(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
元神部(もとかんべ)
(?? = 典拠なし、類型あり)
厚別川の中流部に注ぐ東支流の名前です。もともとは地名でもあったのですが、地名のほうが現在は「東川」に変わってしまったみたいですね。では、まずは永田地名解を見てみましょう。
Moto kanbe モト カムベ 元神部村うん、確かにそうなんでしょうけど……。なんか良くわからないので、続いて戊午日誌「東部安都辺都誌」を見ておきましょうか。
また少し上りて
モトカンヒベツ
右の方相応の大川也。樹立原の中也。其名義は此川口人家の建て始めは、此処より始まりしと云よりして此名有りとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.98 より引用)
「其名義は──」とありますが、実はこのあたりで最初に家を建てたところだよ、という歴史的経緯が触れられているだけ……のような感じもしてしまいます。この「元神部」、東西蝦夷山川地理取調図には「モトカンヒ」とあります。また江戸期の資料には「モンカンヒ」という記録もあるようです。地形を見てみると「右の方相応の大川」で、途中で谷が二手に分かれているのが特徴でしょうか。
2021/5 追記
mo-tukan-pet で「静かな・撃つ・川」と解釈できる可能性があることに気づきました。もっとも「モトカンヒベツ」だとすれば「ヒ」の出どころが不明になるのですが、pes(「断崖」)あたりが転訛した可能性も……もしかしたらあるかもしれません。となると mo-tukan-pes-pet で「静かな・撃つ・断崖・川」となりそうですね。更に想像するならば、mo(-u)-tukan-pes(-un)-pet あたりが略された可能性もあるかも……?
ブケマ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
東川の集落から 2 km ほど北に進んだところに「ブケマ橋」という橋があるのですが、どうやらこのあたりがかつて「ブケマ」という地名だったみたいです。戊午日誌「東部安都辺都誌」に記載がありました。
また少し行て
フウレケマ
本の名はフウケマと云しよし也。フウケマとは庫の足の事也。此処にて昔し庫の足をとりしよりして号しもの也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.102 より引用)
どうやら pu-kema で「庫・足」と考えたようですね。確かにそういう解釈も成り立ちますが、果たして地名として特記するようなものかと言われると、ちょっとどうかなぁという感じもします。2021/5 追記
「フウレケマ」という記録がありましたが、kema-hure で「脚・赤い」を見かけました(増毛町)。語順が逆なのが少し気になりますが、「フウレケマ」が hure-kema で「赤い・脚」だった可能性があるかと考えています。
茶良瀬橋(ちゃらせ──)
久々の「おまけ」シリーズです(シリーズだったのか)。ブケマ橋から 4~5 km ほど川を遡ると「茶良瀬橋」という橋があります。charse は「水がちゃらちゃら滑り落ちる」と言った意味で、岩を舐めるように流れる緩やかな滝、とも言えるでしょうか。戊午日誌「東部安都辺都誌」には次のように記されています。
また
バンケチヤラセ
ヘンケチヤラセ
此辺両岸とも高山に成りたり。よって其山の間の川滝に成て落るが故に此名有。チヤラセは滝川の如き川を云なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.105 より引用)
ちょうど茶良瀬橋から下流のほうを眺めると、似たような川が二つ並んでいるのが見える……と思います(実際に確かめたわけでは無いのですが)。きっと左(上流側)が penke-charse で右(下流側)が panke-charse なんでしょうね。美宇(びう)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
茶良瀬橋から更に 1.2 km ほど遡ったところに、比宇川にかかる「比宇橋」という橋があります。川の名前は「比宇川」ですが集落の名前は「美宇」です。この違いはどうしたものか……と思わないでも無いのですが、要は何でもアリということなんでしょうかね(汗)。戊午日誌「東部安都辺都誌」には次のように記されていました。
本川左りの方、右は
ヒ ウ
川すじ。此幅も弐十間も有、其水有る処は凡七八間、小石川にして急流なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.106 より引用)
続いて永田地名解も見ておきましょうか。Piuka ピウカ 川ノ舊跡 比宇村
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.250 より引用)
おや。piwka で「川の旧跡」としていますね。piwka は「小石の多い河原」と言った意味で、「美深」の由来としても知られていますね。ただ、知里さんの「──小辞典」には二つ目の解釈として、次のようにも記されていました。② 【ナヨロ】川岸からちょっと引っこんでいる水溜りで水が流れるとも流れぬともつかぬ所。(=mem)
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.96-97 より引用)
おそらく永田方正はこちらの解釈が妥当である、と考えたのでしょうね。ただ、実際の地形に即して考えると、素直に「小石の多い河原」と考えたほうが良かったような気がします。知里さんの語源解では、piwka は pi-o-ka で「石・群在する・表面」ではないかとのこと。そう考えると「美宇」は pi-o で「小石・多くある」と考えてもいいのかもしれません。
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1 件のコメント:
こんにちは。最近亡くなった母の戸籍を見てみると、その出生地が元神部村無号地でした。「壁岸」という旧姓でしたので、この辺に「崖」みたいなところがあるのかなあ?なんて思ったりもしました。母は昔のことをほとんど話しませんでしたが、幼い頃「エカシ」と呼ばれる人の膝の上に載せられながら「この子をどうする?」みたいな話を家族で(?)されていたとかいう思い出があったとか(→ その後、幼い母は別の家庭の養女に)。80年ぐらい前のことでしょうが。
今度行ってみたいと思います。
情報ありがとうございます。
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