安楽な生活去る
第十一信は実に印象的な書き出しで始まりました。伊藤に知らせてくれた人の言う通りだった。安楽な生活は日光で終わりであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.138 より引用)
まぁ、わかっていたことですし、何を今更……という感じもしないでも無いのですが、「安楽な生活去る」という和訳が、味があって良いなぁ……と思ってしまいます。イザベラが、現在の野岩鉄道沿いのルートを通って会津に向かった……ということは把握できていたのですが、どうやら今市から北上したのでは無かったことがわかりました。
私たちは日光のすばらしい社殿や荘厳な杉の森を後にして、長くて清潔な街路を下っていった。そして日光街道の杉の茂みがもっとも深いところで左に曲がり、小川の川床のような道に入った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.138 より引用)
イザベラの言う「小川の川床のような道」というのがどこを指していたのかは、ちょっと良くわからないですね……。この道はやがてひどい悪路となり、大谷川の粗い丸石の間をうねうねと通り、木の枝と土でおおわれた一時的な木の橋をしばしば渡るのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.138 より引用)
イザベラが「神橋」を渡って一旦大谷川の南側を歩いていたのであれば、どこかで大谷川を渡らないといけないのですが、日光駅の東側あたりに小さな橋があったようなので、もしかしたらこの橋を渡ったのでしょうか。美しい景色
イザベラは今市には向かわず、わずかにショートカットする形で小佐越駅のあたりを目指したようです。現在の日光市広久保のあたりからちょっとした峠を越えて、「小百」という集落に向かいます。険しい両側は、楓、樫、木蓮、楡、松、そして杉におおわれていた。それらには多くの藤が花綱となって絡みつき、つつじや、ばいかうつぎの花房で明るく輝いていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.138 より引用)
「広久保」という地名はまさに現地の地形を良く表しているように思えます。峠らしい峠が無い、いわば広い鞍部なのですね。ただ、そう考えると以下の文章と整合性が取れなくなってくるような気もします。どちらを見ても壮大な山が前方に立ちはだかり、滝は雷鳴のようにとどろき、渓流は樹木の間できらきら光りながら流れていた。六月のすばらしい陽光の中で、あたりの景色はとても美しかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.138-139 より引用)
日光から小百の間で滝があるとすれば、間を流れる霧降川の上流部なのですが、「霧降滝」のあたりは現在でも道がないような峻険な地形で、また、随分と遠回りになってしまいます。日光市霧降から霧降川を越えて小百川に向かう道はある(但し自動車は通れないと思われる)のですが、遠回りになるのはこれも同じなんですよね。イザベラは馬上の人でしたから、やはりこのルートも考えづらいような気がします。驚き
イザベラの旅程を推測する上で、いいヒントが記されていました。イザベラの行程は一時間あたり 4 km 程度(約 2.5 マイル)だったようです。私たちは毎時一里以上は進めなかった。石の間や深い泥の中をのたうつようにして行くだけだったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.139 より引用)
イザベラと伊藤は、それぞれ別の馬に乗っていましたが、自由に駆けるわけではなく、馬子に導かれながらの移動でした。ですから、当然ながら人の歩く速度以上は出せなかったわけですね。イザベラ一行に馬を貸した女性は健気に歩いていたとのことですが……着物を帯で締め、草鞋をはいた女の馬方は、健気にもてくてくと歩いて行ったが、突然、手綱を投げ大声で叫んだかと思うと後ろに逃げた。大きな茶色の蛇にすっかり仰天したのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.139 より引用)
蛇が苦手だったみたいですね。なんともお茶目な話です。農家
イザベラ一行は日光市小百(こびゃく)という集落にやってきました。目分量で見た限りでは、日光市広久保から日光市小百までで約 3 km と言ったところですね。三時間ほどのろのろ進んでいってから、小百という田んぼの谷間の端にある山村で馬から下りた。女は荷物を数えて、その無事であることを確かめ、待って心づけをもらうこともなく、馬を連れて帰ってしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.139 より引用)
実は蛇が苦手だった馬子の女性ですが、とても純朴で実直な性格だったようですね。イザベラは朝の 6 時に日光を発ち、小百にやってきました。「三時間ほど」というイザベラの記述が正しければ、この時点で午前 9 時過ぎだったことになります。実際の距離を考えると、もう少しかかっていたような気もしますがどうでしょうか。
この家屋は、ある金持ちの酒造家の庭先にあった。私は、一時間待ったが、空腹になったので、少しばかりの薄茶と麦かゆをとり、さらに一時間、その上また一時間待った。馬はみな山へ行って草を食べていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.139 より引用)
イザベラが誰を待っていたか……という話ですが、前後の文脈を見る限りでは代わりの馬を待っていたようです。珍しい服装
イザベラ一行を待たせていた小百の人々が帰ってきました。どうやら大麦の収穫をしていたようですね。少しざわめきがあったと思うと、人々が大麦の束を背負って帰ってきて、それを軒下に積んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.139 より引用)
小百の人々についての描写が続きます。ほとんど着物らしいものを身につけていない子どもたちは、何時間も傍に立って私をじっと見ていた。大人も、恥ずかしいとも思わずその仲間に加わった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.139 より引用)
イザベラは、目の当たりにした奇妙な光景を、次のような引用文で紹介していました。あなたはマッグレガー博士の最後の説教の言葉を記憶しておられるだろうか。「あなた方はきっと妙な光景を見るだろう! 」。上品そうな中年の男が、縁側で腹ばいになり、肘をつき、身につけているのは眼鏡だけで、本を熱心に読んでいる──こんな妙な光景が他にあろうか。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.140 より引用)
なるほど……。ほとんど何も身に着けていない状態……これは未開の文化の象徴として捉えられますが、そうでありながら本を熱心に読んでいる……これはいかにも文化的な行為の象徴だと捉えることができます。このアンバランスさをイザベラはとても奇妙に思った、ということなのでしょうね。www.bojan.net
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