語なり。タイは平原の丘なり。此地より東山奥に源廷尉の神を祭る地あり。蝦夷等木幣を奉りて尊崇せり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.24 より引用)
tay は「林」あたりの意味ですが、sino に「至る」と言った意味があったかと言うと……手元の辞書類を見た限りでは、そのような用例は見当たりません。

「シノタイ」という地名は「東蝦夷日誌」や「東西蝦夷山川地理取調図」に出てくるのですが、それらをよーく見ると、隣に「モノタイ」という地名があることに気がつきます。simo は「主」と「副」、あるいは「大」と「小」と言った関係にあるので、「シノタイ」も sinoi-tay ではなく si-no-tay と考えたほうが自然です。

そう考えていたところ、永田地名解に次のような記述を見つけました。

Mo nup tai   モ ヌㇷ゚ タイ   小原野
Shi nup tai  シー ヌㇷ゚ タイ  大ナル野林 「シンヌプタイ」トモ云フ同義
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.225 より引用)
なんとなく「シノタイ」「モノタイ」に合う形を探してきたように見えなくも無いのですが(汗)、これだと意味が通りますね。si-nup-tay で「大きな・野原・林」と考えられそうです。

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2016年10月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (386) 「シラウ川・平賀・エショロカン沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シラウ川

siraw
アブ
sir-aw??
大地・枝、大地・内
(典拠あり、類型あり)(?? = 典拠なし、類型あり)
平取町川向の南側を流れる川の名前です。川向のあたりは平野部より 50 m ほど高い台地になっているのですが、シラウ川は台地のど真ん中を深く掘った形で流れています。

戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

扨東岸には槲柏原、岸は崖になり上は平地
     シ ラ ウ
右の方東岸相応の川、清冷、鱒・鯇有。其名義虻多しと云儀のよし也。左右かや野原多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.650 より引用)
ふーむ。確かに siraw には「アブ」という意味があるのですが……。

なんか引っかかるので別解を考えてみました。sir-aw であれば「大地・枝」、あるいは「大地・内」となりそうなのですが、これだと台地の中を割って流れている地形にも通じそうな気もします。いかがでしょうか?

山田秀三さんの「北海道の地名」に、ちょっと面白い話が書いてありましたので、参考までに引用しておきます。

この沢にはからす貝(ピパ)の貝殻の丈夫なものがいて,穂摘み用によく遠くから採りに来たのだったという。それをイ・チャ・ピパ(それを・摘む・からす貝)と呼んだそうである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.361 より引用)
本筋とは関係ない話ですいません(汗)。

平賀(びらが)

pira-ka
崖・かみ
(典拠あり、類型あり)
日高道「日高富川 IC」の北東にある、日高町の地名です。沙流方言のインフォーマントとして著名な「平賀さだも」さんがこの辺りにお住まいだったのだとか。

永田地名解(鍋大好き)には、次のように記されていました。

Pira ka  ピラ カ  崖上 平賀村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.228 より引用)
はい。pira-ka で「崖・かみ」と考えたのですね。実に妥当な解だと思います。

続いて戊午日誌「東部沙留志」には、次のように記されていました。

しばし過て川 端より凡十四丁、東の方引上(ひきのぼり)て
     ヒラカ村
此処平山にして同じく槲柏原にして、下草苅かや・白茨(芽)等多し。其名義は此村の下に大なる平崩有る故に号るとかや。人家二十四軒一条の市町の如く立並びぬ。此辺畑多し。此処水に案じなし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.643 より引用)※ カッコ内の註は解読者による
まぁ、pira-ka で「崖・かみ」であることには違いは無いのですが、少し地誌的なフォローをしておこうかと。沙流川沿いには「移転地名」が多いのですが、この「平賀」もその一つでした。松浦武四郎が旅した頃は、まだ「平賀」の集落は沙流川の東側の、崖の上(台地)にあったのですね。

山田秀三さんの「北海道の地名」に、平賀が現在地に移転した経緯についてまとめてありましたので、引用しておきます。

明治になり,水田耕作が導入され,西岸の葭原が農地化し出したころは,崖上のコタンから斜面を下り,川岸に置いた丸木舟で田畠に通っていたのだそうであるが,次第に西岸に移住したのだという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.361 より引用)
あー。多分そんなところだろうなぁーと思ってました。沙流川沿いの平野部が農地になったのは稲作・畑作の普及によるものだと思いますが、沙流川の治水もそれを支える重要なファクターだったのでしょうね。

