2016年4月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (337) 「布辻川・東別・春立」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

布辻川(ぶし──)

pus-i
破裂する・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
武士は喰わねど高いびき……違うか。かつての三石町と静内町の境界を流れていた川の名前です。

東西蝦夷山川地理取調図には「フツシ」とありますが、果たしてどういう意味なのでしょう。まずは東蝦夷日誌から。

プツシ(渡船、渡守小屋あり)西岸に境柱を立、渡船隔年に勤め、川筋又南北の土人の接也。魚類、桃花魚(うぐい)・鯇(あめます)・雑喉(ざこ)のみ。名義、南風の時に口塞げども直に破るとの義也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.179 より引用)
永田地名解には、「三石郡」の地名として採録されていました。

Pushi  プシ  潰裂スル處 静内三石二郡ノ境川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.263 より引用)
おおよそ意見の一致を見ているようですね。締めは山田秀三さんの「北海道の地名」から。

この川口は今でもひどく屈曲して昔の面影を残している。砂で川口が塞がりやすかった川で,川尻に貯った水がそこを破って噴出するのが目立ったので川名となった。push-i「(川水が)破って噴き出す・もの(川)」の意であったろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.350 より引用)
今では河口部もしっかりと整備されて普通の川のように見えますが、30 年ちょい前の地図を見ると、確かにちょいとクネクネしていた風に見て取れます。やはり pus-i で「破裂する・もの(川)」と考えて良さそうな気がします。

東別(とうべつ)

toy-pet
食用土・川
(典拠あり、類型あり)
布辻川を河口から少し(2~3 km ほど)遡ったあたりの地名です。JR 日高本線にも「日高東別駅」がありますね。

では早速ですが、駅名のことなら何でもお任せ(でも仮乗降場は「知らんがな」)でお馴染みの「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  日高東別(ひだかとうぺつ)
所在地 (日高国)静内郡静内町
開 駅 昭和33年7月15日 (客)
起 源 アイヌ語の「ト・ペッ」(沼・川)から出たもので、「東別」の字をあてたものである。なお道内にも同音の駅が多いので、国名の「日高」をつけた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.92 より引用)
このあたりの日高本線の開通は昭和 8 年のことですから、日高東別駅は少し遅れて開業した駅ということになりますね。それはさておき、「駅名の起源」は to-pet で「沼・川」説のようなのですが、異説もあるようです。

東別 とうべつ
 布辻川中流を現在東別という。その形だけからはすぐトー・ベッ(沼・川)と考えたくなるが,沼らしい処がなく,現地の古い人たちはトイベツという。明治の旧図を見ると,今国鉄日高東別駅のある処から700メートルぐらい下の支流にトイペッがあり,どうもそれがこの地名のもとらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.350 より引用)
山田さんの記した「日高東別駅のある処から700メートルぐらい下の支流」ですが、地理院地図では「トエベツ川」となっている川のことかと思います。こう考えると確かに to-pet 説が疑わしく思えてきますね。

永田地名解を見ると「トイ・ペッ。食土川。遠別村の原名にして静内郡に属す」とある。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.350 より引用)
「遠別村」とあるのは、道北の遠別町のことではなくて、「東別」の旧名のようです。つまり「遠別」は「えんべつ」ではなくて「とうべつ」と読ませていたようなのですね。更にややこしい話をすると、「トエベツ川」は静内町に属していたのですが、布辻川の支流なので、永田地名解には「三石郡」の項に記載がありました。

Toi pet  トイ ペッ  食土(ハミツチ)川 遠別村ノ原名ニシテ靜内郡ニ属ス
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.269 より引用)
改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、現在の「トエベツ川」と思しきところに「トイヘツ」とあるのですが、その下流に「ヲトエウシ」という川名(だと思う)もあるのですね。o-tuye-us-i であれば「川尻・切る・いつもする・もの」となりますね。

本題に戻りますが、「トエベツ川」(→東別)は永田方正の説通りに toy-pet で「食用土・川」だったんじゃないかなと思います(「食用土」と言っても土を食べるわけではなく、出汁を取るような形で用いていたみたいですね。詳しくは北海道のアイヌ語地名 (317) 「豊似・ポロフーレペツ・花春」をどうぞ)。

いつもの悪い癖で余計な想像を付け加えますと、あるいは toy-un-pet で「食土・ある・川」だったのかもしれませんね。「トユンペッ」が「トエベツ」に化けたのは、音韻転換か、あるいは「ユ」と「エ」の書き間違いか……。

