2016年8月31日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (42) 「けんもん!」

道道 39 号「奥尻島線」を南に向かっています。恩顧歌から松江に向かう途中で、ついにセンターラインが無くなってしまいました。昨日の記事にも記しましたが、このあたりの区間を置き換えるバイパスの建設が進みつつあるようで、現道の改良は最低限に留めているようです。
センターラインが無くなってしまったので、大型車のすれ違いはちょっと難しくなりました。ということで、待避所も設けられています。
そう言えば、「この先工事中」で「幅員減少」という話がありましたが、確かに電気工事で幅員が減少していました。でも、工事区間の先も道幅が狭くなるところなので、あまり……というか、殆ど違いがないような気も。

噂の防波堤

ガードレールの向こう側に白い波頭が見えます。バイパスを建設する含みがあるからか、この辺りには防波堤は無いようです。
奥尻島の松江地区にやってきました。奥に見える山の、上の方に橋が架かっているのが見えます。こうやって見てみると結構な高さですよね……。そして、左側にコンクリで固められた土手のようなものが見えると思いますが、これが噂の防波堤です。
防波堤は、松江の集落を全てカバーする感じで建設されています。災害への備えという意味では重要な設備ですが、やや殺風景な感じもするような……。

検問!

松江の集落を過ぎて、奥尻町環境センターの前を通りかかろうとした時、なんと……検問に引っかかってしまいました。奥尻島は長閑で良いところだという先入観があったのですが、一体何があったと言うのでしょうか。
……実は、「秋の交通安全運動」の一環で、ポケットティッシュとガム(だったと思います)を配布していたのでした。なぁんだ、やっぱり長閑で良いところじゃないですか(笑)。

青苗

奥尻島を代表する二つの集落のうち、南側の「青苗」にやってきました。1993 年の「北海道南西沖地震」でもっとも大きな被害を被った集落としても知られていますね。
青苗には小学校と中学校があるほか、奥尻空港もあります。ですからガソリンスタンドがあっても別段驚くことはありません。

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2016年8月30日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (41) 「意外な娯楽施設が」

道道 39 号線「奥尻島線」を南下して、「うにまる公園」の麓にある「赤石岬」にやってきました。岬の南側が赤石の集落です。
左側が「赤石岬」なのですが、道路はザクっと掘割にしてショートカットしています。
赤石川の手前を右折して山手に向かうと、なんとパチンコ屋があるんですよね。赤石の集落は決して「島内最大」というレベルでは無いので、ちょっと驚きです。
コンビニは無いけどパチンコ屋はある、という島が某所にありましたが(奥尻には両方あります)、物流のことをあまり考えなくて良い分、コンビニよりも出店は容易なのかもしれません。

二車線道路と防波堤

赤石の集落を過ぎると、山が海岸までせり出しているような地形になります。斜面をコンクリートで固めているところもありますね。
快適な 2 車線道路が続くのですが、左はすぐ海で、防波堤と思しきコンクリが続きます。奥尻は 1993 年の「北海道南西沖地震」の津波で大きな被害を受けたので、防潮・防波には力が入っているんですよね。

恩顧歌

奥尻島松江にやってきた……と思ったのですが、地図で位置を確かめた所、「恩顧歌」の南の「小倉川」を渡る所でした。ここから松江の集落までは、まだ 5.6 km ほどの距離があります。
この先「走行注意!」らしいのですが……
なるほど、工事中なのですね。
ただ、工事以前にセンターラインが無くなってしまったのですが……。どうやらこの先は山手にバイパスを建設する計画があるらしく、現道の整備は必要最小限に留めているような感じでした。津波も怖いですが、つい最近も崖崩れで通行止めになったりしていたので、抜本的な改良を行うつもりのようですね。

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2016年8月29日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (40) 「奥尻のシンボル『鍋釣岩』」

