2016年9月30日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (62) 「奥尻島津波館『災害の記録』」

奥尻町青苗の「奥尻島津波館」にやってきました。奥尻島の最南端は「徳洋記念碑」のある青苗岬ですが、「奥尻島津波館」は青苗岬と青苗の集落の間に位置しています。
外は相変わらずの雨模様ですが、駐車場から入り口までの間もコンクリート製の屋根?が用意されているのは助かります。
それにしても、単なる歩道の屋根だとしてはあまりにも頑丈な作りですね……。どことなく防潮堤のようにも思えてしまいます。

入館時間・入館料

入り口のドアの前には入館時間と入館料の案内がありました。
小学生・中学生・高校生が格安で入館できるのは良いことですよね。

さっそく入館料を支払って中へと向かいます。入口前のプロムナードもコンクリート打ちっぱなしのようなデザインでしたが、中も同じような構造です。
コンクリートづくりの建物は、そう簡単に朽ち果てることの無いように、半永久的に残すことを前提に建築されたのかもしれませんね。あと、この格子状の窓なんですが、実はある法則性に従って作られています。詳細については後ほど……。

「災害の記録」

常設展示に向かう前に、まずは「映像ホール」に向かうことにしました。「映像ホール」はいわゆるシアターで、「災害の記録」と第された映像作品を見ることができます。これは 1983 年 5 月 26 日の「日本海中部地震」の映像ですが……
もちろん、1993 年 7 月 12 日の「北海道南西沖地震」がメインだったのは言うまでもありません。当時、奥尻島には震度計が設置されていなかったので、「震度 6」というのは推測値なんですが、被害状況や各地の震度分布を考えると妥当な推測だったと思われます。
作品としては 10 分程度のものですが、知識としては理解している筈の出来事も、こうやって映像作品にまとめられるとまた認識を新たにするものです。いつになく厳かな気持ちで「映像ホール」を後にしました。

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2016年9月29日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (61) 「北追岬公園の彫刻群」

奥尻島西部の神威脇にある「北追岬公園」にやってきました。道道 39 号「奥尻島線」から少し海側に入っていくと……
まるで、パラボラアンテナのようにも見える謎の彫刻群が。アングルを変えてもう一枚。
これは一体何なのでしょう……。奥尻町の Web サイトには、次のような説明がありました。

記念碑や、アーティストの手による彫刻など、さまざまな作品が島内に点在し、まるで島全体が野外美術館のような趣です。
(奥尻町 Web サイト「北追岬公園」より引用)
ふむふむ、なるほど。なんとなくコンセプトが見えてきました。

特に北追岬の彫刻群は、世界的な彫刻家・流政之氏によって制作されたものです。
(奥尻町 Web サイト「北追岬公園」より引用)
へぇぇ。この流政之さんですが、確かに世界的な彫刻家でいらっしゃるようです。Wikipedia にも「主な作品」として日本中、いや世界中の作品群が記されているのですが、その中にちゃんと「北追岬」も記されていました。1981 年の作品と言うのは、ちょっと意外な感じがしますね。この手のアートはバブル期か、あるいは(奥尻島の場合)地震後の復興の一貫であるケースが多いと思ったので。
この「北追岬公園」、こんなオブジェが他にも漠然と置かれている印象があるのですが、そう言われてみれば確かにひとつひとつに説明板を立てるのも野暮な感じもしてきました。あるがまま、見たままを感じるのが正しい?あり方なのかもしれません。

車は駐車場に停めましょう

「北追岬公園」のオブジェ群の南には、パターゴルフ場(グランドゴルフかも)もあります。
実は、中に駐車場があるだろう……と思って車で入っていったのですが、中に駐車場はありませんでした。道道との交叉点の山側に大型車を停められそうなスペースがあるのですが、あれが駐車場だったんでしょうか……? ご覧の通り、公園内の道路はかなり狭いので、下手に入ってしまうと後が大変かもしれません。

千畳浜から青苗へ

道道 39 号に戻りました。「清次郎歌岬」の下を通る「鴨石トンネル」をくぐり抜けて、さらに南へと向かいます。
空港にほど近い「千畳浜」からは台地を駆け上がって、スノーシェッドを抜けます。
奥尻町青苗の、地震後の嵩上げ地に戻ってきました。