春立(はるたち)

haru-ta-us-nay
食料・取る・いつもする・川
(典拠あり、類型あり)
新ひだか町中部、かつての静内町の最南端に位置する集落の名前です。JR 日高本線にも同名の駅がありますね。とても素敵な名前の地名で、あまりアイヌ語っぽく無い雰囲気もあるのですが……

ということで、今回も「北海道駅名の起源」から。

  春 立(はるたち)
所在地 (日高国)静内郡静内町
開 駅 昭和8年12月15日
起 源 アイヌ語の「ハル・タ・ウシ・ナイ」(食料となる草の根掘りをいつもする沢)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.92 より引用)
おおぅ。確かに「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ハルタウシナイ」と書かれていますね。

永田地名解にも記載がありました。

Haru ta ush nai  ハル タ ウㇱュ ナイ 食料多キ澤 此澤ニ「セタトマ」トテ和名「ツルボ」多クアリ土人採リテ食フ又黑百合モ多クアリシガ今ハ都テ無シ○春立村
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.252 より引用)
この解に異論は無い……と言いますか、もはや他に解釈のしようも無いレベルですよね。haru-ta-us-nay で「食料・取る・いつもする・川」と考えて良さそうです。「ハルタウシナイ」に「春立」という字を当てて「はるたち」と改名したのは(改名の是非はさておき)中々洒落てるなぁと思います。

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2016年4月29日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (56) 小百~小佐越 (1878/6/24)

引き続き、1878/6/24 付けの「第十一信」(本来は「第十四信」となる)を見ていきます。イザベラは日光を出発して、小百(旧・今市市)というところにやってきました。

馬に勒(くつわ)をつける

イザベラ一行は日光から小百まで馬に乗って(場所によっては歩いて?)やってきましたが、ここで馬を乗り換えることになりました。現代で言うタクシー会社のテリトリー制みたいなものでしょうか(単に家に戻れる距離か否かの問題なんでしょうけど)。

そして、しばらく待たされた後、ようやく代わりの馬がやってきたのですが……

馬が着くと、人々は、馬勒をつけることができないという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
「馬勒」とは即ち「轡」(くつわ)のことですね。Wikipedia には「ハミ (馬具)」というエントリで詳細が記されています。平たく言えば手綱と馬の口を結ぶために使う金具のようなもの……でいいのでしょうか(汗)。

もっとも、上には上がいたようで……

次に馬を交替したところでは、馬勒という言葉はまだ耳にもしたことがないものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
わたくし馬具はさっぱりわからないので、しばらく Wikipedia を眺めていたのですが、日本には馬勒の代わりに「おもぐい」というものが使われていた……とありますね。馬勒が一般的になるのは明治以降の話だったのかも知れません。

銜(はみ)を馬の歯にぴったり押しつけると、馬は自分から口を開けるものだと説明したが、傍に立っている人たちは、「どんな馬だって、食べるときと噛みつくとき以外は口を決して開けませんよ」とあざけるように言った。私が自分で馬に銜をつけて、はじめて彼らは納得したのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
馬勒そのものを「知らない」と言われてしまったので、イザベラはやむなく?馬勒の付け方を実演する羽目になりました。でも、こんな時にさり気なく実践できるのはイザベラ姐さん流石ですね。

そんなドタバタもありながら、小百でイザベラ一行は馬を乗り換え、小百から小佐越に向かいます。

それで私はキサゴイ(小佐越)という小さな山村で馬を交替したときは、ほっとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
確かに原文には Kisagoi とありますね。現在の日光市小佐越のあたりだと思います。日光江戸村のちょいと北側でしょうか。小佐越は本来は鬼怒川西岸の地名に思えるのですが、東武鬼怒川線の「小佐越駅」が川の東側にあることもあってか、現在は東側のほうが栄えているようにも見えますね。

女性の着物と醜さ

ただ、明治初期の小佐越にはもちろん「日光江戸村」がある訳もなく、イザベラの目には貧しい寒村に見えたようです。

ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
イザベラは筆を続けます。示唆に富む一文が現れました。

私は見たままの真実を書いている。もし私の書いていることが東海道や中山道、琵琶湖や箱根などについて書く旅行者の記述と違っていても、どちらかが不正確ということにはならない。しかしこれが本当に私にとって新しい日本であり、それについてはどんな本も私に教えてくれなかった。日本はおとぎ話の国ではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
「日本奥地紀行」の原題は "Unbeaten Tracks in Japan" でしたが、イザベラは既に「未知なる日本」の姿を目にし始めていたということでしょうか。これからまさに「奥地探検」をせんとする、若干の気負いのようなものも感じられるのは興味深いですね。