奥尻島の道道 36 号線「奥尻島線」を南に向かいます。ほどなく前方に、有名なあの岩が見えてきました。
はい。奥尻島のシンボルとも言える「鍋釣岩」ですね。奥尻はそれなりに広い島なのですが、この鍋釣岩は港から数百メートルのところにあります。かなり近いんですよね。
ちょうど駐車スペースがあったので、車を停めて記念撮影を……ああっ!
最高のタイミングで自転車のお兄さんが写り込んでしまったので、気を取り直してもう一度。

谷地

鍋釣岩から更に南に向かうと、続いては「谷地」という名前の集落です。奥尻集落は塩釜川沿いでしたが、谷地は釣懸川沿いの集落ですね。少し山手のほうに「奥尻中学校」があります。

烏頭川

谷地集落から更に南に向かうと、今度は「烏頭川」です。なかなか読めないと思いますが、これで「ぶしかわ」と読ませるのだとか。

特製の案内標識!

烏頭川自体は集落の南側の赤石岬の近くを流れています。少しだけ坂を登って海沿いに出ると……
烏頭川を渡ります。奥尻中学校は谷地集落の奥のほうにありましたが、奥尻高校も結構な高台にあります。海沿いの学校は避難所になることを想定してか、高台にある場合が多いですよね。
そして、奥尻高校に向かう道の途中に「うにまる公園」があるのですが……この案内標識、よく見たら背景が「うにまる公園」のイルミネーションになってるんですよね。
「鍋釣岩」が奥尻のシンボルなら、「うにまる」は奥尻のシンボルキャラクターと言った感じでしょうか(単なる「ゆるキャラ」では済まないほどの存在感があります)。まぁ、このあたりの話も追々記すことにしましょう。

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2016年8月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (369) 「ニタンペツ川・セタナイ川・貫気別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ニタンペツ川

nitat-pet
ヤチ・川
(典拠あり、類型あり)
平取町東部を流れる貫気別(ぬきべつ)川の支流の名前です。「○○ベツ」という川名が多い北海道においても、「○○ペツ」というのは珍しいのでは無いでしょうか。ちなみにニタンペツ川を遡って峠を越えると、日高町のイタラッキ川の源流部に出ます。

現在の地形図を見てみると、ニタンペツ川が貫気別川に合流する手前で「ニタツナイ川」と合流しています。東西蝦夷山川地理取調図には「ニタツナイ」のみ記されていて「ニタンペツ」の名前がありませんが、明治期の地形図には「ニタッナイ」と「ニタッペッ」がそれぞれ現在の位置に出てきます。

戊午日誌「東部沙留誌」には次のように記されていました。

また向岸に
     ニタツベツ
右の方小川也。此沢樺木多く有るよりして号ると申也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.26 より引用)
んー。「樺の木」だと tat-ni なんですよね。nitat-pet であれば素直に「ヤチ・川」で良さそうな気がするのですが……。いずれにせよ、現在の「ニタペツ」という名前の「ン」は「ツ」あるいは「ッ」の誤記である可能性が高そうな感じです。

ちなみに「ニタツナイ」については永田地名解に記載がありました。

Nitat nai  ニタッ ナイ  吥坭(ヤチ)川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.234 より引用)
はい。やはりこの理解になってしまいますよね。

セタナイ川

seta-nay
犬・沢
(典拠あり、類型あり)
ニタツペツ川との合流点から下流側に位置する、貫気別川の支流の名前です。「セタナイ川」の上流側には「ペンケセタナイ川」もあります。東西蝦夷山川地理取調図には「ヒタナイ」と記された川がありますが……

ということで、今回は永田地名解を見てみましょう。

Seta nai  セタ ナイ  犬澤 昔大犬アリ洞穴中ニ子ヲ産ミシ處ナリト云松浦地圖「ヒタナイ」ニ誤ル
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.234 より引用)
永田さんも自信たっぷりに「誤ル」と記していますが、今回は全くその通りのようで、戊午日誌「東部沙留誌」にも次のように記されていました。