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2016年9月28日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (60) 「北追岬公園へ」

急勾配もふくろうが知らんぷりをしながら教えてくれる「林道鍋釣線」を進みます。今度は 12 % の上り勾配ですから……これはキツいですね。
航空自衛隊から北上してきた道路と合流して、更に北へと向かいます。

道道 39 号「奥尻島線」で西海岸へ

今度は東からやってきた道道 39 号「奥尻島線」と合流して、北西に向かいます(前の日とは逆方向に走ります)。前方に日本海が見えてきました!
幌内川沿いに高度を下げて、ついに海岸にたどり着きました。幌内までの道道 39 号は山中を走るワインディングロードですが、幌内から南はずっと海沿いを走ります。新日本海フェリーの小樽・舞鶴航路のフェリーから見えるのが、これから先の区間の沿線ですね。
「屏風立岩」の近くの「神威トンネル」まで戻ってきました。こうやって見るといかにも道南っぽい構造のトンネルですね。

再び神威脇へ

「神威トンネル」を抜けて神威脇まで戻ってきました。右手の大きな建物は漁港関連の建物でしょうか。その隣(奥)が「神威脇温泉保養所」ですね。
前日にやってきたときはうまく写真に収めることができなかった、「奥尻湯ノ浜温泉 ホテル緑館」の建物もしっかりと見ることができます。奥尻で一番大きな宿泊施設だと思うのですが、奥尻の中でも栄えている奥尻や青苗ではなく少し離れた神威脇にあるというのも面白いですね。

そして北追岬公園へ

そして、これまた前日にスルーしてしまった「北追岬公園」に向かうことにしました(「北追岬公園」は「ホテル緑館」から歩いてすぐの海側にあります)。右折して海に向かう小径を進みます。
すると、前方に謎のオブジェが……。まるで異星人が望郷の念にかられて作った石像のようにも見えますが、果たして一体……!

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2016年9月27日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (59) 「林道鍋釣線」

「佐藤義則野球展示室」は「うにまるパークセンター」の中にあります。「うにまる公園」は、展示室の窓からこのように見えるのですが……
円形の広場に巨大な「うにまる」のイラストと文字があって、
海側には謎のオブジェも。
なんともシュールな、まるで昔の人工衛星のようなデザインの「ウニ」のオブジェですね。今は昼間なので単に金属製の刺々しい物体でしかありませんが、なんでも夜になると光るのだとか……?
というわけで、「佐藤義則野球展示室」のある「うにまるパークセンター」を後にして、再び島内散策に戻ることにします。生憎の空模様なのがなんとも残念ですね。

再び奥尻中学校へ

「うにまる公園」の北側を流れる「烏頭川」(ぶしがわ)を渡って、再び中学校のある「奥尻町谷地」に戻ります。
正面に中学校の建物が見えてきました。
せっかくなので正門の写真も。佐藤義則さんもここの卒業生らしいですね。

林道鍋釣線

中学校の前の交叉点を右折して、釣懸川を渡ります。この道は、航空自衛隊に向かう道から降りてきた時に通った道ですね。要するに、さっき通った道を逆に戻っていることになります。
この道は、釣懸川の北側の尾根を通っているのですが、どうやら「林道鍋釣線」と言うのだとか。
「あれ、どんな道だったっけ」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、この標識?で思い出していただけるでしょうか。なるほど、これらのユニークな標識は林道ならではだったということなのかも知れませんね。

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2016年9月26日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (58) 「平成 11 年 11 月 11 日 11 時 11 分 11 秒!」

奥尻町の「うにまるパークセンター」にある「佐藤義則野球展示室」の話題の続きです。なぜかアコーディオンカーテンが設けられた一角があり、その奥には何故かこんな大漁旗(ですよね?)が。
1994 年に通算 150 勝を達成した記念に作成されたもののようですね。ちなみに佐藤義則投手の通算勝利数は 165 勝とのこと。1977 年から 1997 年まで 21 シーズン間、6 度の二桁勝利を含めて毎年最低でも 1 勝は重ねてきたというのですから大したものですよね。