イザベラは、ここまでで見かけた農民の身なりについて、改めて詳らかに記しています。かなり細かく書かれているので、一部だけを引用しますが……

着ている着物からは、男か女か分からない。顔も、剃った眉毛とお歯黒がなければ見分けがつかないであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
アングロサクソンからは東洋人の顔はみんな同じに見える……なんて話がありますし、また、アジア人(モンゴロイド?)は概して若く見られるようなので、「男か女か分からない」のもある意味仕方がないようにも思えます。そういう意味では、「剃った眉毛とお歯黒」はとても良い性別アピールだったのではないかと思ったりもするのですが……。

短い下スカートは本当に野蛮に見える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
女子高生の皆さん、短すぎるスカートには気をつけましょう(笑)。

赤ん坊

小佐越での出来事の描写が続きます。

女が裸の赤ん坊を抱いたり背負ったりして、外国人をぽかんと眺めながら立っていると、私はとても「文明化した」日本にいるとは思えない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
「散切り頭を叩いてみると……」という迷句がありましたが、この文章から「裸の赤ん坊」を取り除いてみると、今もそんなに変わらないような気もしないでも無いですね。東京に金髪碧眼の外国人がいても何の不思議もない世の中になりましたが、農村にアングロサクソンのおば……あ、いや、お姉さんが高級ハイヤーで乗り付けたりしたら、やっぱり口をぽかんとして眺めてしまうこともあるんじゃないですかね。

しかし六歳か七歳の小さい子どもが軟らかい赤ん坊を背中に引きずっている姿を見るのは、いつも私にはつらい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141 より引用)
まぁ、広義の「児童労働」と取れなくも無いですからね。事の是非はさておき、これが「当たり前」だったことは事実なわけで。年長の子供が妹や弟の面倒を見るというエコシステムが多産を後押ししていたこともまた事実と言えますよね(他にも理由はある筈ですが、身も蓋もないのでここでは触れません)。

イザベラの「つらい」という心境は、理解できるような気もするのですが、少し理解に苦しむところもありますね。弟や妹の世話をすることで学べるものは少なからずあったと思いますが、あるいは教育や文化活動の機会を多少なりとも奪っていたことも事実でしょうし。イザベラは後者と、その裏側に垣間見える構造的な貧困を評して「つらい」としたのかな、と思えてきます。

この地方では、たくさんの蚕を飼っている。広い納屋では、多くの男たちは裸のままで、女たちは腰まで肌脱ぎとなり、忙しそうに桑の葉をとっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.141-142 より引用)
おっさん(失礼!)が諸肌脱ぎなのは、これまでも何度も見ていたので特に違和感は無いのですが、おっさんに限った話では無かったんだな……というところに少々驚いてしまいますね。

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2016年4月28日木曜日

新十津川→京都 1568.9 km (5) 「石狩当別→札幌(27.5 km)」

石狩当別駅の 3 番のりばで札幌行き 642M の到着を待ちます。そう言えば当別も伊達家が開拓した土地なんですよね。
北海道医療大学発の札幌行き 642M が入線してきました。
早速車内へ……うわぁお!
まぁ、土曜日の夜 9 時に当別から札幌に向かおうとする人は、さすがにそんなにいないということなんでしょうねぇ。

通勤用電車……?

札幌から当別に来た時は、各扉にデッキのあるクロスシートの車両でしたが、今度の車両はロングシートでデッキもありません。純粋な通勤用車両のような感じですが、唯一変わっているところがドアが両開きでは無いところでしょうか。
あ、あと、ドアとシートの間のスペースにゴミ箱があるのも珍しいですよね。道内の電車だとこれが標準的なんでしょうか。

7 分乗り換え!

札幌行きの 642M は、定刻通りに終点・札幌に到着しました。
いやー、この電車が遅れたりしたら全てが終わる可能性があったんですよね。というのも……ご覧くださいこの無駄のないタイムスケジュールを!

642M 石狩当別 21:13 → 札幌 21:53
202 札幌 22:00 → 青森 5:39(急行「はまなす」)
2042M 青森 5:43 → 秋田 8:22(特急「つがる 2 号」)

11 時間 9 分のうち、乗り換え時分が僅かに 11 分しかありません。いやいや、さすがにふつーはこんなスケジュールを立てることは無いんですけど、新十津川発着の列車が 1 日 3 本しか無い上に、「はまなす」に至ってはオンリーワンですから、こうするしか無かったのですね。ですからもちろん……
駅ナカでお食事なんてできる筈もありません(そもそもお店が開いてないか)。

急げ「はまなす」へ!