また少し上
     セタナイ
右の方小川有、上は平山。本名セタヲワイナイのよし。昔し土人の犬此処に来り穴を掘、其処にて子を持ちしによって号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.25-26 より引用)
まぁ、「セ」と「ヒ」はびみょうに似てますからね。とりあえずは seta-nay で「犬・沢」と考えて良さそうです。

戊午日誌には「本名セタヲワイナイのよし」とあるのですが、「ヲワイ」がどのような意味であるかが掴みきれなかったのがちょっと残念な感じです。

貫気別(ぬきべつ)

nupki-pet
濁り水・川
(典拠あり、類型あり)
平取町東部の地名で、貫気別川が額平川と合流する近くに集落があります(但しどちらかと言えば額平川寄りです)。かつての「貫気別村」です。

この連載?を始めた頃にささっと取り上げたことがありますが、随分と時間も過ぎていますので、改めて取り上げておきます。

まずは永田地名解を見てみましょう。

Nupki pet  ヌㇷ゚キペッ  濁川 貫氣村
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.234 より引用)
「貫気村」という表現は他で見かけたことが無いのですが、これは単に「別」の字が欠落しているだけなんでしょうね。nupki-pet で「濁り水・川」と考えて良さそうです。

ちなみに、戊午日誌「東部沙留誌」には次のように記されていました。

右の方を
      ヌツケベツ
 と云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.25 より引用)
また、野作東部日記にも「野付別」とあるようで、nupki とは少し違う形で記録されています。もしかしたら not-kew-pet で「あご・骨・川」だったりしたら……面白いですね(現時点では言葉遊びの域に過ぎませんが)。

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2016年8月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (368) 「チベシナイ川・クッタリ川・ハトナイ川・ラムシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

チベシナイ川

chi-pes-nay
我ら・それに沿って下る・沢
(典拠あり、類型あり)
日高門別川の上流部で北から合流してくる支流の名前です。明治期の地形図には「チペシナイ」とありますが、東西蝦夷山川地理取調図には記載がないようです。

ただ、東蝦夷日誌と戊午日誌「東部茂無辺都誌」には記載がありました。東蝦夷日誌には「チベシナイ(左川)」とあり、戊午日誌には次のようにありました。

またしばし過て
     チベシナイ
左りの方相応の川也。此辺屈曲甚し。チヘシとは諸方えの越場と云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.622 より引用)
おそらく chi-pes-nay で「我ら・それに沿って下る・沢」なのでしょうね。チベシナイ川を遡って峠を越えるとアベツ川の源流部で、更にアベツ川を 600 m ほど遡って峠を越えると北に向かって荷負川が流れています。これは日高町広富(旧・仁立内)から平取町貫気別に向かう最短ルートなんですよね。

そんなわけで、「我ら・それに沿って下る・沢」というネーミングがついてもそれほど不思議ではないかな、というお話でした。

クッタリ川

kuttar
イタドリ
(典拠あり、類型あり)
もう 8 月も終わろうとしているのに、こうも暑い日が続くと身体に堪えますよね……。

さて、チベシナイ川との合流点から更に日高門別川を遡ると、2 km 強で同じく北からクッタリ川が合流しています。では、今回は「東蝦夷日誌」から。

クツタラ(左川)名義、虎杖(いたどり)・益母草(ははぐりそう)・鍬形草(くわがたそう)の類多き故也(人家六軒)。爰(ここ)をニナツミ村と言り。此村サルブツ〔佐瑠太〕のニナツミより獵の便利故、移り来りし故に如此號と也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.131 より引用)
「ニナツミ」というのは謎の多い地名で、現在の「平取町荷菜」のことなのですが、元々はもっと上流部の平取町荷負のあたりの地名だったと考えられているようです。松浦武四郎が蝦夷地探検をした頃には、一旦日高門別川沿いの「クッタリ川」筋に地名ごと移転していたようなのですが、その後現在の平取町荷菜に再移転した、ということのようです。

ただ、東蝦夷日誌に「サルブツ〔佐瑠太〕のニナツミ」とあるのが少し引っかかるんですよね。現在の荷菜は割と海に近いので「サルブツ」(沙流川の河口)と表現されても不思議はないのですが、平取町荷負は二風谷ダムの畔に位置していて、ちょっと「サルブツ」と呼ぶには相応しくないような感じもします。

