2016年7月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (361) 「元神部・ブケマ・美宇」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

元神部(もとかんべ)

mo-tukan-pes-pet??
静かな・撃つ・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
厚別川の中流部に注ぐ東支流の名前です。もともとは地名でもあったのですが、地名のほうが現在は「東川」に変わってしまったみたいですね。

では、まずは永田地名解を見てみましょう。

Moto kanbe  モト カムベ  元神部村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.250 より引用)
うん、確かにそうなんでしょうけど……。なんか良くわからないので、続いて戊午日誌「東部安都辺都誌」を見ておきましょうか。

また少し上りて
     モトカンヒベツ
右の方相応の大川也。樹立原の中也。其名義は此川口人家の建て始めは、此処より始まりしと云よりして此名有りとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.98 より引用)
「其名義は──」とありますが、実はこのあたりで最初に家を建てたところだよ、という歴史的経緯が触れられているだけ……のような感じもしてしまいます。

この「元神部」、東西蝦夷山川地理取調図には「モトカンヒ」とあります。また江戸期の資料には「モンカンヒ」という記録もあるようです。地形を見てみると「右の方相応の大川」で、途中で谷が二手に分かれているのが特徴でしょうか。

記録されている音と地形から解をでっち上げて……いや、考えてみると、mo-tuk-an-pe あたりがアリかな、と思えてきました。これだと「小さな・小山・ある・もの」となりそうです。

あるいは mo-tu-k(a)-an-pe で「小さな・峰・上・ある・もの」あたりでしょうか。川の北側の峰(走り根)から伸びる土地のことを指した……と考えるならば、なんとなく意味が通りそうな感じもするのですが、いかがでしょう……?

2021/5 追記
mo-tukan-pet で「静かな・撃つ・川」と解釈できる可能性があることに気づきました。もっとも「モトカンヒベツ」だとすれば「ヒ」の出どころが不明になるのですが、pes(「断崖」)あたりが転訛した可能性も……もしかしたらあるかもしれません。となると mo-tukan-pes-pet で「静かな・撃つ・断崖・川」となりそうですね。更に想像するならば、mo(-u)-tukan-pes(-un)-pet あたりが略された可能性もあるかも……?

ブケマ

hure-kema?
赤い・脚
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
東川の集落から 2 km ほど北に進んだところに「ブケマ橋」という橋があるのですが、どうやらこのあたりがかつて「ブケマ」という地名だったみたいです。

戊午日誌「東部安都辺都誌」に記載がありました。

また少し行て
     フウレケマ
本の名はフウケマと云しよし也。フウケマとは庫の足の事也。此処にて昔し庫の足をとりしよりして号しもの也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.102 より引用)
どうやら pu-kema で「庫・足」と考えたようですね。確かにそういう解釈も成り立ちますが、果たして地名として特記するようなものかと言われると、ちょっとどうかなぁという感じもします。

ということで、他に解釈できないか考えてみたのですが、なかなかしっくり来るものが無く……。purke-oma で「清水が湧き出る・そこにある」なんて解釈は……できないでしょうか?

2021/5 追記
「フウレケマ」という記録がありましたが、kema-hure で「脚・赤い」を見かけました(増毛町)。語順が逆なのが少し気になりますが、「フウレケマ」が hure-kema で「赤い・脚」だった可能性があるかと考えています。

茶良瀬橋(ちゃらせ──)

久々の「おまけ」シリーズです(シリーズだったのか)。ブケマ橋から 4~5 km ほど川を遡ると「茶良瀬橋」という橋があります。charse は「水がちゃらちゃら滑り落ちる」と言った意味で、岩を舐めるように流れる緩やかな滝、とも言えるでしょうか。

戊午日誌「東部安都辺都誌」には次のように記されています。

また
     バンケチヤラセ
     ヘンケチヤラセ
此辺両岸とも高山に成りたり。よって其山の間の川滝に成て落るが故に此名有。チヤラセは滝川の如き川を云なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.105 より引用)
ちょうど茶良瀬橋から下流のほうを眺めると、似たような川が二つ並んでいるのが見える……と思います(実際に確かめたわけでは無いのですが)。きっと左(上流側)が penke-charse で右(下流側)が panke-charse なんでしょうね。

