(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内(しずない)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
2010 年 7 月 13 日の記事に続き、二度目の登場となります。ご存知の通り、日高で最も大きな街ですね。この静内も、浦河や紋別(紋別市)、増毛などと同様に、会所の移転に伴って地名ごと引っ越してきた地名です。本来の「静内」は現在「元静内」と呼ばれています。そして現在「静内」と呼ばれているところは、もともとは「シビチャリ」あるいは「シベチャリ」と呼ばれていました。「染退」という字を充てたのは、中々の傑作ですよね。
ただ、「静内」の名前がお引越ししてくる前からそれなりに名の知れた場所だったようで、秦檍麻呂の「東蝦夷地名考」には次のようにあります。
一 シブチヤリベツ
古名シベチヤレと云。シベは鮭の名、チヤレは晒の意也。鮭魚卵を生ミ終れは疲痩して偏身白くなる。其形を指してシベチャレと云。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.25 より引用)
ふむふむ。sipe は「主要な食料」即ち「鮭」という意味ですよね。「チャレ」の意味が良くわからなかったのですが、補足説明を見る限り、いわゆる「ほっちゃり」のことかも知れません。産卵を終えて脂の抜けきった鮭のことを「ほっちゃり」と言うそうなのですが、茅野さんの辞書には「ほっちゃり」を意味するアイヌ語として oysiru(o-i-siru)という語が掲載されているので、「チャレ」が果たしてアイヌ語だったかどうかは少々疑問ですね。上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」には、全く別の解が記されていました。
シビチヤリ
夷語シユプシヤルなり。則、芳の濕澤と詳す。扨、シユプとは芳のこと、シヤルは濕澤の事にて、此・辺平原にして芳の濕澤なるゆへ地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.54 より引用)
「濕澤」を新字体に直すと「湿沢」となります。「シユプとは芳のこと」というのが良くわからないのですが、どうやら sup-ki (葦)のことでしょうか。sup-sar で「葦・湿原」と解したようです。戊午日誌「止毘知也理日誌」(凄い字だな……。)には次のようにあります。
往昔此地をしてホマリモイと申せし由なるが、其頃打続きて不漁にて、万民難渋なせしが故に、其時神に祈願して神の答を聞しかば、目出度繁昌する名を附ろと云しによって、此シヒチヤリと号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.565 より引用)
これまた面白そうなストーリーが出てきました。もともとは homar-moy で「ぼんやりした(見通しの悪い)・入江」という名前だったが、不漁が続いたので、カムイにどうすれば良いか願いをかけたところ、「めでたい名前に変えれば良い」と言われて名前を変えた、とあります。まるでスポーツ選手のようですね。まだ続きがありまして……
シヒチヤリとはシヒイチヤンの訛りにして、当所大漁繁昌の兆を云しもの也。其名義は、シヒとは鮭の事也。イチヤンとは卵をなす処と云義なり。それを今訛りてシヒチヤリと申伝ふなるべし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.565 より引用)
ということで、sipe-ichan で「鮭・産卵場」ではないか、との説のようです。この解は永田地名解にもほぼ引き継がれていますが、Shipichari = Shipe ichari シピチャリ 鮭ノ産卵場ichan を所属形の ichan-i としています。確かにこのほうが「チャリ」という音に近くなりますからね。
一方で、これらの説に真っ向から異を唱えていたのが更科源蔵さんでして……
染退川(しぶちゃりがわ)
静内市街で海に出るので、現在は静内川と呼んでいるが、近年までは染退川といっていた大川。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.82 より引用)
ほうほう。「近年まで」というのはいつ頃のことを指しているのでしょうね。然し一般にシペイチャン(鮭の産卵場)といわず、単にイチャンといって、ここだけ特別に鮭とことわることはおかしい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.83 より引用)
んー、お気持ちはわかります。確かに ichan あるいは ichan-i という地名は多いですが、少数派ながら sipe-ichan という地名も無いわけでは無い……と思うのです(歌登の「志美宇丹」なんかもそうじゃないかという説がありますよね)。大体地元の人はこういう大川をシペッ(大川とか本流)と呼んで個有名詞をつけることがない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.83 より引用)
おっ。これは中々良いご指摘ですね。なるほど、si-pet-char-i と解釈できなくも無いですね(これだと「主たる・川・河口・ところ」となります)。川筋が幾筋にも別れて流れるのでシペッ・チャリ(本流が散らばる)だと説く人も、またシンプィチャラで朝魚をとりに行くところであるともいい、諸説紛々であるが
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.83 より引用)