閑話休題(それはさておき)。クッタリ川の名の由来ですが、東蝦夷日誌にあるように kuttar で「イタドリ」と考えるのが自然かと思います。おそらくは kuttar-us-i あたりで、後ろの -us-i が略されたのでしょうね。「クッタルシ」という地名は道内のあちこちにありますね。

ハトナイ川

at(-us)-nay??
オヒョウニレ(・多くある)・沢
(?? = 典拠なし、類型あり)
クッタリ川との合流点から日高門別川を更に 1.2 km ほど遡ったところに「鳩内橋」という橋がかかっていて、そこでハトナイ川が合流しています。

東西蝦夷山川地理取調図には「アトナイ」とあります。また、戊午日誌「東部安都辺都誌」には次のようにありました。

扨クツタラフトなる二股より右の方なる
     本川すじ
を上る時は、此方余は上らざれども聞まゝを志るし置に、十七八丁も赤楊・柳原を上り行て左りの方に
     アトナイ
相応の川也。其名義は天気つゞきの時にても、此沢目洪水跡の如く土柔にしてぬかると云事のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.627 より引用)
「アトナイ」を素直に読み解くと at(-us)-nay で「オヒョウニレ(・多くある)・沢」となるのですが、これだと「洪水跡の如く土柔にしてぬかる」という説との整合性がイマイチな感じがします。

……もしかしたら、atu-nay で「嘔吐する・川」とでも考えたのでしょうか。

ラムシナイ川

rap-us-nay?
降りる・いつもする・沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
ラムシュタイン」と言えば、なんと言っても「混ぜて飲んでぇ」ですが、それはさておき……。

コホン。ラムシナイ川です。ハトナイ川から直線距離で 900 m ほど遡った所で日高門別川と合流する支流の名前です。

東西蝦夷山川地理取調図には「ラムツシ子」とありますが、戊午日誌「東部安都辺都誌」では「ラムフシ子」となっています。

扨また本川まゝ上り行候や、山いよく狭まるをしばし過て
     ラムフシ子
左りの方相応の川也。其名義はむかし鵰と鷹と此川すじに握み合て互に羽を抜りし候よしにて号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.627 より引用)
なるほど、rap-us-nay を「羽・ある・沢」と解したわけですね(笑)。荒唐無稽な解のようにも思えますが、実にいいヒントになりました。rap-us-nay で「人々が降りる・いつもする・沢」だったのでは無いでしょうか。

rap には「羽」や「翼」という意味の他に、完動詞としての「おおぜい降りる」という意味もあります。そこを混同した……というか、意図的に言葉遊びしてしまったという感じでしょうか。

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2016年8月26日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (39) 「奥尻に上陸!」

瀬棚からハートランドフェリー「アヴローラおくしり」に乗って、奥尻島にやってきました。ついに車両甲板から奥尻島に降り立ちます!(ただし車で)
ピントがボケちゃってますが、ENEOS のガソリンスタンドが見えます。港にガソリンスタンドがあるのは離島での決まり事のようなものですよね。

カントリーサイン

道道 39 号線「奥尻島線」との交叉点にやってきました。
奥尻島は全域が「奥尻町」に含まれます。従って陸地には町境が存在しないのですが、ちゃんとカントリーサインが用意されています(確か礼文島もそうでしたよね)。
「← 想い出」も気になるところですが、石油タンクを横目に奥尻の中心地に向かいます。

奥尻町の中心地、奥尻

信号に引っかかってしまいました。島によっては信号機が一つしか無いようなところもありますが、奥尻はふつーに信号もあるようですね。奥尻の大きさがピンと来ない方も多いかと思いますが、利尻より小さく、礼文よりは大きいと言ったところです。

謎の道道 1039 号線

「道道 1039 奥尻島線」と書かれていますが……あれれ?
道道 1039 号は「霧多布岬線」という情報もあるのですが、これは何かの間違い……でしょうか?