スクラップブック(自家製)

テーブルの上には、アンケート箱の横にスクラップブックが置かれていました。
説明を読んでみると……どうやらご家族が大切に保管されていたもののコピーのようですね。いやいや、いい話じゃないですか。

平成 11 年 11 月 11 日

「佐藤義則野球展示室」がオープンしたときの記念写真も飾られていました。
写真の説明をよーく見てみると……「平成 11 年 11 月 11 日」という、この上なく狙ったと思しき日付が記されています。そう、佐藤義則投手の現役時代の背番号が「11」だったんですよね。

11 時 11 分 11 秒!

他にも記念写真が飾られていました。一緒に映っているのは地元のリトルリーグの少年でしょうか。そして、駐車場に置いてある車の姿も見えます。実は意外と距離があるんですよね(汗)。
これはオープニングセレモニーの写真なのですが……
日付と時間にご注目ください。「平成 11 年 11 月 11 日」なのは良いとして、「11 時 11 分 11 秒」って……(笑)。そりゃあ確かに数十年に一回しか無いチャンスだというのはわかりますけど、ここまで拘るか! と言った感じもしますね。

寄付歓迎

そんなお茶目な一面もある「佐藤義則野球展示室」は、入館無料で自由に観覧することができるのですが……
まぁ、維持費もかかるでしょうし、コンテンツの陳腐化を防ぐにはある程度の投資も必要になりますよね。ということで、僅かではありますが寄付してみました!(こういった「無料だけど寄付歓迎」には割と弱いんですよね)

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2016年9月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (377) 「幌毛志・振内・池売川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

幌毛志(ほろけし)

poro(-sar)-kes(-oma-p)
大きな(・葭原)・末端(・そこにある・もの)
(典拠あり、類型あり)
沙流川の北側に位置する平取町の地名で、かつては国鉄富内線の駅がありました。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  幌毛志(ほろけし)
所在地 (日高国)沙流郡平取町
開 駅 昭和33年11月15日 (客)
起 源 アイヌ語の「ホロケウ・ウシ」(オオカミの多くいた所)から出たものと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.98 より引用)
ふーむ。こんな説があったんですね(汗)。続いては更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。

 幌毛志(ほろけし)
 沙流川中流右岸の農地帯、ポㇽ・ケシで洞窟のしもての意か。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.79 より引用)
あんれま。これまた全然違う解が出てきました。ちなみに戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されています。

また少し上りて
     ホロケシヨマ
西岸大岩の平の下に有小川也。よつて号る也。相応の川にして鱒も入るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.57 より引用)
これまた全然違う解が出てきましたね。「大岩の平の下に有」は「大きな崖の下にある」と言ったところなんでしょうが、poro-kes-oma であれば「崖」を意味する単語が抜けているような感じもします。

永田地名解は次のような感じでした。

Poro kes omap  ポロ ケㇲ ヲマㇷ゚  夥多ノ茅ノ端ナル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.232 より引用)
現在残されている地名としては「幌毛志」ですが、幌毛志を流れる沙流川の支流の名前は「ポロケシオマップ川」なので、もともとは poro-kes-oma-p から「幌毛志」になった、と考えるべきなのでしょうね。

ちなみにポロケシオマップ川の手前にそびえる山の名前が「幌消末峰」という名前なのですが、これは「ほろけしまっぽう」と読めてしまいますよね。実際はどう読むのでしょうか……?