エショロカン沢川

e-soro-kan-ni?
それで・かんな・つくる・木?、
メドハギ?、杜仲(マユミ)?、ミツバウツギ?、花グスベリ?
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
移転後(現在)の平賀の集落を流れている沙流川の支流の名前です。

今回もまずは戊午日誌「東部沙留志」から。

また少し上り
     ヱソロカン
左りの方小川。此川鱒・鯇・桃花魚等入るによろし。其名義は鉄掃木有る処と云へりと。またユウフツに此名の有る処にては、土人火箸に用ゆる木の有る処といへど、鉄掃木は火ばしに成る程大なるものなし。是如何なる違なる哉。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.648 より引用)
「鉄掃木」って何じゃらほい……と思ったのですが、これで「メドハギ」と読むのだとか? Wikipedia には次のようにあります。

メドハギはハギ属の雑草で、真っすぐに立つ姿が特徴的である。薬草としても使われるほか、独特の利用が知られる。
(Wikipedia 日本語版「メドハギ」より引用)
「独特の利用」がちょいと気になるのですが、

上述のように元来は筮萩とよばれたが、これはかつて筮竹の替わりに用いられたことによると言う。
(Wikipedia 日本語版「メドハギ」より引用)
ふむふむ。あと「腎臓病に効く」という説もあるそうですが、「広く薬効が認められている訳ではない」とも記されていますね。

続いて鍋ならおまかせ!永田地名解を見てみます。

Eshorokani  エショロカニ  杜仲(マユミ)方言ヱリマキ又イヌマキ○此地方ニハ稀有ナレトモ天鹽川ニ最モ多シ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.228 より引用)
ふーむ。「杜仲茶」でおなじみの「杜仲」ではないか、という解釈のようです。

知里さんの「植物編」には、また違う解が記されていました。

§152. ミツバウツギ Staphylea Bumalda Sieb. et Zucc.
( 1 ) esorokanni (e-só-ro-kan-ni) 「エそロカンニ」[e(それで)soro(かんな)kar(つくる)ni(木)]莖 ((A 沙流・千歳))
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.94 より引用)
ふむふむ。知里さんの説では「ミツバウツギ」では無いかと言うのですね。次のような説明も添えられていました。

(參考) 語義の示す通り,この木でかんなの臺やのみの柄を作った。
 この木わ,表皮(kán-kap “上の・皮”)を去り,内皮(pokin-kap “下の・皮”)を熱湯(sések-usey “ 熱い・湯”)に入れて,その汁で打身などを濕布した(穂別)。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.94 より引用)
ふむふむ。キハダ (sikerpe) と同じような使い方もあったのですね。

ということで、諸説まちまち豪華絢爛なラインナップでお届けしていますが、山田秀三さんの「北海道の地名」には、他ならぬ平賀さだもさんからのヒアリング内容が記されていました。

アイヌ語の正確な,土地の古老平賀さだも媼は「エソロカン・ニで,エソロカニではない。和人の言葉では花クスベリ(注:花グスベリ?)で,一尺前後の小さな木。馬の傷を洗うのに使ったが,毒の木である」と語られた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.361 より引用)
また違う説が……。どうしたものでしょうね。

とにかくその木の生えていた沢だったからの名。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.361 より引用)
山田さーん(汗)。

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2016年10月28日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (81) 「奥尻島の路線バス」

ということで、こちらが「野名前」行きの奥尻 *町有* バスです。白ナンバーなのは気にしてはいけません(コミュニティバスではたまに見かけますよね)。
サイドには「うにまる三兄弟」(いつの間に)が。そして燦然と輝く「自家用」の文字も。
非常口の後ろには、何やら良くわからない呪文のような文字が並んでいます。
リアにも「うにまる三兄弟」の姿が。奥尻島における「うにまる」の愛され方は本当に凄いですよね。

乗船車輌待機場所

さて、そろそろ乗船手続きの準備をしましょう。まずは車を「乗船車輌待機場所」に移動させます。ちょうどこの看板の裏側に並べばいいみたいです。
裏側から見たほうが位置関係が分かりやすかったですね。フェリーターミナルの「おくしり」の文字がなかなかいい感じです。

