六日間の苦闘の記録は、五十里から再び始まります。
奇妙なごったまぜ
イザベラ一行は、五十里からそのまま男鹿川沿いを北上して、山王峠の手前の「横川」に向かいました。日光から車峠(西会津町)までの六日間を、イザベラは次のように振り返っていました。つらかった六日間の旅行を終えて、山の静かな場所で安息の日を迎えることができるとは、なんと楽しいことであろうか。山と峠、谷間と水田、次に森林と水田、こんどは村落と水田。貧困、勤勉、不潔、こわれた寺、倒れている仏像、藁沓をはいた駄馬の列。長い灰色の単調な町並み、静かにじっと見つめている群衆これらが、私の思い出の中に奇妙なごったまぜとなって浮かび上がってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.157 より引用)
六日目にしてすべてお見通しというか、実際にはもっと想像を絶する出来事がこの先起こるのでしょうけれども、すごく的確にまとめられていますよね(汗)。さて、旅の詳細な記録に戻ります。五十里から横川までは直線距離にして約 13 km です(野岩鉄道・男鹿高原駅の近くです)。この日は好天に恵まれたようですね。
好天気に恵まれて、五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。そして横川の街路の中で昼食をとった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.157 より引用)
「街路の中で昼食」というのは、ちょっとしたピクニック気分にも思えますが、実はそれには切実な理由があったのでした。茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.157 より引用)
ふむ……(汗)。そういうことだったんですね(汗)。貧乏人の子沢山
横川でも、イザベラはこれまでと同様に「招かれざる客」としての扱いを受けてしまいます。まるで「見世物」のような……と言うよりは、「赤鬼」が村にやってきたかのような扱い……と言ったところでしょうか。すると、私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集まってきた。はじめのうち子どもたちは、大きい子も小さい子も、びっくりして逃げだしたが、やがて少しずつ、親の裾につかまりながら《裾といっても、この場合は譬喩的表現だが》、おずおずと戻ってきた。しかし私が顔を向けるたびに、またも逃げだすのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.157 より引用)
イザベラは、自身のことを物珍しそうに眺めている村の子どもたちについて、何やら感じるところがあったようです。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。彼らのおとなしい、裸で時代おくれの姿を見ていると、どうして貧乏人の子どもが、かくも多くあふれるのか、と疑問が出てくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.157-158 より引用)
近世から近代にかけての日本が概して貧しかったとする理解は、そう大きく間違ってはいないと思います。外圧によって不本意ながら開国を余儀なくされた後、欧米列強に追いつくために国民一人ひとりに重い負担が課せられた……と考えたくなるのですが、この時イザベラが目にした貧しさの本質は、まだ日本が近代化する前の生産性の低さ(と衛生面での不備)によるものだったのではないかと思わせます。現在の日本に限らず、多くの先進国は「少子化」という問題に直面していますが、これは子ども一人あたりにかかるコストが高くなったことの裏返しと言うこともできます。明治の頃の日本は、子ども一人あたりにかかるコストは現在とは比べ物にならないレベルで安かった上に、労働力となり得るまでの時間もとても短かったのです。
つまり、イザベラの言う「貧乏人の子沢山」は、「貧乏ゆえの子沢山」にほかならないわけですが、イザベラがどこまで考えを巡らせてこれを書いたのかは、ちょっと良くわかりませんね。
分水界
山王峠の手前にある「横川」で昼食をとったイザベラ一行は、山王峠に向かいます。長い山路を登ると、高さ二五〇〇フィートの峠の頂上に出た。そこは三〇フィートも幅のない突き出た山の端で、山々や峡谷のすばらしい眺めがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
ここでは「高さ二五〇〇フィートの峠」、すなわち「標高 762 m の峠」と記されていますが、実際の山王峠は 900 m 強の標高があります。他のルートだった可能性も考えてみましたが、山王峠よりも標高の低いルートは周辺には存在しないので、イザベラが持っていた地図の誤りと考えるのが自然でしょうね。地図を見ると、この地方は空白になっているが、私の考えでは、さきに越えた峠は分水界であって、それから先の川は、太平洋に向かうのではなく、日本海に注ぐのであると思われた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
日本における測量・測図は、伊能忠敬という偉人がいたおかげで、海岸線においては相当正確な地図がすでに存在していました。ただ、内陸部においては発展途上だったことがこのことからも窺い知ることができます。イザベラは、山王峠が太平洋側と日本海側の分水嶺だと推測したわけですが、
この推量は当たっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
そうなんです。猪苗代湖をはじめとする会津地方って、実は日本海側なんですよね。イザベラ一行は、山王峠を越え、山王川、そして阿賀川沿いを北に向かいます。
糸沢では、借り出した馬がひどく蹟くので、最後の宿場間を歩いて川島(カヤジマ)に着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
「糸沢」は、現在の南会津町の地名で、会津鉄道の「七ヶ岳登山口駅」(ななつがたけとざんぐち──)のあたりだと考えられます。馬がひどく躓くせいで、イザベラは糸沢から川島(南会津、会津荒海駅の北)までは徒歩での移動を余儀なくされたようです。ここは五十七戸のみじめな村であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
のっけからイザベラ姐さんが飛ばしていますが……私は疲れきって、それ以上は進めなかったので、やむなく藤原のときよりもずっとひどい設備の宿に泊まることになった。苦労に立ち向かう気力も、前ほどはなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
これを見た感じでは、どうやらイザベラ一行は既に「行けるところまで行く」というポリシーで動いていたようですね。事前に宿泊予約しているような雰囲気もありませんし、そもそも当時は旅行者の数も限られていたでしょうし、電話なども無かったでしょうから、「事前に予約」なんて考え方自体が「実情に合わない」ものだったのかなぁ、と思ったりもします。www.bojan.net
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