山田秀三さんは「北海道の地名」にて、次のように記していました。

ポロサㇽ・ケㇱ(幌去の・末端)の略された形ででもあったろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.366 より引用)
このあたりは、実は大正12年までは「幌去村」という村でした。幌去村の村域は現在の振内、岩知志、仁世宇のあたりを含む広大なもので、長知内と幌毛志の間に境界があったのだとか。幌去村の語源となった「ポロサㇽ」は、poro-sar で「大きな・葭原」だったと考えられます。

地形図を眺めた感じでは、現在の幌毛志から振内のあたりに大きな葭原があった可能性がありそうです。そうなると、ポロケシオマップ川は葭原の西端あたりを流れていたことになるので、まさに poro(-sar)-kes-oma-p で「大きな(・葭原)・末端・そこにある・もの」という名前に相応しいことになりますね。

poro-kes-oma-p が地名となったときに、-oma-p を省略して「大きな・末端」になったのだ、と考えるのが自然に思えます。とりあえずオオカミとか洞窟は見なかったことにしましょう(汗)。

振内(ふれない)

hure-nay
赤い・川
(典拠あり、類型多数)
平取町振内は、平取町の中でも平取本町に次いで大きな集落で、平取本町では早くに失われた鉄道の路線も比較的近年まで残されていました(1986 年廃止)。振内駅の跡は整備されて「振内鉄道記念館」になっています。

では、時折珍妙な説が出てくることでおなじみの(いつの間に)「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  振 内(ふれない)
所在地 (日高国)沙流郡平取町
開 駅 昭和33年11月15日
起 源 アイヌ語の「フレ・ナイ」(赤い川)からとったものと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.98 より引用)
ふむ……。至極もっともな説が出てきましたね(珍妙なんじゃなかったのか)。この「振内」は今でこそ大きな集落の名前ですが、東西蝦夷山川地理取調図や永田地名解には記載が無かったりします。東蝦夷日誌には「フウレナイ(左川)」と記載があり、また戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

またしばし過て
     フウレナイ
左りの方平地、谷地有。其下少しの崩岸。それえ谷地水落来る故に号しとかや。フウレは赤きと云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.64 より引用)
はい。他の説を考える必要も無かったようです。hure-nay で「赤い・川」だったと見て良さそうですね。

平取町振内については、北海道のアイヌ語地名 (34) 「小平・額平・芽生・幌消末峰・振内・岩知志」もご覧ください。

池売川(いけうり──)

i-kewre-i
それを・削る・ところ
(典拠あり、類型あり)
平取町振内の「振内鉄道記念館」(かつての「振内駅」)からまっすぐ南に向かうと、沙流川に「池売橋」という橋がかかっています。池売川は池売橋の少し上流部、国道 237 号線の「振内橋」の近くで沙流川に注いでいる支流の名前です。

現在は川の名前として残っていますが、大正の頃に測量された地図には「イケウレリ」という集落があったように記されています。また戊午日誌「東部沙留志」には、次のように記されていました。

七月三日 また早く起きて出立しけるに、中々此辺は急流にして上り難かりけるが、行まゝ十七八丁にて
     イケウレリ
右の方小川。其名義は船を作りに行て削ると云儀のよし也。ケウレは削ると云り。此辺椴山計にして是を土人等材木山と云へり。其義サル場所にて用ゆる処の材木皆此辺より出す也。よつて号るとかや、ホロサルよりして此材木山え凡弐里と云也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.65 より引用)
ちょっと面白そうな解が出ていますが、続けて永田地名解も見ておきましょう。

Ikeure-i  イケウレイ  木ヲ斫ル處 斧ニテ木ヲハツルを「イケウレ」ト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.232 より引用)
「斫る」は「はつる」あるいは「きる」と読むようですね。「木をはつる」と続いていますが、「斫る」をちゃんと読めるようにわざわざカナにしたのか、それとも「斫る」は「きる」と読ませたかったからなのか……。まぁどっちでもいいと言えばそれまでなんですが。

戊午日誌には「船を作りに行て削ると云儀」とあるので、単に「木を切る」というよりは、鑿(ノミ)などで木を整形するというニュアンスのほうが的確なのかもしれません。i-kewre-i で「それを・削る・ところ」と考えれば良いのかな、と考えてみました。

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2016年9月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (376) 「主辺山・オコチナイ川・シュッタ川・主待山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

主辺山(しゅへん──?)

supun(-tapkop)?
ウグイ(・円山)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
平取町幌毛志の南、長知内からは東に位置する山の名前です。そもそもこの読みで正しいのかも定かでは無いのですが……(汗)。

この山ですが、ちょっと面白いことになっています。明治期の地形図には、貫気別の北に「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」という存在が記されています。「主辺山」が「しゅへん──」なのであれば、元はこの「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」だった可能性が考えられそうです。

