2016年9月1日木曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

秋の道南・奥尻の旅 (43) 「徳洋記念碑」

 

奥尻島南部の「青苗」地区にやってきました。何度もくどくて申し訳ありませんが、1993 年の「北海道南西沖地震」で甚大な被害を被ったところで、集落のすぐ西側には「奥尻空港」があります。奥尻島の中でもフェリーターミナルのある「奥尻」地区と一二を争う大きな集落です。
さて、ずーっと島の最南端に向かってドライブしてきました。ということで、せっかくここまでやってきたのですから、最南端の「青苗岬」に行かない手はないですよね。
青苗の岬は岩がゴツゴツしたようなところではなく、平地の延長のようなところです(但し近くの海には岩礁が結構あります)。土地の標高があまり高くなかったことも津波の被害が大きくなった理由の一つですね。

北海道南西沖地震から二十年

さて、そんな青波岬ですが、何やら大きな……いや、巨大な石碑?がありました。
ということで、周りに他の車の姿も見えないのをいいことに、ちょいと車を停めて見に行くことにしました。
「北海道南西沖地震」というと、もう結構昔の出来事のような気もしますが、まだ 20 年前(取材当時)の出来事なんですよね。まだまだ生々しい記憶をお持ちの方も少ないことでしょう。

洋々美徳

巨大な石碑には「洋々美徳」と記された銘板が埋め込まれています。
裏側、即ち海側から石碑を見たところに由緒が記されていました。
由緒を読んでいるうちに、あることに気が付きました。一番わかり易い部分を拡大してご覧に入れます。
なんと、「昭和六年九月」と記されているではありませんか。昭和六年と言えば 1931 年ですから、満州事変があった年ですよね。どう考えても 1993 年よりも遥かに昔です。つまり、この巨大な石碑は「北海道南西沖地震」とは何の関係も無かったのです(!)。

威仁親王徳洋記念碑

それじゃあ何のための石碑なんだ……ということで、ささっと全文をお目にかけます(権利上の問題がございましたらご一報を)。

威仁親王徳洋記念碑
元帥海軍大将威仁親王弱年ニシテ實習ノ爲英國支那艦隊旗艦アイヨンヂュークニ乗組マル偶明治十三年七月同艦我ガ北海を巡航ノ途次誤リテ本島青苗岬ノ座礁ス
親王乃チ親ク島民ニ交渉シ他艦舩ノ来援ヲ求ムル等百方盡瘁遂ニ同艦ヲシテ離礁事ナキヲ得シムルニ與リテ力アリシハ洵ニ景仰スベキ美談ナリト為ス
今茲昭和六秊同地方有志胥謀リ之ニ関スル記念碑ヲ此ノ縁由ノ地ニ建テ以テ親王ノ徳洋ヲ永遠ニ傳ヘント欲シ題字ヲ宣仁親王ニ請ヒ奉リ文ヲ余ニ囑ス仍リテ其由来ヲ記スコト是ノ如シ
昭和六年九月
海軍中将子爵小笠原長生撰并書
(奥尻島青苗岬「徳洋記念碑」より引用)
えーと、まずは主役である「威仁親王」ですが、これは「有栖川宮威仁親王」のことでした。有栖川宮威仁親王は 1862 年 2 月生まれで、18 歳の時に乗船が青苗岬で座礁するというアクシデントに見舞われます。ただ最終的には無事離礁を果たしたとのことで、これを記念して巨大な石碑を建設したとのこと。

ちなみに「洋々美徳」の題字は「宣仁親王」の筆に拠るもの……とあります。「宣仁親王」は昭和天皇の弟宮だった「高松宮宣仁親王」のことだと思われます。

有栖川宮と高松宮

有栖川宮と高松宮の関係ですが、1913 年に有栖川宮威仁親王が薨去したことにより有栖川宮の断絶が避けられない情勢になった際に、有栖川宮の祭祀を高松宮が受け継ぐことになったのだそうです。「祭祀を受け継ぐ」というのは謎な表現ですが、当時は皇族の養子縁組が禁止されていたとのことで、平たく言えば事実上の養子縁組に近いものだったのだと思います(有栖川宮の財産も引き継いだとのことですので)。

有栖川宮威仁親王の薨去が 1913 年で、「徳洋記念碑」の完成が 1931 年と微妙にタイムラグがあるのは、ちょうど十五年戦争に突入した世相とも関連があるのでしょうね。「皇族の海軍大将ゆかりの地」として箔をつけよう……という計算もあったのだろうなぁと思わせます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事