美宇(びう)

pi-o?
小石・多くある
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
茶良瀬橋から更に 1.2 km ほど遡ったところに、比宇川にかかる「比宇橋」という橋があります。川の名前は「比宇川」ですが集落の名前は「美宇」です。この違いはどうしたものか……と思わないでも無いのですが、要は何でもアリということなんでしょうかね(汗)。

戊午日誌「東部安都辺都誌」には次のように記されていました。

本川左りの方、右は
     ヒ ウ
川すじ。此幅も弐十間も有、其水有る処は凡七八間、小石川にして急流なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.106 より引用)
続いて永田地名解も見ておきましょうか。

Piuka  ピウカ  川ノ舊跡 比宇村
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.250 より引用)
おや。piwka で「川の旧跡」としていますね。piwka は「小石の多い河原」と言った意味で、「美深」の由来としても知られていますね。ただ、知里さんの「──小辞典」には二つ目の解釈として、次のようにも記されていました。

② 【ナヨロ】川岸からちょっと引っこんでいる水溜りで水が流れるとも流れぬともつかぬ所。(=mem)
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.96-97 より引用)
おそらく永田方正はこちらの解釈が妥当である、と考えたのでしょうね。ただ、実際の地形に即して考えると、素直に「小石の多い河原」と考えたほうが良かったような気がします。

知里さんの語源解では、piwkapi-o-ka で「石・群在する・表面」ではないかとのこと。そう考えると「美宇」は pi-o で「小石・多くある」と考えてもいいのかもしれません。

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2016年7月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (360) 「節婦・大狩部・受乞」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

節婦(せっぷ)

pon-sep-pet
小・広くある・川
(典拠あり、類型あり)
JR 日高本線の新冠駅から苫小牧方面に向かうと、次の駅が「節婦駅」です。ということで、駅名ならおまかせ「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  節 婦(せっぷ)
所在地 (日高国)新冠郡新冠町
開 駅 大正15年12月10日(日高拓殖鉄道)
起 源 アイヌ語の「ポロ・セㇷ゚・ペッ」(親である広い川)がなまって、「節婦」となったもの。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.91 より引用)
あー……そうですよねぇ。ただ、念のため東西蝦夷山川地理取調図を確かめた所、「セツフ」という川(だと思う)はあるのですが、「ポロ・セㇷ゚・ペッ」が見当たらないのです。

明治期の地形図を見ると「ポンセプ川」と「ポロセプ川」が並んで流れていることが確認できます。これらは現在の「節婦川」と「大節婦川」のことだと考えられるのですが、節婦駅があるのは「節婦川」、即ち「ポンセプ川」の近くです。まぁ、どっちにせよ sep なのは違いないんですけどね……。

ということで、「節婦」は sep、もう少し細かく書くと pon-sep-pet で「小・広くある・川」であると考えて良さそうです。

大狩部(おおかりべ)

o-punkar-us-pet
河口・サルナシの蔓・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
JR 日高本線の節婦駅から苫小牧方面に向かうと、次の駅が「大狩部駅」です。ということで(以下同文

  大狩部(おおかりべ)
所在地 (日高国)新冠郡新冠町
開 駅 昭和33年7月15日 (客)
起 源「大狩部」部落にあるところから名づけられたが、これはアイヌ語の「オ・カル・ぺ」(川尻の曲がっている川) から出たものと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.91 より引用)
ほう。ちなみに大狩部駅のすぐ近くを流れる川が、前述の「大節婦川」なのですが、「オ・カル・ペ」とはこれいかに……。

東西蝦夷山川地理取調図を見ても、それっぽい川が無いので変だなぁと思っていたのですが、どうやら厚別川の支流の「ヲフンカルシ」が「大狩部」の元になっていた可能性が出てきました。戊午日誌「東部安都辺都誌」には、次のようにあります。

また少し上りて
     ヲフンカルシベ
右の方小川。其名義は葡萄・猿猴桃等多く有るよりして号しと。本名はヲフンカルウシヘツと云よし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.90 より引用)※「猿猴桃」の「猿」は、獣偏に爾