ところが、この考え方には二つほど問題があります。「タㇷ゚コㇷ゚」は「円い山」という意味で、通常は連峰ではなく独立峰に使われます(少なくとも頂上部がこれらの条件に当てはまっている場合が多いです)。確かに貫気別の北にはこの条件に当てはまる山があるのですが、現在は「三角山」という名前で、主辺山からは 2.7 km ほど離れています。

もう一つの重大な問題は、「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」の下に「346」と記されていることです。これは標高を意味すると考えられるのですが、このあたりで「標高 346 m」に相当する山と言えば、主辺山の東南東、三角山からは東北東に位置する「主待山」がそれに当たります。結果的に、明治期の地図では現在の「主辺山」と「三角山」「主待山」が混同されていた可能性が高いように思われるわけです。

「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」が現在の「三角山」の名前だったと考えられる理由ですが、明治期の地形図に記されていた位置もそうですし、また、三角山の東に「志文川」という川があることも傍証として挙げられるかと思います。この「志文川」ですが、戊午日誌「東部沙留志」には次のように挙げられています。

しばし上りて
     シユブン
左りの方小川。此川には桃花魚(うぐい)多きよりして号しものなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.30 より引用)
はい。「シユブン」は supun で「ウグイ」のことだと考えられます。supun-tapkop であれば「ウグイ・円山」で、つまりは「ウグイ川の円山」と言うことになりますね。

supun は割と地名に良く出て来る魚のひとつで、さっと思い出されるだけでも岩見沢近郊の「志文」や、苫小牧東 FT の埠頭がある「周文」などがありますね。

オコチナイ川

o-u-kot-nay
尻・互い・くっついている・沢
(典拠あり、類型あり)
平取町幌毛志の東側で沙流川と合流する南支流の名前です。由来が「落っこちない川」だったらどうしようかと思ったのですが……(汗)。

この川ですが、実はとても良くある名前の川でした。戊午日誌「東部沙留志」には次のようにありました。

凡五六丁過て
     ヲヽコツナイ
右の方小川。其名義は二川一ツに成、犬の交合なしたる如くなる故に号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.64 より引用)
はい。「興部」なんかでもおなじみの o-u-kot-nay だったようです。意味は「尻・互い・くっついている・沢」、つまり本流に合流する直前に他の川とくっついている川という意味ですね。

シュッタ川

siw-ta-sarki(-us-i)?
苦い・採る・葦(・多くある・ところ)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
平取町振内(振内町)の対岸を南から北に流れる、沙流川の支流の名前です。では早速、永田地名解を見てみましょう。

Shū ta  シユータ  鍋ヲ作ル 「シユツタ」ト發音ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.232 より引用)
ふーむ。確かに shu-ta で「鍋・作る」と解釈できなくは無い(実際には ta は「掘る」とか「汲む」とか「採る」と言った意味なので、「作る」というのは少々解釈に無理があります)ですが、まぁ、その……「ほんまかいな」とツッコミを入れたくなる地名解ですよね。

戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

     シユツタ
右の方平場の中に小川有る也。本名シユツタシヤリキと云よし也。其名義は姥が此処え来りて死せしと云儀のよし也。シユツタはフツの延て有る語かと思はる。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.64 より引用)
またしても「なんじゃこりゃああ®」と言いたくなるような解が出てきました。えっと、sut には「祖母」と言った意味があるようです。また sarak-kamuy で「水死した人」という意味があるそうですから、sut-ta-sarak-i あたりで「祖母・ここ・水死・ところ」と解釈したのでしょうか。

……実は、意外と「祖母が水死したところ」もアリかな、と思っていたりもするのですが、もう少し一般的にありそうな解を考えてみましょうか。siw-ni で「苦い・木」という単語があるのですが、この木の皮を煎じると虫よけになったり胃薬に使ったりしていたそうです。

