2016年10月7日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (67) 「奥尻島津波館『これまで、そしてこれから』」

「奥尻島被災20周年特別展示」として、「これまで、そしてこれから」と題された写真展示が行われていました(2013 年当時)。
まずは「ごあいさつ」から……

硫黄を採掘した奥尻鉱山

そして、ストーリーは「島のむかし」から始まります。何故かパネルの右下の写真が「明治末期」で圧倒的に古いのですが……
トリミングしたものがこちらです。「硫黄を採掘した奥尻鉱山」とあります。
昔は、火薬の材料となる「硫黄」を採掘する鉱山が各地にありました(現在では、原油の精製時に硫黄が採れるようになったので、国内には硫黄鉱山は残っていません)。硫黄が採れるということは温泉があっても不思議ではないわけで、実際に島の西部には「神威脇温泉」などが存在していますね。

米軍駐屯時代

続いては、昭和 30 年代~昭和 40 年代の写真が並んでいるのですが……
おやおや、米軍が駐屯していた時代もあったのですね。島の最高峰である「神威山」には、今も航空自衛隊の基地があるのですが、もしかしたらかつての米軍基地だったのでしょうか。

青苗空撮

そして、やはり一番ショッキングなのがこの写真ですね。昭和 41 年の青苗地区と、平成 18 年の青苗地区の空撮です。
現在の青苗地区は、徳洋記念碑から 300 m ほど北側(地盤を 6 m 嵩上げしたあたり)までは「奥尻島津波館」などの建物がある以外は、基本的に空き地のような状態です。ところが、昭和 41 年の写真を見ると、ほぼ岬の先端まで住居や水田が並んでいます。海抜の低い土地は津波によって甚大な被害を受けてしまったので、住宅の再建は行わずに高台への移転を決めた、ということが良くわかります。

『青苗地区』の状況写真

「『青苗地区』の状況写真」と題して、青苗地区のビフォー・アフターを取り上げた写真展示もありました。
こちらが「ビフォー」の写真ですね。岬の東側を中心に、「徳洋記念碑」のすぐ近くまで集落が広がっていたことがわかります。
そして、こちらが「アフター」です。岬の先端部は完全に区画整理し直されて、緑地と遊歩道が並ぶ公園のようなスペースに生まれ変わりました。現在「奥尻島津波館」があるところは、この時は更地のままの状態でした。

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