ということで、どうやら元々は o-punkar-us-pet で「河口・サルナシの蔓・多くある・川」だったみたいです。

ちなみに、永田地名解には少々違った解が記されていました。

O bungau un pe  オ ブンガウ ウン ペ  吥坭樺(ヤチカバ)アル處 大狩部村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.250 より引用)
punkaw は、知里さんの「植物編」によると「ハシドイ」を指すのだそうです。「吥坭樺」は「ヤチカンバ」のことのようにも思えますが、「ヤチカンバは、1958 年に北海道の更別村で発見され」とする Web サイトもある(https://www.ffpri.affrc.go.jp/labs/raretree/7_BOindex.html)ので、「植物編」が編纂された時点では種として確立?されていなかったのかもしれませんね。

新冠川沿いに「泊津」という地名がありました。これは「コクワ」を意味しますが、「ハ」が hat で「山ぶどう」を指す、という解釈もありました。厚別川沿いにも「葉朽」で「ハクツ」と読ませる地名がかつて存在していたこともあり、この辺りは植生に関する地名が多い印象を受けます。

受乞(うけこい・うけごい)

ukur(-kina)-kar-p
タチギボウシ・採る・ところ
(典拠あり、類型あり)
現在は「新冠町共栄」という地名に変わってしまいましたが、川の名前として健在です。まずは「北海道地名誌」に興味深い情報がありましたので、見ておきましょうか。

 共栄(きょうえい) もとの受乞(うくるき)地帯。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.566 より引用)
うはっ、「受乞」で「うくるき」と読ませていたんですね! 改めて見てみると、東蝦夷日誌にも次のようにありました。

ウクルカワ〔ウクルカプ、受乞〕
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.157 より引用)
戊午日誌「東部安都辺都誌」にも記載がありました。

またしばし過て
     モウクルカワ(プ)
右の方小川有る也。其名義は昔し老人が此処に漁事に来りて、其魚の皮を干て置し処、鳥が来りて其を皆とりしによって、大に腹立たるとかや。其故事也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.95-96 より引用)
うーん……(絶句)。えーと、老人が漁にやってきて、獲った魚の皮を干しておいたところ、鳥に全部奪われてしまったのでブチ切れて「もう来るか!」という話なんでしょうか(最後は多分違う)。

なんだか良くわからない話になってきたので(自分のせいでは?)、気を取り直して永田地名解を見てみましょうか。

Ukuruki katp  ウクルキ カップ  澤潟(サジオモダカ)取ル處 土人其ノ白莖ヲ食フ○受乞村
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.250 より引用)
どうやら「オモダカ・採る・ところ」と解釈したようですが、知里さんの「植物編」には ukur-kina は「タチギボォシ」である、とあります(「植物編」によると、「オモダカ」は sumari-kina ではないかとのこと)。

今日のところは、一旦知里さんの解で書いておこうかと思います。ukur(-kina)-kar-p で「タチギボウシ・採る・ところ」と解釈できるかなぁと思います。

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2016年7月29日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (24) 「美利河ダムで小休止」

今金町美利河の国道沿いにある駐車場に車を停めて、少し周辺を散策してみることにしました。
このアングルだとふつーの駐車場に見えますが、実は……
目の前に「美利河ダム」があったりします。案内板を正面から見てみると……
こうなっていまして。ちなみに現在地はこの辺です。
美利河ダム管理支所のすぐ近くですね。

美利河ダム管理支所

実は、階段をちょちょいと登ると目の前に美利河ダム管理支所が見えます。
この管理支所には美利河ダムの PR 施設もあるのですが、実は 2008 年にも一度行ったことがあるので、今回はスルーすることにしました。ということで……
まわれ右、です。このアングルでも、駐車場の近くの花壇がとても色鮮やかなのが良くわかりますね。

色鮮やかな

駐車場の花壇に寄ってみました。
同じ「黄色」でも、実際は無数の色の集合体であることが良くわかりますね。
右の花壇と左の花壇で、多少色合いが違うようにも思えたのですが、種類が違ったりするのでしょうか。