急行「はまなす」は札幌駅 4 番線から発車します。
さぁ、発車まで 5 分です! 急ぎましょう!

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2016年4月27日水曜日

新十津川→京都 1568.9 km (4) 「石狩当別(50.6 km 地点)」

結局、おにぎりをあたためてもらうこと無く石狩当別駅に戻ってきました。小綺麗なビルのようにしか見えませんが、石狩当別駅の北口です。

見どころたっぷり?

石狩当別駅は橋上駅舎で、北口と南口の間は自由に通行できる構造なのですが、壁には所狭しとばかりに色々なものが展示?されていました。まずは地元の「当別高等学校」のコーナーから。
とっても誠実な感じがしますが(汗)。ちょっと寂しい感じもしますね。

そして、何やら謎な感じのする像が展示してありました。どこかに説明文があったんでしょうかね……?
あとこんなポスターも。
いやー、なんだかんだで実はふつーに自生してるんだよね、という話も……(汗)。

この銘板は

これは当別町の偉人を称えるコーナーなのかな、と思ったのですが……
よーく見ると上にちゃんと説明書きがありました。「この銘板は 産業 文化 スポーツの分野で活躍し 全国に当別町の名を広めた団体 個人の栄誉を永く称えるものです」とのこと。見た感じではスポーツ関連が多いようですね。

高校 vs 大学

改札を通った先には、当別高校(の生徒さん、ですよね)が制作した「花の駅長さん」という一角がありました。
もちろん北海道医療大学も負けてはいません。「九十九祭」というのは学園祭のようなものなのでしょうか。あっ、この日はちょうど二日目だったんですね!

再スタート!

次の札幌行きは 1 番線ではなく 3 番線から発車するとのこと。先ほど 5434D から下車したホームに戻りましょう。
さぁ、燃料(食料か)補給も終わったので、再スタートです!

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2016年4月26日火曜日

新十津川→京都 1568.9 km (3) 「おにぎりあたためますか?」

新十津川から京都まで、1568.9 km を 23 時間 46 分かけて移動してみよう……というネタ……あ、いや、企画なのですが、ちょいと先の旅程をネタバレしてしまいますと、実はこうなっていたのでした。

5434D 新十津川 19:22 → 石狩当別 20:53
642M 石狩当別 21:13 → 札幌 21:53
202 札幌 22:00 → 青森 5:39(急行「はまなす」)
2042M 青森 5:43 → 秋田 8:22(特急「つがる 2 号」)

これはつまりどういうことかと言いますと、札幌は「7 分乗り換え」、そして青森では何と「4 分乗り換え」が待っていることになります。

ちなみに、新十津川までの旅程をおさらいするとこんな感じでした。

5007D 函館 12:29 → 札幌 15:59(特急「スーパー北斗 7 号」)
595M 札幌 16:20 → 石狩当別 17:06
5433D 石狩当別 17:27 → 新十津川 18:56

石狩当別で 20 分ほどの乗り換え時分があったので、その間に夕食を調達することもできたのですが、長万部で「かなやのかにめし」を頂いたのが 13:50 頃でしたので、ちょっと夕食には早いかな、と感じていました。

新十津川でも 26 分の折り返し時分があったのですが、残念ながら駅前にコンビニなどは無かったので……。こんなこともあろうかと、実は函館駅の売店でパンとおにぎりなどは確保していたのですが、石狩当別行きの 5434D の車内で食べてしまっていたのでした。

最初で最後のチャンス!

すんごーく長く前振りを書いてしまいましたが、要は「ここ(石狩当別)を逃せば翌朝 8 時まで食料を調達する道が無い!」という状況だったのでした。ということで……
「山線(函館本線)の旅」はいいですよね。ではなくて……
石狩当別での 20 分乗り換えを有効活用すべく、勇気リンリン途中下車と相成ったのでした。21:13 の札幌行き発車まであと 18 分です(これを逃すと全てが終わる!?)。急ぎましょう!
なんとなーく駅の北側に向かって歩いてゆきます。往復でお世話になったディーゼルカーがホームに停車しています。
駅の高架橋と外の間は、しっかりと二重のガラスドアで区切られています。さすがは北海道ですね。

おにぎりあたためますか?