ふむふむ。si-pet-char-i で「主たる・川・散らかる・ところ」では無いかと言うのですね。アルファベット表記はさっきの試案と同じですが、char の解釈が少々異なるようです。「朝魚をとりに行くところ」というのはちょいと良くわからないですが……。そして、「諸説紛々である」とした更科さんの見解を最後に伺いましょう。
シンプイ・チャロ(湧水の出口)で現在の鶯谷のあたりの地名であったのではないかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.83 より引用)
ふーむ(笑)。「地元の人はこういう大川を si-pet と呼ぶ」としながらオチがこれなのがたまらないですね。simpuy-charo で「湧き水の穴・口」では無いか、という説です。確かに更科さんの言うとおり「諸説紛々」ですね。更科さんの言う「鶯谷」は、現在「シベチャリの橋」という人道橋?の近くを流れる「ウグイス谷川」のことでしょうか。地名としての蓋然性には頷けるものもあるのですが、これだけの大河の名前にしては少々局所的にすぎるきらいもありますね。
永田地名解の sipe-{ichan-i}(「鮭・{その産卵場}」) は最も「ありそうな」解だと思います。この説が本命で、対抗は無し、大穴で si-pet-char-i(ここは「主たる・川・河口・ところ」説で)かな、と考えていますが、いかがでしょうか?(もっとも、これだと秦檍麻呂が「シブチヤリベツ」と記録したのが少々おかしなことになってしまいますが)
元静内(もとしずない)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
今更ではありますが、かつての「静内」(現在の「元静内」)についても検討しておきましょう。場所は春立と東静内の間、どちらかと言えば春立寄りのところです。秦檍麻呂の「東蝦夷地名考」には次のようにありました。
一 シツナイ
シツは室なり。老嫗の通称とす。ナイは渓也。此山渓に老嫗の形したる岩あり。大古の女神、化して石と成り存在すと云。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.26 より引用)
どうにも良くわからない話になっていますが、上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」にはもう少しわかりやすく描かれています。シツナイ
夷語シユツ子なり。シユツナイの略語なるべし。扨、シユツとは曾祖母の事、ナイは沢の事にて、昔時、和の婦人此沢に住居せしゆへ地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.55 より引用)
あわせて「東蝦夷日誌」も見ておきましょう。シツナイ〔静内〕(會所、勤番所、板蔵五、馬や、蝦夷雇蔵、備米、土人七軒)辨天社(金毘羅、いなり社)下に小流有、是を以て號(なづけ)し。本名フツナイ也。名義、曾祖母澤の義也。往昔此所に老母神が在(おわ)せしと、其より此場所は廣まりしと。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.179 より引用)
どれも微妙な違いがありますが、メインストーリーには類似性がありますね。永田地名解には、次のようにありました。
靜内郡 元名「シ、フッチ、ナイ」(Shi huch nai)大祖母ノ義、「アイヌ」ノ始祖居リシ澤ナリト云ヒ又「フッチナイ」(Huchi nai)トモ云フ祖母ノ澤ノ義ナリト雖ドモ然レドモ其實ハ「シュト゚ナイ」(Shutu nai)ニテ葡萄澤ノ義ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.18 より引用)
えー……。永田地名解は毎回旧字の勉強になってありがたいのですが、結構読むのが大変だと思いますので、新字体に直しておきますね。静内郡 元の名は「シ・フッチ・ナイ」(Shi huch nai)大祖母の意味で、「アイヌ」の始祖がいた沢だと言い、また「フッチナイ」(Huch nai)とも言う。祖母の沢という意味だと言えどもしかしその実は「シュトゥナイ」(Shutu nai)にてブドウ沢という意味なり。
なんか文体もバラバラになっちゃいましたが、それはさておき。永田地名解は「大祖母の沢」説を紹介しておきながら「違う、そうじゃない」として「ブドウの沢」説をプッシュしています。situ は「棍棒」という意味があるそうですが、situkap で「ブドウの皮」という意味になるのだとか。てことで、逆説的ですが situ なんとかで「ブドウのなんとか」と認識されていたようです。
各種辞書を見ると、situ は「山の走り根(尾根)」という解ばかりで、「ブドウ」という意味に言及しているものが無いのですね。ヤマブドウは hat という語があるからなのでしょうけど。
さて、そろそろまとめに入りましょうか。ここまでの記録を大別すると si-huchi-nay 説と situ-nay 説に二分されるような印象があります。アイヌ語地名の流儀で言えば situ-nay で「走り根・沢」としたいところでしょうか(元静内の集落の北から北西にかけて、細長い尾根があるように見えるので)。
気持ちとしては「大祖母の沢」説も捨てがたいというか、捨ててはならないと思います。元静内は決して広い土地では無いのですが、天然の良港とも言える地形で、ほどよい規模の川もあり、そのままでも暮らしよい場所だったのだろうなと思います(春立や捫別、静内のあたりは泥炭地が広がっていたのではないかと)。他所から日高にやってきたアイヌが最初に居を構えたのが、この辺りだった可能性があってもおかしくないなぁ、と。
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