美利河の集落へ

さて、このまま美利河を後にしてせたなに向かう……のではなく、もう少し周辺を散策しておこうかと思います。車に戻って、移転後の美利河の集落に向かうことにしました。

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2016年7月28日木曜日

秋の道南・奥尻の旅 (23) 「美利河峠」

道央道を国縫 IC で流出して、国道 230 号でせたなに向かいます。……プリウスも結構最低地上高が低いんですね(汗)。
国道 230 号に入りました。山の中の快適な一本道です。前方に道路情報表示板がありますが……
「秋の全国交通安全運動 実施中」に……
「子どもと高齢者の事故に注意!」ですか。要するに特筆すべき情報は無いということですね(汗)。

考えすぎでした

久々の(?)地名シリーズです。長万部町「茶屋川」という地名なのですが……
軽く調べたところ、茶屋川はアイヌ語由来ではなく和名だとのこと。cha には「柴」とか「切る」と言った意味もあるので、もしかしたら……と思ったのですが、残念ながら空振りだったようです。

美利河峠へ

国縫川沿いを遡ること 10 km ほどで、国道 230 号線は峠の上り坂に入りました。この坂を登り切ると「美利河峠」です。「美利河」は「ピリカ」と読むのですが、とても響きの良い地名ですね。
登坂車線が終わりました。「美利河峠」の頂上ですね。
そして、今金町美利河にやってきました。

ちょいと休憩

今金まで来れば、せたなまでは目と鼻……よりは遠いですが、もう目と顎ぐらいの距離です(その喩えはどうかと)。ちょうどいいところに駐車場もありますし、ちょっと散策してみることにしましょう。

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2016年7月27日水曜日

秋の道南・奥尻の旅 (22) 「国縫 IC」

片側一車線・対面交通の道央道で路肩に車が止まっていると少々ドキッとする(逃げ場がないので)のですが、対向車線にはもっとドキッとする光景がありました。
現代の車両と道路のスペックを考えると、現状の制限速度は適切ではない……として、一部区間で制限速度の引き上げが行われたのは、皆さんもよくご存知のことかと思います。道央道は片側一車線なので 70 km/h 制限だったのですが、現在はどうなっているのでしょうか。

さて、国縫まで梯団走行を覚悟していたのですが、長万部と国縫の間にも追い越し車線が絶賛設置済みでした。
それにしても、ずっと集団の先頭を走っていた(後続車よりもゆっくり走っていた)のに、追い越し車線になると急に速度を上げる車って何なんでしょうかね……。

秋の空 見上げてみれば うろこ雲

国縫 IC まであと 2 km 地点にやってきました。うろこ雲が見えるのが秋の空っぽいですよね。

追い越し車線が惜しまれつつ終了した後は、再び片側一車線に戻ります。これはセンターラインが無いのではなくて、上り車線と下り車線の間に巨大な分離帯がある形態ですね。
地価が比較的安いと思われる北海道ならではの構造ですよね。これだと氷結した路面で車線から逸脱した車が出たとしても、対向車線にはみ出して正面衝突する危険が少なくなりそうですし。素晴らしいと思います。

国縫 IC

国縫 IC で道央道から流出して、せたなに向かいます。
これは全国共通だと思いますが、遠目からも ETC ゲートが視認しやすいようになっていますね。これも素晴らしいアイデアですよね。
ETC ゲートを徐行で通過します。
ランプウェイを直進すればせたなに向かうことができます。国縫の集落のすぐ近くに IC があるのに、ランプウェイが町の反対側を向いているのが面白いですね(ニーズを考えると当然の構造だと思いますが)。
ランプウェイを直進します。左側に見えるのが旧・国道 230 号のようですね。
これは国道 230 号をランプウェイに転用したのではなくて、国道 230 号にほぼ並走する形で国縫 IC のランプウェイを建設して、ついでに国道 230 号自体も集落の北側を抜けるバイパスを建設した、ということなのでしょうね。旧 230 号は、地元の人用の「抜け道」として残したような感じでしょうか。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

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2016年7月26日火曜日

秋の道南・奥尻の旅 (21) 「アール・デコ調でスピード注意」

道央道で長万部町に入ったところで、追い越し車線は惜しまれつつ終了しました。
そして、前方左側に長万部町静狩の海岸が見えてきたのですが、道路脇にアール・デコ調の(たぶん違う)こんなアートな看板が!
「この先長い下り坂 スピード注意!」と書かれているのですが、確かに……
長い下り坂でした。標高約 140 m から約 20 m まで、120 m ほどを駆け下りることになるので、どうしても下り坂が連続してしまうわけですね。

擬態??