外に出たはいいものの、「パブリック通り」。何なんでしょうこのネーミングは……(汗)。
パブリック通り?の先には、おなじみのマークのコンビニの姿が……。
ありがたいことに、駅から歩いて 1 分ほどのところにローソンがありました。いやー本当に助かりましたね。ここでコンビニが無かったらこれから 10 時間以上ひもじい思いをするところでした。
ローソンではパンやおにぎりなどを購入しました(あと飲み物も)。レジで「おにぎりあたためますか?」の名セリフが聞けたのは嬉しかったですね(笑)。

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2016年4月25日月曜日

新十津川→京都 1568.9 km (2) 「新十津川→石狩当別(50.6 km)」

石狩当別行きの 5434D は、新十津川を 19:22 に発車しました。進行方向右側の車窓には、暮れゆく空の中に三日月が見えていました。

晩生内駅(18.5 km)

定時通りの 19:52 に、晩生内に到着しました。晩生内の駅舎は西側にあったので、下り列車からはうまく撮影出来ていなかったのですが、今度はちゃんと撮影することができました。随分と暗くなってきましたね。
ついでに駅名標も撮影してみたのですが……。
残念な結果に終わってしまいました。

豊ヶ岡駅(25.5 km)

晩生内から 10 分ほどで、森の中の駅・豊ヶ岡に到着しました。
ここもホームが西側にあったので、とりあえずホームだけでも撮影を……。

石狩月形駅(30.2 km)

石狩月形には、おそらく定時の 20:10 に到着しました。
ホームの向かい側には、浦臼行き最終列車となる 5435D が停車していました。5435D は 20:04 頃に石狩月形に到着して 5434D の到着を待っていたようで、20:11 に浦臼に向かって出発してゆきました。

石狩金沢駅(45.4 km)

石狩金沢にも定時の 20:44 に到着しました。確か、石狩金沢は写真を撮影出来ていなかったので、せめて一枚でも……ということで。随分と残念な感じですが、まぁ仕方がないですね。

石狩当別駅(50.6 km)

5434D は、最後の停車駅・北海道医療大学で 5~6 名の学生さん(と思う)を乗せて、終着駅・石狩当別に到着しました。
石狩当別到着は定時の 20:53 でした。
石狩当別で札幌行き普通電車に乗り換えです。

5434D 新十津川 19:22 → 石狩当別 20:53
642M 石狩当別 21:13 → 札幌 21:53

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2016年4月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (336) 「シカルベ山・ウツマ川・ピラシュケ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シカルベ山

sikari-pe?
丸い・もの
(? = 典拠あり、類型未確認)
三石川を遡っていくと、三石富沢のあたりで山に挟まれて渓谷状になるのですが、三石川を挟んでいるのが samatke-iwa こと「南横山」と「シカルベ山」です。シカルベ山の北斜面には「三石スキー場」という記載があるのですが、どうやら廃止されてしまったという情報も見かけました。日高は北海道の中では温暖な場所だけに、もしかしたら雪不足もあったのかも知れませんね。

では、まずは「北海道地名誌」を見てみましょう。

 シカルベ山 316.0メートル 福畑地区の山で鹿留辺とも書く。→シカルベ川。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.571 より引用)
福畑というのは三石川の東側の地名ですね。富沢は西側の地名のようなので、そのあたりの解釈の違いかも知れません。「鹿留辺」とも書いていたのですね。悪くない当て字だと思ったのですが、やはりカタカナのほうが書くのが楽だったのでしょうか。

ということで、参照先の「シカルベ川」を見てみます。

 シカルベ川 シカルベ山の北で三石川に入る左小川。アイヌ語で本当に曲っている川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.571 より引用)
ふむふむ。si-kar-pe で「本当に・回っている・もの」と解したわけですね。「シカルベ川」の所在が不明だったのですが、シカルベ山の北側を流れる「ウツマ川」のことではなく、南側をひっそりと流れている小河川のことのようです。

ちょっと気になるのは、「シカルベ川」は大して回っている(曲がっている)ように見えないことなんですよね。対して「シカルベ山」を見てみると、北側を流れるウツマ川はシカルベ山のおかげでぐるっと回って流れざるを得ない状態です。

戊午日誌「東部美登之誌」には次のようにあります。

また樹木原の下少し上りて
     シカルベナイ
右の方小川。其名義は丸くなると云儀也。此川すし畑多し。源にシカルヘナイ岳といへる高山有るなり。此うしろはシユモロに当る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.526 より引用)
改めて萱野さんの辞書を見てみると、sikari 自体で「丸い」という意味があるようです。従って「シカルベ山」は sikari-pe で「丸い・もの」だったと考えるのが妥当なように思われます。アイヌは「川の名前」を基本に「山の名前」を名づけていたというのが一般的な流れですが、ここは数少ない「山の名前」由来の川名のようですね。

sikari-pe から流れる小河川の名前が sikari-pe-nay となり、松浦武四郎、あるいはそのインフォーマントが間違えて「山の名前」にも nay をつけてしまった、という風に思われるのですが、どうでしょうか。