南回りと北回り

車検証片手に、意気揚々と窓口に向かいます。
フェリーターミナルの待合室には、町内を走るバスの時刻表が掲出されていました。南回りと北回りがあるようですね。北回りは「野名前」が終点で、南回りは「神威脇」が終点のようです。どう見ても神威脇の先にあと一区間あったように見えるのですが……「幌内」あたりでしょうか?
「運転は悪質な犯罪」……気のせいでしょう、きっと。

お知らせ

島内のバスの話題をもう一つ。フェリーターミナルの待合室にはこんな掲示もありました。
改めて考えてみると、奥尻港到着 20:55 というのは結構な遅さですよね。基本的には島民のための便という位置づけなのかな、と思います。よって接続する路線バスはありません。

「近・遠距離、島内観光についてもお気軽にご相談下さい」というのはいいですね(笑)。

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2016年10月27日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (80) 「海栗前のなまえが野名前」

道道 39 号を渡って、奥尻漁港にやってきました。ちょいと向こう側にフェリーターミナルも見えていますね。
このまままっすぐ行けばフェリーターミナル……だと思ったのですが、なんと目の前にはマリーナが。
結局、「トラベルハウス想い出」(と言うのだそうです)の前を通って道道 39 号線に戻ることになりました。

フェリー乗り場に戻ってきました

ということで、再びフェリー乗り場に戻ってきました。
「奥尻島観光協会」の建物が見えます。割と小じんまりしているのがいいですね。そしてお隣のお土産屋さん?はどうやらお休みだった模様。水曜日でしたし、9 月の最終週でしたしね……。

海栗前のなまえが野名前

フェリーターミナルの反対側にバスが停まっていたので、ちょっと見に来ました(暇なんやね)。「町営バス」ならぬ「町有バス」なのが面白いですね。
行き先表示には「さいの河原経由 - 野名前」とあります。……あれっ?
そうそう、とっておきのネタが一つあったのですが、使い所を失っていたのでした。「稲穂小学校跡」や「栃久保平治先生頌徳碑」のある「奥尻町稲穂」集落の西に、「海栗前」と書いて「のなまえ」と読ませる地名がある……らしいのです。

「海栗前」で「のなまえ」ですから、ふつーに考えると「海栗」を「のな」と読ませていることになるのですが、一般的には「海栗」は「うに」と読ませるそうなのですね。

「ウニ」と言えば「雲丹」という字が真っ先に頭に浮かびますが、「海胆」や「海栗」という漢字表記もあるのだとか。

ところが、奥尻の「海栗前」は「うにまえ」ではなくて「のなまえ」なのです。実は……引っ張るのはもういいですか?(汗) アイヌ語で「ウニ」のことを nona と言うのだそうです(一部地域を除く)。てことは……「のなまえ」は nona-oma-i で「ウニ・そこにある・ところ」という、いかにも奥尻に相応しい地名だった可能性が出てくるんですよね。

ただ、さすがに「海栗前」を「のなまえ」と読ませるのは無理があった……ということなんでしょうか。奥尻 *町有* バスの行き先表示は「野名前」となっていましたよ、というお話でした。

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2016年10月26日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (79) 「セイコーマート♪」

乗船手続きの開始まで少し時間があったので、奥尻の中心地をブラっと散策してみることにしました。「ここの地盤は海抜 5m」の文字が光りますね。
フェリー乗り場を離れて、ちょいとだけ南に向かいます。

「想い出」は意外なところに

かつては米軍基地もあったという奥尻島には、今でも自衛隊の基地があります。あれっ、石油タンクの後ろに「想い出」と書かれた建物が見えますね。
なるほど、この看板が結構謎だったのですが、ちゃんと答が後ろに隠れていたことに今頃気づきました(汗)。

信号機のある交叉点

信号機のある交叉点にやってきました。島で唯一の信号……というのは島で良く耳にする話ですが、残念ながら奥尻島には他にもいくつか信号のある交叉点があります。

セイコーマート♪

徒歩で向かったのは……こちらでした。そう、島で唯一のコンビニです。
6 時開店、24 時閉店という、なかなか攻めた営業時間ですね(24 時まで店が開いているのは地味に凄いと思うのですが)。そしてセイコマの看板の横にはウニ型の街灯が。この組み合わせは、ここ奥尻でしか見られないことでしょう。

毎月16日~末日

残念ながら、セイコマではお目当てのもの(後ほど出てきます)が見つからなかったので、フェリーターミナルに戻ることにしました。左折すれば道道 39 号ですが、直進して海側を歩いてみることにします。
それにしても、毎月 16 日~末日のみ駐車禁止って、一体どういう理由があるんでしょう……?