静狩 PA(標高約 40 m)が見えてきました。ただ、この PA の案内板、かなり見づらいように思えるのですが……。

見返りキタキツネ、再び

静狩 PA を通過すると、長万部 IC まであと 2 km の案内板が見えてきました。随分と天気が良くなってきましたよね。
そして 2 分弱で長万部 IC に到着しました。また先行車に追いついてきたようです。
黒松内新道でも見かけた「見返りキタキツネ」、道央道にもいたんですね(笑)。

先行車に注意、停車中の車にはもっと注意

先行車に完全に追いつきました。国縫まではあと 10 km ほどです。しばらく梯団走行ですね(笑)。
などと思っていたら路肩に停車中の車まで。辛うじて乗用車が停車できるだけの幅があるところで助かりました。覆面パトカーとかですかねー?

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2016年7月25日月曜日

秋の道南・奥尻の旅 (20) 「大外から一気に」

黒松内新道の「黒松内南 IC」の出口が見えてきました。奥には「黒松内 JCT」の料金所も見えますね。
そして、その料金所にやってきました。ETC レーンが 1 つ、一般レーンも 1 つのシンプルな構成です。

右か左か真ん中か

ETC レーンを徐行で通過すると、この先は道央道です。
左に向かうと「豊浦・室蘭方面」、右に向かうと「長万部・函館方面」なのですが……
「札幌はどっちなの!?」という、ある意味ごもっともなツッコミがあったのか、「札幌方面」がさりげなく追加されていました。札幌に向かうには左側を進めばいいんですよね。
今回は国縫に向かいます。国縫は長万部の先なので、右側ですね。

大外から一気に

道央道に無事流入したところ……おっと。競走馬輸送車に追いついてしまいました。片側 1 車線で 70 km/h 制限だったような気がするので(今は変わっているかもしれません)、制限速度を下回る車が走っているとこうなっちゃうんですよね。
国縫までは 26 km ほどあります。ここから 26 km、ずーっと競走馬の後ろなのかと思っていたのですが……
おっ。追い越し車線登場。どうやら大外から競走馬をまくることができそうです(笑)。
追い越し車線は黒松内町と長万部町の間にありました。ということで、ここから長万部町に入ります。

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2016年7月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (359) 「ヌカンライ沢川・ブイラル別川・ルイベツ岳」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヌカンライ沢川

nukar-{ine-p}??1
見える・{四つ}
nokan-nay??2
細かい・沢
(??1 = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??2 = 典拠なし、類型あり)
ホルカンノ沢が合流する地点から更に新冠川を遡ったところに「糸納峰山荘」という建物があり、その近くに「みやま大橋」という橋が架かっています。ヌカンライ沢川はみやま大橋の上流部で新冠川に合流する北支流の名前です。

「糸納峰山荘」は「イドンナップ」から来ているのでしょうね。かなり傑作な当て字だと思います。

さて、ヌカンライ沢川ですが、戊午日誌「東部毘保久誌」には次のようにありました。

またしばしを上りて
     ヌカンライ子
左りの方小川。其名義はしらず。源はヌカヒラの源と一枕に成るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.184 より引用)
うーん、今回も残念ながら「よー知らんけど」のようですね。ということで、こんな時こそ永田地名解の出番です!

Nukara inep  ヌカラ イネㇷ゚  何處モ見エル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.247 より引用)
……。ドコモショップが見える所でしょうか(違います)。確かに nukar は「見る」という意味で、ine-p は「四つ」という意味のようです。そうか、nukar-{ine-p} で「見える・{四つ}」となりますから、それが転じて「四方が見える」という意味なんですかね!