ウツマ川

ut-oma-p?
肋・そこに入る・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
というわけで「シカルベ山」の北東を流れる川が「ウツマ川」です。東西蝦夷山川地理取調図に「ウツコフ」とある川のことでしょうか。

戊午日誌「東部美登之誌」には次のようにあります。

両岸此辺峨々たる山也。是よりして一人に馬をもどさせ、一同歩行にて行に、また七八丁にて
     ウツコウ
右の方滝川也。此辺え来り候哉両岸とも奇岩怪石多し。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.526-527 より引用)
頭注には「ukaw 岩が重畳」とあります。なるほど、うまい解を考えたものですね。

「東蝦夷日誌」には次のようにありました。

ウツマフ(右瀧)此邊兩岸共奇石怪岩のみ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.183 より引用)
また、永田地名解には次のようにありました。

Ukop, = ukaup  ウコㇷ゚  岩塊 「ウカウプ」ノ急言ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.266 より引用)
なるほど。{ukaw-p} で「岩石が重畳しているところ」と解したわけですね。確かにうまい解ですが、地形図を見た感じではウツマ川よりも三石川(本流)のほうがそんな雰囲気に思えます。

また、松浦武四郎が「ウツコフ」「ウツコウ」「ウツマフ」と全て「ウツ──」という形で記録しているのも気になります(実際に現在の川名も「ウツマ」ですし)。

少し大胆な仮説ですが、東蝦夷日誌の「ウツマフ」が最も正解に近いと考えてみました。これだと ut-oma-p で「肋・そこに入る・もの(川)」と考えられるのではないかと。

ut(肋)というのは、本流を背骨に喩えた場合に、ほぼ直角に近いかたちで本流に入る川に対して使われる語彙です。ウツマ川(の谷)も割と直角に近い角度で三石川(の谷)に入っているように見えます。

もっとも、ut-oma というのは見かけない用法でもあるのですが、実はこれが本来の形で、道内各所では oma が略された形で残っているんじゃないか……などと言った妄説も付け加えておきましょう(今のところ確証は全く無いですけどね)。

ピラシュケ川

pira-kes-ke?
崖・末端・のところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
三石川を遡ると「二川大橋」のあたりで二俣川と三石川の二手に分かれます。このあたりも「ペテウコピ」と呼ばれていたようです。もうすっかりお馴染みですね。

東側を流れる三石川の本流をさらに遡ると、やがて三石ダムにたどり着きますが、その少し手前で合流している西支流の名前が「ピラシュケ川」です。

では、今回もまずは「北海道地名誌」を見てみましょう。

 ピラシュケ川 三石川上流の右支流。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.572 より引用)
ありがとうございました。はい次行きましょう。

「東蝦夷日誌」には次のようにありました。

トミウセ(右川)、ヒラリシケ(同)
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.183-184 より引用)
細かいツッコミですが、「ヒラリシケ」が「右川」とあるのは間違いで、実際には西側の支流なので「左川」とあるべきですね。東西蝦夷山川地理取調図にはちゃんと左川として描かれているので、これはちょっとしたミスなのでしょう(あるいは単なる誤植かも?)。

戊午日誌「東部美登之誌」には次のようにあります。

また少し上りて
     ヒラクシケ
左りの方小川。此処平の下に広き処有る沢なるが故に号る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.530 より引用)
ここではしっかりと「左りの方小川」となっていますね。

永田地名解にも記載がありました。

Pi-rashuke  ピラシュケ  開ケタル處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.266 より引用)
「ラシュケ」というのも聞いたことが無い語彙ですね……。あー、なんだか良くわからなくなってきました。

ここまで「ピラシュケ」「ヒラリシケ」「ヒラクシケ」と出てきましたが、一番しっくり来るのが「ヒラクシケ」でしょうか。pira-kes-ke で「崖・末端・のところ」と考えられそうな気がするのですが、いかがでしょう?