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2016年10月25日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (78) 「奥尻町のカントリーサイン」

奥尻島での最後の目的地、フェリーターミナルがある奥尻町奥尻に戻ります。奥尻町球浦まで戻ってきました。
奥尻島球浦では、実は二本の川がほぼ 100 m 間隔で海に注いでいます。何度か出てきた「球浦川」の北に……
「白水川」が流れていました。
この時は、北から南に向かって走っていたので、実際には「白水川」「球浦川」という順番で通過したことになりますね。

タクシーだっ

前方にタクシーが見えてきました。いや、それなりの大きさがある島ですから、別にタクシーが走っていてもなんの不思議も無いのですが、そう言えばこの二日で初めて見かけたような、そうでも無かったような……(どっちだ)。

奥尻港フェリーターミナルへ

奥尻島フェリーターミナルに戻ってきました。まだ時間はあるので、乗船手続きを早めに済ませた後で、周辺を散策することにしましょう。街で唯一のカントリーサインのある交叉点を左折して……
フェリーターミナルの駐車場に向かいます。

奥尻町のカントリーサイン

さて……。奥尻港フェリーターミナルに到着したのは良いのですが、まだ少し時間に余裕があります。端的に言えば早く着きすぎたので(ぉぃ)、車を停めて周辺を散策してみることにしました。
街で唯一のカントリーサイン……あ、さっきも書きましたね(汗)。ちなみにカントリーサインが指し示している 4 つのポイントは、左上が「賽の河原公園」、右上が「宮津弁天宮」、左下が「北追岬公園の彫刻群」そして右下が「鍋釣岩」でした。

看板あれこれ

続いては「奥尻島」「北の魚つきの森」とありますが……。どういう意味なのでしょう?
観光マップもあったんですよね(何を今更)。島の中央部に「通行止め」のマークが光りますが、これは幌内川沿いの林道のことだったでしょうか。これを見た感じでは通年通行止めっぽい感じですね。

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2016年10月24日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (77) 「稲穂小学校(跡)」

奥尻町最北端の稲穂集落にある、かつての「稲穂小学校」跡にやってきました。駐車場の場所がわからなかったので、グラウンドの跡にちょいと車を入れさせてもらって……。
稲穂小学校跡の建物に向かいます。このアングルで撮影すると土台の高さがわかりますよね。稲穂小学校も北海道南西沖地震の津波をもろに受け、壁が破壊されるなどの被害を受けていたのでした。それを教訓に、建て直す際に土台から高くした……のだと思います。
2 m ちょいほどありそうな階段を上がって、入り口の前にやってきました。
入り口の前からまっすぐ海を望みます。防潮堤には「↑ 9.1m」の文字が。下には「南西沖地震 津波の高さ」とあります。新たに建設された防潮堤は、ちょうど南西沖地震の時の津波の高さをカバーできるサイズなんですね。
さて、かつての「稲穂小学校」跡は、現在は「歴史民俗資料展示室」となっているのですが、どうやら木曜日と土曜日の期間限定で開館していたらしく、この日は残念ながら水曜日だったということで中に入ることはできませんでした。事前に連絡しておけば大丈夫だったそうなのですが……残念ですね。

勘太浜から宮津へ

残された滞在時間もあと 2 時間と少しになってきました。そろそろフェリーターミナルのある奥尻町奥尻に戻ることにしましょう。
稲穂岬の灯台の前を通り、東海岸の道を南に向かいます。南から北にはこの日だけで 2 度も通っていますが、北から南に向かうのは今回が初めてですね。
宮津の弁天宮に向かう道にやってきました。南から北に向かっていた時は気づかなかったのですが、こんな現代風の高架道路だったのですね。元々は山手を迂回していたのを、橋をかけてショートカットしたようです。

この日四回目

宮津小学校(当時)前にある「旅の宿 大須田」さんの前に戻ってきました。朝に出発したのを一回とカウントすれば、これでこの日四回目ということになりますね(汗)。

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