2016年8月11日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (58) 藤原 (1878/6/24~25)

引き続き、1878/6/24 付けの「第十一信」(本来は「第十四信」となる)を見ていきます。

私の召使い

今回は、久々の伊藤少年(伊藤鶴吉)特集です(笑)。伊藤少年はイザベラの通訳兼雑用係として旅に同行していますが、推薦状を持参せずにイザベラの前に現れ、それを咎められたところ「火事で焼けてしまった」と弁解するなど、いかにも胡散臭さが全開の人物でした。

しかしながら、伊藤少年はイザベラの英語を理解し、イザベラも伊藤少年の英語が理解できたことから、人選を急いでいたイザベラは伊藤少年を雇うことに決めたのでした。最初の出会いからして不承不承だったとも言えるのです(詳細は https://www.bojan.net/2012/03/31.html をどうぞ)。

伊藤少年が面接の際にイザベラに語ったところによると、「東のコースを通って北部日本を旅行し、北海道(エゾ)では植物採集家のマリーズ氏のお伴をした」のだそうですが、確かにこの「経歴」を伺わせるようなことを口にしています。

「ちっとも眠れませんでした。何千何万という蚤がいるものですから!」と泣き言をならべた。彼は別のコースで内陸を通り津軽海峡へ行ったことがあるが、こんなところが日本にあるとは思わなかった、と言い、この村のことや女の人たちの服装のことを横浜の人たちに話しても信じてはくれぬだろう、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.147 より引用)
もっとも、底意地の悪い見方をすれば、彼にとってはこれくらいの話の辻褄を合わせることは朝飯前だった可能性もゼロではありません。というのも、イザベラは伊藤少年のことを次のように評していたからです。

彼は利口で、旅行中はよく気がつき、異常な知能をもっているので、毎日私を驚かせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.147 より引用)
「利口」「よく気がつく」というのは理解できるのですが、「異常な知能 (singular intelligence) をもっている」という評は注意を引きます。ただ、彼のその後の活躍を考えると、素直に最大級の賛辞として受け取るべきなのかもしれません。

努力家としての一面

さて、そんな伊藤少年ですが、単なる才長けた少年だったわけではなく、大変な努力家でもあったようです。

彼は「ふつうの」英語とはちがって「りっぱな」英語を話したがっており、新語を覚えようとしているが、正しい発音と綴りも身につけることを切望している。毎日彼は、私が用いるが彼にはよく分からない単語を全部ノートに書きつけて、晩になると私のところにもってきて、その意味と綴りを習い、日本語訳をつける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.147 より引用)
こういった努力は「プロとして当然」という考え方もできますが、どちらかと言えば本人の向上心から出たものなんじゃないかな、と思えてきます。不断の努力を惜しまない伊藤少年の英語力はみるみるうちに上昇し、イザベラによって次のように評されていました。

彼はすでに多くの本職の通訳よりもずっとうまく英語を話す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.147-148 より引用)
イザベラは伊藤少年のことを手放しで賞賛した上で、チクっと一刺しを挟むことも忘れません。

しかし彼がアメリカ人の使用する俗語や不遠慮な癖を真似しなかったら、もっと好感がもてるのだが。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
さすがですね(笑)。伊藤少年が自称した経歴によると、以前は「米国公使館にいたことがある」とのことなので、やはりこれまでの経歴には大きな偽りは無かったと考えられそうです。

りっぱな通訳をもつことは、私にとってとても大切なことだ。そうでなければ、こんなに若くて未経験の召使いを雇わなかったであろう。しかし彼は器用な男で、今では料理もできるし洗濯もやるし、通訳や旅行の従者の役目はもちろん、お伴として雑用を何でもやってくれる。年配の人よりも、年若い彼の方がずっと私には気楽に思われる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
この一節によると、伊藤少年は英語はできたものの、「雑用係」としての適性は未知数だったことが伺えます。しかしながら、実際にはどのような雑用もそつなくこなす才能の持ち主でした。不承不承雇ったはずの伊藤少年は、いつの間にかイザベラにとっては欠くことのできない重要人物になっていたのでした。

抜け目のなさ

ここまでの評を見る限りでは、伊藤少年は「通訳兼雑用係」としてこれ以上ないような理想的な人物であったように思われます。確かにその通りだったのですが、一方で次のような抜け目のなさも持ちあわせていました。

私は彼をうまく使いこなそうと努力している。なぜなら、彼は特に「上前をはねる」点で私をうまくごまかそうとしているのが分かったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
このあたりはイザベラ姐さんも流石だなぁと思わせますね。通訳の不行跡を咎めるのではなく、ある程度は黙認して彼が仕事をやりやすいようにしていたようです。