ヌカンライ沢川を源流まで遡って行くと「ヌカンライ岳」という山があります。新冠町と平取町の境から少し新冠寄りの位置にある山ですが、確かに眺望はかなり良さそうな所です。

もう少し一般的な解を考えてみると、noka-un-rawne-p で「形像・ある・深い・もの」とかでしょうか。nokan-rawne で「小石・深い」というのも考えてみたのですが、さすがにちょっと無理があるような気がしました。

2021/5 追記
もう少し素直に nokan-nay で「細かい・沢」と解釈できるかもしれません。

ブイラル別川

puyra-ruy-pet
激流・激しくある・川
(典拠あり、類型あり)
新冠川の「みやま大橋」から 500 m ほど上流部で合流している北支流の名前です。地理院地図には「ブイラル別川」と書かれているのですが、80 年代の地図にはなんと「布衣拉尓別川」と書かれていました。まるで中国東北部あたりの川名のような感じすらしますが……(汗)。

山の奥深くを流れている川の割には、「布衣拉尓別」のインパクトが大きいからか、割と情報は豊富だったりします。まずは戊午日誌「東部毘保久誌」から見てみましょうか。

またしばしを過て
     ウイラルイベ
左りの方小川。其名義もしれず。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.184 より引用)
はい。いつもの「よー知らんけど」のようです。ただ、今回はなんと続きがあります!

其源は何れに当り候哉。山嵯峨しく、其え堅雪の時たりとも誰も行もの無よりして、しるものなし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.184 より引用)
まるで鴨長明の「方丈記」を思わせるような、叙情豊かな名調子ですね……。

永田地名解にも記載がありました。

Puira rui pe  プイラ ルイ ペ  瀬大ナル處 松浦地圖「ウイラルイヘ」ニ誤ル
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.247 より引用)
瀬が大きい……どういう意味でしょうか。

ということで、久しぶりに山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

プイラルベツ川
 新冠川上流の北支流。新冠・沙流の境の高山幌尻岳から直下している川。永田地名解も,明治の測量図もプイラルイペッと記す。puira-rui-pet(激流・はげしい・川)の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.358 より引用)
はい。実は結構そのまんまの地名だったのでした。puyra-ruy-pet で「激流・激しくある・川」だったみたいです。あと、山田さんもさりげなく指摘しているのですが、古い記録には「ブイラルイベツ」とあるんですよね。現在の「ブイラル別」という表記は、残念ながら ruyy が落ちてしまっているようです。太川さんもさぞかし残念に思っていることと思います(関係ない)。

ルイベツ岳

ruy-pet
激しくある・川
(典拠あり、類型あり)
ブイラル別川と新冠川の間にそびえる標高 1540.8 m の山の名前です。またしても太川さん系の地名でしょうか(太川さん関係ない)。

山の名前になるとみんな冷たい……というか、いつも記録がグッと減るのですが、今回も「北海道地名誌」に次の記載を見つけたのみでした。

 ルイベツ岳 1,541.4 メートル 新冠川水源部と支流布衣拉爾別川(ぷいらるべつ川)の間の山で東側山中に奥新冠ダムがある。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.564 より引用)
む、「尓」は「爾」の略字だったんですね。

「ルイベツ」は川から出た名でアイヌ語ではげしい川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.564 より引用)
「川から出た名」と言う割には「ルイベツ」という川が見当たらないのですが、これはやはり「プイラルイベツ」の puyra を省略したもの、なんでしょうね。山の名前なのに ruy-pet で「激しくある・川」ということみたいです。ルイ・r(ry

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2016年7月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (358) 「シュウレルカシュペ沢・保留寒山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュウレルカシュペ沢

si-{usis-kina}-us-pet?
主たる・{エゾフユノハナワラビ}・多くある・川
si-usis(-kina)-kar-pet?
主たる・エゾフユノハナワラビ・採る・川
u-renka-us-pet??
互いを・沈める・いつもする・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
新冠川の上流部に「新冠ダム」があるのですが、そのダム湖に東から注いでいる支流の名前です。ちなみに西からもダム湖に注いでいる支流があって、その名前は「モウレルカシュペ沢」です。対になっていると考えて良さそうですね。

si は「主たる」という意味で、mo は「小さな」といった意味です。知里さん風に解釈すると、si が「親」で mo が「子」とも言えますね。いずれにせよ、「シュウレルカシュペ沢」と「モウレルカシュペ沢」は「親と子」のような関連がある、と言えるかと思います。