戊午日誌の頭注にも「pira-kus-ke『岩崩の・下の端・の所』」とありますね。kus がどうにも意味不明だったのですが、kes と考えれば理解できそうです。

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2016年4月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (335) 「辺訪川・延出川・ヌサウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

辺訪川(べぼう──)

kim-un-pipa-us(-i)
山の方・そこにある・カラス貝・多くある(・ところ)
(典拠あり、類型あり)
三石川のランドマーク「蓬萊山」のあたりで合流する支流の名前です。「辺訪」を「べぼう」と読ませるのは中々変わっていますが、字ごとに分解して考えてみると「訪」が濁って「ぼう」になるのが少し無茶かな? と思えるくらいで、実はそれほど無理矢理でも無いような感じがします。

戊午日誌「東部美登之誌」には次のようにありました。

其向ふの方
     キムンヒハウ
左りの方小川。此処キムンヒハウとイマニトカクシナイと対合する也。其名義は山の方に有蚌多きと云よし也。此処より上凡弐十丁余の平原也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.522 より引用)
はい。今は単なる「辺訪川」ですが、元々は kim-un-pipa-us(-i) で「山の方・そこにある・カラス貝・多くある(・ところ)」だったようです。

アイヌ語の地名はその特色・特性をあるがままに表すので、近くで同じ地名(川名)がかぶることが多いのですが、そういった時には別の属性をかぶせて区別していたみたいです。今回の kim-un(山のほうにある)と pis-un(浜のほうにある)もそうですが、panke(川下のほうの)と penke(川上のほうの)なんかが代表的ですね。

ということで、前回の「ピシュンベボウ川」をご覧頂いた方にはバレバレの内容をお届けしました。

延出川(のぶしゅつ──)

nup-sut
原野・麓
(典拠あり、類型あり)
日高本線・蓬栄駅の北で三石川に合流する西支流の名前です。この川名を見た時は、「増毛の『信砂』(のぶしゃ)と似てるなぁ」と思ったのですが、さてどうなりますか。

今回も戊午日誌「東部美登之誌」を見てみましょう。

またしばし過て
     ヌブシユツ
左りの方小川。其名義は濁川にして泥計のよし号し也。然し水は至てよきよりして鮭も上り、また鯇も上る也。其源はシヤマツケイワより落るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.522 より引用)
nup-suop で「泥炭の原野・箱」とでも解釈したのでしょうか。ただ「然し水は至てよき」とも記していますから、薄々「変だな」と感じていた節も伺えます。「其源はシヤマツケイワより落るとかや」というのも変だなぁと思ったのですが、この「シヤマツケイワ」は「社万部山」のことではなくて、現在の「北横山」「横山中岳」「南横山」からなる連峰のことなのかも知れませんね。samatki-iwa で「横たわった・霊山」ですから、そういう意味では「横山」もアイヌ語由来の地名と言えなくも無いですね。

ところで横山たかし・ひろしと言えば(以下略

……気を取り直して。「延出川」でしたよね。永田地名解には次のようにありました。

Nup shut  ヌㇷ゚シュッ  野傍 延出村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.265 より引用)
ふむ。少し「のぶしゅつ」に近づきましたね。続いて更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。

 延出川(のぶしゅつがわ)
 三石川右支流。ヌㇷ゚・シュツで、原野のもとの意と思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.85 より引用)
そうですね。nup-sut で「原野・麓」と解釈したようですが、概ね妥当な解なんじゃないかなーと思います。

ちなみに、増毛の「信砂」の由来も nup-sut では無いかと言われています。ヤマカンが当たった感じですね。

ヌサウシ川

nusa-us-i??
祭壇・ある・もの(川)
(?? = 典拠なし、類型あり)
松浦武四郎も戊午日誌で記したように、延出川はシヤマツケイワ(横山)に源を発しています。延出川は上流部で二つに分かれていますが、東側の支流が「ヌサウシ川」です。

道内各所に同名があるので、今更取り上げることもないような気もするのですが……。nusa-us-i で「祭壇・ある・もの(川)」でしょうね。nusa は「祭壇」としましたが、inaw(木幣)を捧げる祭壇のことで、「幣柵」としたほうが実態に即しているのかも知れません。

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2016年4月22日金曜日

新十津川→京都 1568.9 km (1) 「出発駅・新十津川」

えー、突然サブタイトルが変わりました。これまで函館から新十津川までの旅程をご覧頂きましたが、札沼線(学園都市線)上りの終列車 5434D で札幌に戻る……だけでは飽きたらず、そのまま京都まで戻ることにしました。23 時間 46 分で新十津川から京都まで 1568.9 km を移動しよう……という壮大な計画です。