伊藤少年の外国人評

若くして外国人相手の「ビジネス」を展開していた伊藤少年は、「脱亜入欧」的な思想の持ち主かと思いきや、意外なことになかなか鼻っ柱が強い愛国心の持ち主だったようです。

彼はきわめて日本人的であり、彼の愛国心は人間のもつ虚栄心のあらゆる短所と長所をもっている。彼は外国のものはなんでも日本のものより劣ると思っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
「人間のもつ虚栄心のあらゆる短所と長所をもっている」とは、これまたイザベラ姐さんも負けていませんね(笑)。この伊藤少年の「外国批判」は、より正確には「外国人批判」から派生したものなのかもしれません。

私たちの行儀作法、眼、食べ方は、彼にとってはとても我慢できぬしろものらしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
そう言えば、眉毛と眼球の間が狭いと悪人に見える、なんて話もありましたね。西洋人を指して「赤鬼」と評する向きもあったと言いますが、体格が一回り以上大きく容貌も悪人のように見えてしまうことを考えると「さもありなん」という感じです。

ただ、伊藤少年の「外国人批判」は、容貌よりも行儀作法から来るものが大きかったようです。

彼は英国人の不作法については喜んで話をひろめる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
彼の「外国人批判」は、具体的には次のようなものだったようです。

彼らは茶屋の女たちをびっくりさせ、車夫を蹴ったり、殴ったりする。泥だらけの靴をはいて真っ白な畳の上にあがる。みな育ちの悪いサチルス(酒と女が大好きという半人半獣の森の神)のような振舞いをする。その結果は、素朴な田舎の人々にむき出しの憎悪心をかきたてることになり、英国人や英国が日本人から軽蔑され嘲笑されることになるだけだ、と彼は話したてるのである(*)。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148 より引用)
これを見ると、「外国人観光客の不作法」という問題が、いかに普遍的なものであるかが分かるような気がします。観光客を受け入れる側がこのような感情を持つかどうかについては、多かれ少なかれどこでもあるんじゃないかなぁ……と思ったりもするのですが、いかがでしょう。

一方で、イザベラは伊藤少年の見解を紹介するにあたって、次のような原注を加筆していました。「ひどいのは短期滞在の連中だよ」というイザベラなりのフォローでしょうか。

* 原注──このことは、横浜などの条約港から出かけてくる最低の遊山客にのみ当てはまる言葉である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.149 より引用)
イザベラも、一部の外国人観光客の不作法に憤懣やる方ない伊藤少年の薫陶を受けてか、色々と学んだところがあったようです。

彼は、私がりっぱな振舞いをするように非常に心を配っている。私も同じように、どこへ行っても日本式に礼儀正しくしようと努めており、日本人の作法を破らぬように注意しているから、こうした方がよいとか、そうしない方がよいという彼の意見には、大体従うことにしている。私のお辞儀も、日ごとに頭を深く下げるようになった!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.148-149 より引用)

そんなこんなで

そんなこんなで、久々の伊藤少年特集でしたが、イザベラは次のようにまとめていました。

私がすっかり伊藤を頼りにしていることは、推察できることと思う。旅行の準備のみならず、人に質問をしたり、情報を得たり、お粗末ではあるが私の旅の道連れの役目もする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.149 より引用)
油断ならない一面もあるけれど、概して優秀で今では欠くことのできない人材、といったところでしょうか。

私たちが困難で危険な旅行に一緒に出かけたことが、やがてお互いに思いやりをもち親切にさせるだろうと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.149 より引用)
これはこれは……。今後の展開も刮目に値するようです。

最後にちょいと面白い話がありました。

彼は、名目上は神道の信者であるが、実は何でもないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.149 より引用)
そうですね。大日本帝国憲法下では「国家神道」が国教に類するものとして存在していましたが、一方で「神道は宗教ではない」という見解もありました。実際には「宗教」と「道徳規範」の間のふわふわした領域をカバーするものだったと考えられそうなのですが、その「ふわふわした感じ」が、キリスト教徒であるイザベラにはこのように見えた、ということなのでしょうか。

イザベラが伊藤少年にキリスト教への改宗を勧めたかどうかは(これを見た限りでは)定かではないですが、福音書を読み聞かせた後の反応は必ずしも芳しいものでは無かったようです。

日光で私は「ルカ伝福音書」のはじめの方の何章かを、彼に読んできかせたことがある。私が放蕩息子(第十五章)の話のところに来ると、彼はいくぶんか軽蔑的な笑い声を立てて、「ああ、その話なら私たちの仏教の話の繰り返しですよ」と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.149 より引用)
確かに、伊藤少年は clever な人物だったようですね。

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