ということで「ウレルカシュペ」って何? という話になるのですが、どうにも意味がわからずに閉口していたのですが、北海道測量舎五万分一地形図 日高国を見ると、現在の「モウレルカシュペ沢」と思しきところに「シーウレンカウシユペ」とあることに気が付きました。また、「シュウレルカシュペ沢」のところには「モウシュカウシュペッ」とあるように読めます。

戊午日誌から

このヒントから、どうやら戊午日誌「東部毘保久誌」に記されているこの川が、現在の「シュウレルカシュペ沢」ではないかと考えました。

扨また峨々たる山の間をしばし過て、同じく位の川有。
     シイウシヽカシベ
と云相応の大川也。是本のウシヽキナの有る川也と云り。下なるモと云は、少し小さきよりして、一字を附しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.182 より引用)
なるほどっ、usis-kina は「エゾフユノハナワラビ」だそうですから、si-{usis-kina}-us-pet で「主たる・{エゾフユノハナワラビ}・多くある・川」だったと考えられそうですね。現在は下流部がダム湖に沈んでしまっているので往時の植生を知る由もありませんが……。

「シイウシシカシベ」が「シーウレンカウシユペ」になったのは、「シ」の字が「レ」または「ン」に誤読されたのが原因なんでしょうね。「シベ」が「シユペ」になったのは、永田方正さんの有名な癖「閉音節の『ㇱ』を『ㇱュ』と書く」が原因でしょうか。そして「シーウレンカウシユペ」が「シュウレルカシュペ」になり現在に至る、という話のようです。

東蝦夷日誌では

ちなみに、「東蝦夷日誌」には「シイウシヽカレベ(左)」と書かれていました。これだと si-usis-kar-pet のようにも聞こえますね。kina は「草」という一般名詞でもありますから、いつしか略されてしまい、実は元々は si-usis(-kina)-kar-pet で「主たる・エゾフユノハナワラビ・採る・川」だったという可能性も考えられそうです。

永田地名解では

これで決まりか……と思っていたのですが、永田地名解には全く違う解が出ていました。

Urenga ush pe  ウレンガ ウㇱュ ペ  向合(ムキアヒ)川 和親川トモ左右ノ支流相對シテ本川ニ注グ處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.247 より引用)
これは中々巧い解を考えたものですね。新冠ダムのダム湖の形を見てみると、西から注ぐ「モウレルカシュペ沢」と、東から注ぐ「シュウレルカシュペ沢」がほぼ同じ場所で合流しています。u-renka-us-pet で「互いを・沈める・いつもする・川」と解釈できそうにも思えます。

ただ、これは「シーウレンカウシユペ」が正である場合の解のようにも思えます。東西蝦夷山川地理取調図に「ンウシヽカンヘ」とあったものを、北海道測量舎五万分一地形図に「シーウシシカシユヘ」と転記して、それを永田方正が「シ」を「レ」あるいは「ン」と見間違えて地名解を著した……と考えれば筋が通りそうな気もしますが、これだと「ンヘ」(「シヘ」の誤記か)を「シユヘ」に改めたのが永田方正では無いことになってしまいます。

まぁ、「北海道測量舎五万分一地形図」の作成に永田方正が一枚噛んでいた、と考えれば筋は通るんですけどね。実際のところはどうだったのでしょうか。

右か左か

あと、サラッと重大な問題をスルーしてしまっていたのを思い出しました。少なくとも「北海道測量舎五万分一地形図」の時点では、西側の支流が「シーウレンカウシユペ」(シーウシシカウシュペ?)で東側の支流が「モウシュカウシュペッ」だったようなのですが、現在の地形図では西側の支流が「モウレルカシュペ沢」で東側の支流が「シュウレルカシュペ沢」です。いつ頃取り違えられたのかは良くわかりません。

保留寒山(ほるかん──)