実にどうでもいい話ですが、伝統のル・マン 24 時間の翌週の出来事でした。
というわけで今回の乗車券なんですが、往路の「函館 → 新十津川(経由:函館線・室蘭線・千歳線・函館線・札沼)」は良いですよね。問題が復路で、「新十津川 → 京都市内(経由:札沼・千歳線・室蘭線・海峡・奥羽・羽越・白新・信越)」でして、その先の経由地がとうとう手書きになってしまいました。駅員さんの字で「直江津 トキめき 上越妙高 新幹線 金沢 北陸 湖西」と追記されています。いやー変な切符をオーダーしてしまって申し訳ありませんです。

ただ、私の前の方は、京都から山科までの切符を「みどりの窓口」で購入していました。京都から山科までは一駅しかありませんが、「経由:東海道新幹線・北陸新幹線・北陸・湖西」という切符だったような。往復で分けて買うよりも安く済むんでしょうかね。

出発駅・新十津川

そんなわけで、何の因果か、札沼線の新十津川駅が妙なチャレンジ?のスタート地点になってしまいました。まだ時間はありますが、早速車内に向かうことにしましょう。
色とりどりの花が美しい新十津川駅ですが、ホームの盛土もご覧のとおり。
原寸で見ると一目瞭然ですが、ルピナス……ですね。
新十津川駅も、もちろん学園都市線(札沼線)仕様の駅名標が建てられています。
隣にはしっかりと「名所案内」も。

石狩当別行き 5434D

石狩当別行き 5434D の車内に入りました。下りの 5433D では進行方向右側の 4 人掛けボックスシートを占有していたので、今回は反対側の 2 人掛けボックスシートを占有することにします(結局占有するのか)。
下り 5433D では浦臼から新十津川までぼっち乗車だったので、復路もぼっちを覚悟していたのですが、なんと地元の方と思しきお客さんが乗車されました! 土曜の夜ですが、新十津川の知り合いを訪問されていたのでしょうか。
新十津川駅には僅か 25 分ほどの滞在でした。今回の旅程を杓子定規に捉えると、目的地は新十津川だったことになるのですが、目的地滞在時間が 25 分だったことになるわけで……(汗)。でも、利用客こそ少なくても、地元の人に愛されている駅なんだなぁ、ということが再確認できただけでも良しですよね。

今回は、新十津川駅とはここでお別れです。ありがとう、また来ますね!
石狩当別行き 5434D は、時間通りに新十津川駅を発車しました。終点の石狩当別には 20:53 に到着する予定です。

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2016年4月21日木曜日

札沼線各駅停車の旅 (17) 「新十津川駅前を散策」

まだ 5434D の発車まで 20 分ほどあるので、駅前を散策してみることにしました。
駅前で一番目立つのがこの案内板ですね。航空写真ベースで新十津川の中心街(と滝川市の一部)が描かれています。赤丸の数字の説明が無いな……と思ったのですが、左側の「中心市街地図」に地図つきで示されていました。
これだったら、最初から「中心市街地図」だけでいいんじゃ……というツッコミが出そうな気もしないでもないですが、新十津川は中心街だけじゃないですからね。石狩川と徳富川の水が育む田園も、町の立派な構成要素のひとつです。

空知中央病院

看板の向こうに見えているのが、「空知中央病院」です。別アングルからご覧に入れますが、かなり立派な病院ですよね。右側の小さな建物が空知中央病院保育所でしょうか。
これだけ立派な病院が駅前にあるんだったら、高齢者を中心に札沼線の利用も伸びそうな気もするのですが、現実はそうでも無いようでした。到着が 9:28 なので、ちょっと病院通いに使うには遅すぎるのかも知れませんね。

駅前……の割には

駅前には「空知中央病院」がある以外は、住宅が目立ちます。商店街……という感じでは無いですね。目の前の交叉点を左折すれば「新十津川町役場」のバス停や、お店や物産館などがあります。どれも国道沿いです。
「駅前」の割にはとっても静かなところで、もはや駅があることが忘れ去られているようにすら思えてしまいますが、やっと駅の存在をアピールするものを見つけました。上の写真にもひっそりと映り込んでいますよね。

神は万物に宿り給う

ちょうど「新十津川駅 →」の案内があるあたりから駅を見てみます。
駅舎はコンパクトですが、ちゃんとバスも入れそうな駅前ロータリーっぽいものまで整備されているんですよね。あと 20 分ほどで最終列車が出るというのに、駅前には人や車の姿はありません。

確かに人や車の姿はありませんが、その代わりに駅前では色とりどりの花々を眺めることができます。
かなり手間ひまかけているんだろうなぁ……と思わせますね。観光協会の方なのか、あるいはボランティアの方でしょうか。駅に命が宿っていることを実感させてくれます。ありがたい限りですね。

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