また、siw-kina であれば「苦い・草」で「エゾニュウ」という多年草を意味します(エゾニュウは茎の部分を食用にしていたようです)。これらのどちらかを ta(つまり「切る」あるいは「採る」)する場所だったのではないかな、と考えてみました。siw-ni-ta-us-i(苦い・木・切る・いつもする・ところ)あるいは siw-kina-ta-us-i(苦い・草・採る・いつもする・ところ)から -us-i が落とされ、そして ni あるいは kina が抜け落ちて siw-ta になったんじゃないか、という推測です。

最大の問題は、これだと戊午日誌にある「シユツタシヤリキ」が良くわからないことになる、というところですね。「シヤリキ」が sarki であれば「葦」でしょうから、siw-ta-sarki(-us-i) で「苦い・採る・葦(・多くある・ところ)」だったと考えれば、なんとか意味も通りそうな気もしますが……。

主待山(しゅったい──?)

siw-ta??
苦い・採る
(?? = 典拠なし、類型あり)
問題の「シュッタ川」を遡ると、やがて問題の「主待山」にたどり着きます(問題だらけ)。「主待山」の標高は 345.0 m とのことですから、明治期の地形図にある「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」とほぼ一致します。位置も「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」からそれほどズレてはいないのですが、山容はやや南北に長いので、あまり tapkop らしくは無いですね。

「主待山」を「しゅったい──」と読むかどうかの確証が持てない状態ですが、読みがほぼ合っているのであれば、「シュッタ川」と由来を同じくする可能性が高いと思います。ということで、siw-ta で「苦い・採る」なんじゃないかなぁと思っていますが、いかがでしょうか。

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2016年9月23日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (57) 「佐藤義則野球展示室」

奥尻町赤石にある「うにまる公園」にやってきました。
一見、何もない広場のようにも見えてしまいますが、随分と向こうのほうに建物がポツンと見えています。
ずいずいっとズームすると……。はい、この建物が「うにまるパークセンター」にして、そのメインコンテンツである「佐藤義則野球展示室」です。
一応繰り返しておきますと、建物自体は「うにまるパークセンター」で、「佐藤義則野球展示室」はその中の一コンテンツという扱いです。ですので
建物には「うにまる」のイラストも。

「佐藤義則野球展示室」へ!

では、早速中に入ってみましょう。
おー、のっけからオリックスのユニを着たマネキンさんの登場ですね。この「佐藤義則野球展示室」は、ここ奥尻島出身の元プロ野球選手(投手)である佐藤義則さんにまつわる資料が展示してある施設です。選手としては 1998 年に現役を引退されていますが、今でも様々なチームでコーチとして現在進行形で活躍されている方なので、「記念館」ではなく「野球展示室」という、ちょっと珍しいネーミングになっています。

ガラス製のショーケースの中には、懐かしの阪急ブレーブス時代のユニフォームや、各種のカップや盾などが惜しげもなく飾られています。
こちらにはオリックス時代のユニやグッズもありますね。右の方には年間最優秀防御率で一位になった時(1986 年)と、年間最多勝(1985 年)で表彰された際のフラッグもあります。
こちらがそのフラッグですが、レプリカでは無い……ですよね?(レプリカだったら、それはそれで良くできていると思いますが)
現役時代は阪急(オリックス)一筋だった佐藤義則さんですが、現役引退後はオリックス以外のいろんなチームでコーチや監督として活躍されています。こちらはコーチ時代のユニが飾られていますね。

一流の選手にして一流の指導者

また、展示室の一角には 2005 年から 2007 年にかけて北海道日本ハムファイターズのコーチを務めた際の記録(グッズや写真、記事の切り抜きなど)がまとめられています(やはり何と言っても地元・北海道のチームですからね)。
実は、ファイターズは 2006 年と 2007 年に連続リーグ優勝を決めていて、2006 年には日本一になってるんですよね。阪神タイガースのコーチを務めていた 2002 年から 2004 年の間も、2003 年にリーグ優勝していますし、2009 年から 2014 年までコーチと監督代行を務めた東北楽天ゴールデンイーグルスをも、2013 年には日本一に導いています。

2014 年に監督代行を務めたときこそ今ひとつ振るいませんでしたが、選手としても一流にして、指導者としても一流という、とても稀有な人ですよね。

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