{horka-an}-pet
{U ターンしている}・川
(典拠あり、類型あり)
昔、サッカー日本代表の監督をしていた「ファルカン」を思い出してしまいますが、もちろん何の関係もない筈です。むしろ関係があったら凄いですが。

新冠ダムのダム湖を北に遡ったところで「ホルカンノ沢」という支流が流れ込んでいます。ホルカンノ沢は上流部で 4 つほどの支流に分かれているのですが、そのうち一番手前の支流が西から東に流れていて、北から南に下りる「ホルカンノ沢」と合流しています。

……察しのいい方は既にお気づきかと思いますが、続けます(汗)。戊午日誌「東部毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばしを過
     ホロカンベツ
左りの方小川。其名義はホリカンベツにして、海老の如く屈て曲りしを云なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.183 より引用)
はい。おそらく {horka-an}-pet で「{U ターンしている}・川」なんでしょうね。一般的には本流の流れと逆の方角に流れる川のことを指すのですが、このあたりの新冠川が東から西に流れている(ダム湖のあたりで北から南に向きを変える)のに対して、源流部が西から東に流れていることから名付けられた、ということなのでしょうね。

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2016年7月22日金曜日

秋の道南・奥尻の旅 (19) 「黒松内新道」

交叉点を左折して、黒松内 IC から「黒松内新道」に入ります。最初に目にするのが「白井川橋」です。
そして、橋を渡ったところに「動物注意」の警告標識があるのですが……
何なんでしょう、この「見返り美人」っぽいポーズを決めたキタキツネさんは……。

いつかはランプウェイに?

黒松内 IC は、一応「IC」と銘打ってはいるものの、事実上は単なる交叉点です。黒松内新道自体も現在は事実上「黒松内 JCT のランプウェイ」のような存在ですが、将来的には余市方面に延伸する構想がある……のでしょうね。その時はこの左カーブが IC のランプウェイに化けるものと思われます。
路温が 22 ℃で気温は 18 ℃とのこと。9 月と言っても最終週ですから、随分と涼しくなってきました。

単なるランプウェイのような、そうでもないような

黒松内新道は事実上「黒松内 JCT のランプウェイ」と記しましたが、実は道央道に流入する以外に、JCT の料金所の手前にある「黒松内南 IC」で流出するという選択肢があります。実は単なるランプウェイでは無い所以ですね。
ただ、Wikipedia に記載されていた道路交通センサスの情報を見ると、「黒松内 JCT - 黒松内南 IC」の交通量と「黒松内南 IC - 黒松内 IC」の交通量が全く同数なんですよね。そして、黒松内南 IC はハーフインターチェンジのため、黒松内南 IC から黒松内 JCT に向かうことはできません。

つまりこれって、黒松内南 IC は誰も利用していないということになるのでは……(汗)

白井川、赤井川

黒松内 IC(という名の交叉点)から 2 km ほどのところに「赤井川橋」があります。
そして、今度も橋を渡ったところに「動物注意」の標識が。
ちなみにこの「白井川」と「赤井川」、どちらも川名だけでなく集落の名前としても実在します。音訳地名ではなく意訳地名なので読み書きしやすいですし、やはり紅白揃っているのがポイント高いということなのでしょうか。

もうすぐ終点です

黒松内南 IC まで、あと 1.5 km となりました。黒松内南 IC で流出したら通行料が取られることも無いのに、それでも誰も利用していない(ように見える)のは……。そのまま南に向かえば静狩峠の近くに出るのですが、静狩峠から東に行けば豊浦 IC で、西に行けば長万部 IC です。通行料を取られるとは言え、道央道経由のほうが距離も短そうなので、つまるところは「需要が無いから」というオチになりそうです。
「白井川橋」「赤井川橋」と来て、黒松内新道の 3 つめの橋が見えてきました。「青井川橋」あたりがあればトリコロールなのですが……
「学林川橋」でした。ちなみにこの「学林川」は、近くに大学の演習林があったことに由来する……という説を見かけたのですが、小学校営繕造材事業のために植林したことに由来する、という説もあるようですね。まぁ、だいたいそんなところです(大雑把すぎる)。

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