(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
プッカシナイ川
(?? = 典拠なし、類型あり)
元浦川の上流は「ソエマツ川」と「ニシュオマナイ川」に分かれていますが、「プッカシナイ川」は東側の「ソエマツ川」に注ぎます。音からは put-kas-nay のように思えます。これだと「口・仮小屋・川」となりますが、put は「川口」や「沼口」を表すことが多いので、ちょっと実際の地形に即していない感じも受けます。
この「プッカシナイ川」を遡っていくと、日高幌別川筋の「ルテンベツ川」にたどり着くことができます(正確には「ルテンベツ左股沢川」?)。
プッカシナイ川もおそらく峠道のひとつとして使われていたと思われるのですが、「プッカシナイ」から想像できる峠道っぽい川の名前を考えてみると…… pis-kus-nay あたりでしょうか。これだと「浜・通る・沢」となります。「浜のほうを通る沢」と言う意味になりますね。
少し下流側になりますが、元浦川の支流の「ベッチャリ川」も途中で「ヒシクシヘツチヤリ」と「キムンクシヘツチヤリ」の二つに分かれていたとされます(途中で「ツケナイ川」が合流する川ですね)。
もし「プッカシナイ川」が pis-kus-nay なのであれば、どこかに {kim-un}-kus-nay もあったのかも知れません。プッカシナイ川自体が上流で南北二手に分かれているので、あるいは北側の支流が {kim-un}-kus-nay だった可能性もあるかも知れませんね。
永田地名解の p.274 にも「Pishi kush nai ピシ クㇱュ ナイ」という記載が見られますが、「プッカシナイ川」とは別の川を指している可能性もありそうです。
ニシュオマナイ川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
元浦川の源流の一つです(もう一つが「ソエマツ川」)。戊午日誌「東部宇羅加和誌」には次のように記されていました。
ニシヨイマ
と云、是右也。其名義は臼の事也。昔し此処にて金丁が居て、餅を作りて喰しによって、其臼が残り有りしに依て号と。本名はニシユヲマナイ。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.482 より引用)
「昔、このあたりにいた金掘りが餅を作って食べた時に使った『臼』が残存しているので名付けた」とありますが……。どこかで見たことがあるようなストーリーが展開されていますね。この辺の人はどれだけ餅が好きなんだ……。「本名はニシユヲマナイ」とありますが、素直に nisu-oma-nay でしょうかね。これだと「臼・そこにある・沢」となりそうです。
ただ、戊午日誌のこの記載は、「ニシュオマナイ川」のことではなく「ソエマツ川」についての記載だったかも知れません(ソエマツ川も何故か「ニシユイ」と認識されていたようなので)。というのも、「ニシヨイマ」とは別に次のような記載も見られるからです。
扨また二股よりして左りの方、本川すじえ上り候はゞ、是も同じく岩山多くして転太石也。是を
ニセウマナイ
と云。其儀は両間峨々として絶壁の地有るよりして号るとかや。いとうは此川口まで上りて、是より上えは上らずとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.483 より引用)
なるほど、nisey-oma-nay では無いかというのですね。さて、山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のようにありました。
永田地名解は「ニシュー・オマ・ナイ nishu-oma-nai。臼沢。五葉松多し。此材を用て臼を作るにより此名あり」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.348 より引用)
永田地名解は「臼」という解釈をそのまま引き継いでいたようですね。ただ「臼を作るために使用する樹木が多いから」という、なんともそれっぽい解釈がプラスされているようです。浦川タレ媼は「ニセウ・オマ・ナイ(どんぐり・ある・川)である。それを狩に行く時持って行った」と語られた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.348 より引用)
あー、これもありそうな解ですね。nisew-oma-nay と考えたのでしょう。この川奥は断崖,峡谷になっているようである。あるいはニセイ・オマ・ナイ(断崖・ある・川)からニセオマナイのように変わったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.348 より引用)
最後の最後で現実的にありそうな解に落とし込んできましたね。nisey-oma-nay で「断崖・そこにある・川」ではないか? という読みなのですが、個人的にも同感です。ショシベツ川
(典拠あり、類型多数)
ニシュオマナイ川の西支流の名前です。賢明なる読者の諸姉諸兄におかれましては「あ、三本目のネタは楽なのにしたな」と思われたかもしれませんが、決してそのようなことは無い……とは言い切れない……ような気も……(汗)戊午日誌「東部宇羅加和誌」には次のようにありました。
またしばし上りて
ショウシベツ
同じく左りの方小川也。其上に一ツの滝有りしに依て号る也。また上りて此辺に成るや両岸実に峨々たる岩壁也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.483-484 より引用)
続いて永田地名解を見ておきましょうか。Sō ush nai ソー ウㇱュ ナイ 瀑ノ川はい。どうやら疑いを挟む余地も特に無さそうな感じでした。so-us-pet で「滝・ある・川」だと考えて良さそうですね。アイヌ語では「サ・ス・セ・ソ」と「シャ・シュ・シェ・ショ」は同じだとされるので、so が「ショ」になっても特に不思議は無いというお話でした。
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