(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
幌毛志(ほろけし)
(典拠あり、類型あり)
沙流川の北側に位置する平取町の地名で、かつては国鉄富内線の駅がありました。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。幌毛志(ほろけし)
所在地 (日高国)沙流郡平取町
開 駅 昭和33年11月15日 (客)
起 源 アイヌ語の「ホロケウ・ウシ」(オオカミの多くいた所)から出たものと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.98 より引用)
ふーむ。こんな説があったんですね(汗)。続いては更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。幌毛志(ほろけし)
沙流川中流右岸の農地帯、ポㇽ・ケシで洞窟のしもての意か。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.79 より引用)
あんれま。これまた全然違う解が出てきました。ちなみに戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されています。また少し上りて
ホロケシヨマ
西岸大岩の平の下に有小川也。よつて号る也。相応の川にして鱒も入るよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.57 より引用)
これまた全然違う解が出てきましたね。「大岩の平の下に有」は「大きな崖の下にある」と言ったところなんでしょうが、poro-kes-oma であれば「崖」を意味する単語が抜けているような感じもします。永田地名解は次のような感じでした。
Poro kes omap ポロ ケㇲ ヲマㇷ゚ 夥多ノ茅ノ端ナル處現在残されている地名としては「幌毛志」ですが、幌毛志を流れる沙流川の支流の名前は「ポロケシオマップ川」なので、もともとは poro-kes-oma-p から「幌毛志」になった、と考えるべきなのでしょうね。
ちなみにポロケシオマップ川の手前にそびえる山の名前が「幌消末峰」という名前なのですが、これは「ほろけしまっぽう」と読めてしまいますよね。実際はどう読むのでしょうか……?
山田秀三さんは「北海道の地名」にて、次のように記していました。
ポロサㇽ・ケㇱ(幌去の・末端)の略された形ででもあったろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.366 より引用)
このあたりは、実は大正12年までは「幌去村」という村でした。幌去村の村域は現在の振内、岩知志、仁世宇のあたりを含む広大なもので、長知内と幌毛志の間に境界があったのだとか。幌去村の語源となった「ポロサㇽ」は、poro-sar で「大きな・葭原」だったと考えられます。地形図を眺めた感じでは、現在の幌毛志から振内のあたりに大きな葭原があった可能性がありそうです。そうなると、ポロケシオマップ川は葭原の西端あたりを流れていたことになるので、まさに poro(-sar)-kes-oma-p で「大きな(・葭原)・末端・そこにある・もの」という名前に相応しいことになりますね。
poro-kes-oma-p が地名となったときに、-oma-p を省略して「大きな・末端」になったのだ、と考えるのが自然に思えます。とりあえずオオカミとか洞窟は見なかったことにしましょう(汗)。
振内(ふれない)
(典拠あり、類型多数)
平取町振内は、平取町の中でも平取本町に次いで大きな集落で、平取本町では早くに失われた鉄道の路線も比較的近年まで残されていました(1986 年廃止)。振内駅の跡は整備されて「振内鉄道記念館」になっています。では、時折珍妙な説が出てくることでおなじみの(いつの間に)「北海道駅名の起源」を見てみましょう。
振 内(ふれない)
所在地 (日高国)沙流郡平取町
開 駅 昭和33年11月15日
起 源 アイヌ語の「フレ・ナイ」(赤い川)からとったものと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.98 より引用)
ふむ……。至極もっともな説が出てきましたね(珍妙なんじゃなかったのか)。この「振内」は今でこそ大きな集落の名前ですが、東西蝦夷山川地理取調図や永田地名解には記載が無かったりします。東蝦夷日誌には「フウレナイ(左川)」と記載があり、また戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。またしばし過て
フウレナイ
左りの方平地、谷地有。其下少しの崩岸。それえ谷地水落来る故に号しとかや。フウレは赤きと云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.64 より引用)
はい。他の説を考える必要も無かったようです。hure-nay で「赤い・川」だったと見て良さそうですね。平取町振内については、北海道のアイヌ語地名 (34) 「小平・額平・芽生・幌消末峰・振内・岩知志」もご覧ください。
池売川(いけうり──)
(典拠あり、類型あり)
平取町振内の「振内鉄道記念館」(かつての「振内駅」)からまっすぐ南に向かうと、沙流川に「池売橋」という橋がかかっています。池売川は池売橋の少し上流部、国道 237 号線の「振内橋」の近くで沙流川に注いでいる支流の名前です。現在は川の名前として残っていますが、大正の頃に測量された地図には「イケウレリ」という集落があったように記されています。また戊午日誌「東部沙留志」には、次のように記されていました。
七月三日 また早く起きて出立しけるに、中々此辺は急流にして上り難かりけるが、行まゝ十七八丁にて
イケウレリ
右の方小川。其名義は船を作りに行て削ると云儀のよし也。ケウレは削ると云り。此辺椴山計にして是を土人等材木山と云へり。其義サル場所にて用ゆる処の材木皆此辺より出す也。よつて号るとかや、ホロサルよりして此材木山え凡弐里と云也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.65 より引用)
ちょっと面白そうな解が出ていますが、続けて永田地名解も見ておきましょう。Ikeure-i イケウレイ 木ヲ斫ル處 斧ニテ木ヲハツルを「イケウレ」ト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.232 より引用)
「斫る」は「はつる」あるいは「きる」と読むようですね。「木をはつる」と続いていますが、「斫る」をちゃんと読めるようにわざわざカナにしたのか、それとも「斫る」は「きる」と読ませたかったからなのか……。まぁどっちでもいいと言えばそれまでなんですが。戊午日誌には「船を作りに行て削ると云儀」とあるので、単に「木を切る」というよりは、鑿(ノミ)などで木を整形するというニュアンスのほうが的確なのかもしれません。i-kewre-i で「それを・削る・ところ」と考えれば良いのかな、と考えてみました。
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