結構いろいろある……

奥尻港には ENEOS のガソリンスタンドがありましたが、奥尻集落の南側には出光もあるようです。奥尻島、結構いろいろあるな……という印象ですね。

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2016年8月25日木曜日

ハートランドフェリー「アヴローラおくしり」乗船記(奥尻港下船編)

瀬棚港を出港して 1 時間近く経った午後 3 時頃、右手前方に奥尻島が見えてきました。
こうやって見てみると、結構大きな島ですね。

車両甲板へ

そして更に 30 分ほどが経過したところで、車両甲板が開放されたとのアナウンスがありました。
ということなので、車両甲板に戻ることにしましょう。

大型バスやトラックの姿も

甲板に戻ると、なんと真ん中にあったオープンスペースに、瀬棚 FT で見かけた大型バスの姿が! バスの航送は結構お高くつく筈なのですが、なかなか豪勢ですね。
そしてその後ろには奥尻のトラックが。電話番号のところに書いてある「青苗」と「奥尻」は、奥尻島の二大集落ですね。

奥尻上陸、準備完了!

目の前に停まっていたハイエースは多摩ナンバーのものでした。観光で来られているのでしょうか?
「アヴローラおくしり」61 便の奥尻着は 15:40 でした。エンジンを始動して、奥尻上陸に備えます。
15:47 頃、ついに前方が開けてきました。さぁ、奥尻上陸です!
旅の続きは、「秋の道南・奥尻の旅 2013」でお楽しみ下さい。

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2016年8月24日水曜日

ハートランドフェリー「アヴローラおくしり」乗船記(船内ウロウロ編)

船の真ん中は廊下のような通路になっています。そのため、実は「1 等和室」も左右二部屋にわかれています。

案内所兼売店

さて、1 等和室と 1 等和室の間の通路を前に歩いてゆくとエントランスホールがあって、そこには案内所兼売店があるのですが……
居眠りしている間に営業を終了してしまっていました(汗)。案内所が無人なのはちょっと心配だなぁ……と思ったりもするのですが、
なかなかハイテクなものがある……のでしょうか。スイッチが見えないのですが、どこにあるのでしょう……?

A-DECK への階段

案内所の右側には、最上階「A-DECK」に向かう階段があります。ただ、階段も既に閉鎖済みのようですね。
というのも、最上階には「1 等ラウンジ」のチケットを持っていないと立ち入ることができないのですね。間違えて上がってくるのを防ぐために、ある程度の時間が経った時点で階段そのものを閉鎖してしまう運用のようです。
そして、実は最上階「A-DECK」には、「1 等ラウンジ」以外に「特別室」があったりします。「アヴローラおくしり」のような中型のフェリーでも、意外と「貴賓室」に近い設備が用意されていたりするんですよね。ちなみにこの「特別室」はルームチャージオンリーのようで、一室貸し切り料金は二万円とのこと。一度は(ネタとして)乗ってみたいものですね。

オープンデッキで船尾へ

「DECK-A」に上がることができなかったので、「DECK-B」をウロウロすることにしましょう。2 等船室には既に多くのお客さんがいらっしゃるでしょうからスルーして、エントランスの右舷側出口から外に出てみます。これはエントランスを出て、振り返ったところですね。
エントランスを出たところには、車両甲板に向かう下り階段と、外のオープンデッキに向かうドアがありました。ドアを開けてオープンデッキに向かいましょう。
改めて考えてみると、なんで船の外側はこういったオープンデッキになってるんでしょうね。まさか出港時に紙テープを投げるためにある……とかだったりして。
もちろん非常時の退船口としての役割もあるのでしょうけど。
船尾部にやってきました。ベンチが並んでいますが、ここは全席後ろ向きのようですね。お盆の前後あたりはこのスペースも満席になるのでしょうか。
船尾部のオープンスペースからも最上階のデッキに上がることができます。ただ、これは船員さん専用なのかも知れませんね。

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