2016年6月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (344) 「イベツ沢川・アベウンナイ沢川・コイカクシュシビチャリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

イベツ沢川

ipe-ot-i?
食料・多い・ところ
(?? = 典拠なし、類型あり)
静内川の上流部に注ぐ支流の名前です。「威別大橋」という橋があるようですが、川の名前は「イベツ沢川」です。大変残念なことに、手元の資料には記載がありません。音から想像すると ipe-ot-i あたりでしょうか。これだと「食料・多い・ところ」となります。魚が良く獲れる川だったのであれば適切な解になるのでは、と思います。

さて、静内川上流については「東蝦夷日誌」「戊午日誌」「北海道蝦夷語地名解」などを見ながら調べているのですが、「東蝦夷日誌」では残念ながら「いかにも山峻シ」とのことでこの先の記録はありません。ということで、「戊午日誌」の記載から(河口部から川上に向かって)右側の支流をリストアップしてみました。

セタウシ(右の方尖りし高山一ツ有)
アベウナイ(右の方小川)
テベカリベツ(ペテカリベツ)(右の方小川)
サツシヒチヤリ(此川、西川より少し小さきよりして……)

文脈から考えて、「サツシヒチヤリ」は現在の「コイカクシュシビチャリ川」のことだと見て間違いありません。となると「アベウナイ」とコイカクシュシビチャリ川の間に「テベカリベツ」(おそらく「ペテカリベツ」の誤記)がある筈なのですが、実際の地形を見る限り、この両川の間に「ペテカリベツ」が存在する余地はありません。

となると、考えられる可能性が二つ出てきます。一つは現在の「アベウンナイ沢」が「ペテカリベツ」だったという考え方で、もう一つは「アベウナイ」と「ペテカリベツ」の順番を間違えた、という考え方です。

両者の白黒をはっきりさせる前に、戊午日誌「東部志毘茶利志」の記述を見てみましょう。

またしばし過て
     テベ(ペテ)カリベツ
右の方小川也。其名義は此源ニトシ(三石)の山のうしろに廻り有るよりして号るとかや。魚類鱒と鯇と有。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.618 より引用)
前述のとおり、「テベカリベツ」は「ペテカリベツ」の誤記と見られます。{pet-e}-kar-pet で「{川の頭(水源)}・回す・川」と考えられそうです。

注目すべきは「此源ニトシの山のうしろに廻り有る」という記述です。現在の地形図にある「アベウンナイ沢」と「イベツ沢川」を見てみると、アベウンナイ沢の水源は旧・静内町域の「ウチイチ山」で、「三石の山のうしろ」とは少々言いがたい場所です。

一方、イベツ沢川の水源を辿ってみると、上流部で二股になっているのですが、南側の沢を遡っていくと鳧舞(けりまい)川源流部の裏側にたどり着きます。いや、確かに三石では無くて鳧舞なんですが……。

ということで、戊午日誌や永田地名解に記載のない「イベツ沢川」は、実は「ペテカリベツ」として認識されていたけれど、東西蝦夷山川地理取調図でや戊午日誌でたまたま「アベウンナイ」と前後を取り違えられたせいで名前が伝わらず、「イベツ沢川」と呼ばれるようになった……と考えてみたのですが、いかがでしょうか。

この幻の「ペテカリベツ」が失われたもう一つの理由として、新ひだか町と大樹町の境にある「ペテガリ岳」の存在もあったのかも知れません。ペテガリ岳の麓から「ペテガリ沢川」という川が流れているので、永田地名解の「ペテカリ ペッ」という記載も「ペテガリ沢川」のことだと認識されていたのではないか、と思ったりします。

アベウンナイ沢川

ahun-un-nay??
入り込む・そこに入る・沢
(?? = 典拠なし、類型あり)
「威別大橋」の少し上流部で静内川に注いでいる支流の名前です。早速ですが戊午日誌「東部志毘茶利志」の記述を見てみましょう。

また過て
     アベウナイ
右の方小川。此名義は昔し老人此山にて迷ひ、終に帰ることを不得して、火をたき其端に座しながら死したりとかや。アベとは火の事、ヲは有ると云事也。魚類鱒・鯇多し。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.617-618 より引用)
ふむふむ。また地名説話っぽいものが出てきましたね。ape-un-nay で「火・ある・沢」と考えたようです。

一方で、永田地名解には「違う、そうじゃない」として次のように記してありました。

A pe un nai  アペ ウン ナイ  休息處 「アペ」ハ坐スル處ノ義ナリ「アベ」即チ火ノ義ニアラズ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.255 より引用)
ふむ。a-pe-un-nay で「座る・ところ・ある・沢」と解したようですが、知里さんの「──小辞典」には次のようにあります。

-pe 動詞・形容詞──それも必ず子音で終るもの──について,「……するもの」「……であるもの」の意をあらわす。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.87 より引用)
ということで、「座る・ところ」としたいのであれば、a-p でないといけないような気もします。また、a-p で「座る・ところ」という言い回しがあるかどうかも少々微妙な感じがします(萱野さんの辞書には無いような)。

ここまで「戊午日誌」「北海道蝦夷語地名解」の両者を見てみましたが、個人的にはどちらも微妙な感じがします。おこがましくも試案を出してみるならば ahun-un-nay とかはどうでしょう? これだと「入り込む・そこに入る・沢」となります。地形図で見た感じですが、割と奥深くまで入り込んでいる印象があるので……。どうでしょう?

コイカクシュシビチャリ川

koyka-kus-{sipe-ichan-i}?
東のほう・通行する・{シビチャリ川}
(? = 典拠未確認、類型多数)
静内と中札内を結ぶ「日高横断道路」という計画があり、実際に工事も進んでいたのですが、巨額の費用を投じる割には効果が期待できないという話になり、工事が凍結されてしまいました(残念……)。この「日高横断道路」は静内川沿いに建設されていたのですが、「東の沢橋」がかかっているところで、東から流れてきた「コイカクシュシビチャリ川」と北から流れてきた「コイボクシュシビチャリ川」が合流しています。

江戸時代に「シヅナイ場所」と「シビチャリ場所」が合併して、「静内」の地名が現在の位置に移転してからも、川の名前は旧名の「染退川」(シビチャリ川)が使われていたようです。

この「コイカクシュシビチャリ川」は koyka-kus-{sipe-ichan-i} だと言うことなのでしょうね。koy-ka は「波のかみ」という意味で、より具体的には「東のほう」を意味します。koyka-kus-{sipe-ichan-i} で「東のほう・通行する・{シビチャリ川}」ということになりますね。

コイボクシュシビチャリ川

かなりバレバレだと思いますが、「コイボクシュシビチャリ川」についても記しておきます。koy-pok は「波のしも」即ち「西のほう」という意味です。従いまして koypok-kus-{sipe-ichan-i} で「西のほう・通行する・{シビチャリ川}」と考えられます。

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