2016年3月19日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (325) 「乳呑・ウロコベツ川・浦河」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

乳呑(ちのみ)

chi-nomi(-sir)
我ら・祈る(・山)
(典拠あり、類型多数)
浦河町中心部のやや東寄りを流れる川の名前で、住所としては「東町ちのみ」という名前になっているようです。この地名の意味は、すぐに見当がつく方もいらっしゃるかも知れません。

今回は、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょうか。

 乳呑(ちのみ)
 浦河町の東、町はずれの地名。アイヌ語のチノミ・シリ(吾々の祈る山または岩)の後を略したもの。同じ地名は東静内やその他各地にある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.86 より引用)
はい。chi-nomi(-sir) で「我ら・祈る(・山)」という意味で、-sir が省略されたということのようです。同じ地名が道内各所にあるとのことで、「乳呑尻」という地名があっても良さそうなものですが……。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、「乳呑」という地名について、かなり詳しく記されています。

チ・ノミ・シリ(chi-nomi-shir 我ら・礼拝する・山)の意。諸地で,山や断崖の処が神の居所としてこの名で呼ばれ,崇敬されている場合が多いが,従来浦河のこの辺を通ってもそれらしい地形が見当たらないので変だと思っていた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.344 より引用)
ふむふむ。確かに変な感じがしますね。

 土地のアイヌ系古老浦川タレ媼に聞いたら,乳呑川の東岸の山が海に突き出している処だった(国道235号線を通すため,その尾根の根もとが切通しになって,独立丘の形になっている)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.344 より引用)
現在の地形図で見ると、海抜 40.3 m の三角点がある丘のことのようですね。

ここの場合のチノミシリは,礼拝の対象になる山ではなく,「礼拝の場所であった」山なのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.344 より引用)
なるほど。祈りの対象としての「チノミシリ」ではなく、祭事を行う場所としての「チノミシリ」だったのですね。

ウロコベツ川

woro-ka-pet?
水につける・させる・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
乳呑川の西隣を流れる川の名前です。浦河町の「常盤町」「旭町」のあたりを流れていますね。現行の地形図には名前が記されていない程度の小さな川ですが、東西蝦夷山川地理取調図や明治期の地形図などにはしっかりと名前が記されています。

東西蝦夷山川地理取調図には「ウロコヘツ」という名前の川として記されていて、支流、あるいは隣接する地名として「カハチリニセシ」「ラシヨナイ」などとあります。

東蝦夷日誌には次のように記されています。

沙濱(四町廿間)ウロコツベ〔ベツ〕〔鱗別〕(川幅五六間、人家六七軒)名義、ウロベツにて、草を苅り干す也。又フロコベツにて、何處よりか鹿一匹來り死せしを、箱に人葬りし故事有。兩岸平地、蘆原なり。
 川筋カハチセニセリ(左)、ラシヨナイ(右)、源シルトル、後はウヌンコイ岳に到る。魚類鯇のみ也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.203 より引用)
おお。「カハチリニセシ」が「カハチセニセリ」になっていますね。この程度の情報のブレがあることを前提に考えるべきだと言うことのようですね。

また、戊午日誌「東部保呂辺津誌」には次のようにあります。

また是よりして小山一ツこへて下りてウロコヘチ(ツ)の川すじえ下る。則
     ウロコヘツ
川巾五六間、瀬浅くして急流、山皆雑木立也。其名義は、本(元)はウロヘツにして草を干てより川え附しといへる義なるよし也。また一説にフロコヘツといふ。昔此河に何処より来りしや鹿一疋死せしを、箱らしきものに入れて俵に包み有りしを、夷言フロコと申をフロコ(ベツ)と訛り、それが今ウロコに成りしなりと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.425 より引用)
ちなみに、この後「カハチリニセリ」「ラシヨナイ」と続きます。「ラシヨナイ」については伝家の宝刀「其名義不解也」が飛び出していますが、「カハチリニセリ」については {kapa(r)-cir}-nisey ではないかとのこと。ああなるほど、これだったら「鷲(鷹)・崖」と解釈できますね。多数決で考えるのも変な話ですが、今回は「東西蝦夷──」と「戊午日誌」のほうが正解に近かったのかも知れません。

何故か「ウロコベツ」よりも「カパチリニセイ」(?)の話ばかりになってしまっていますが、本題に戻りましょう。永田地名解には次のようにあります。

Urukko pet  ウルッコ ペッ  ウルッコ魚ノ川 「ウルッコ」ハ魚ノ名、和名未詳、「フロコペッ」ト云フは非ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.271 より引用)
松浦説を全否定して、新たな説を提示してきましたね。「ウルッコ」という魚について知里さんの「動物編」を見てみたところ、確かに urutkourukko というエントリーがあったのですが、どちらも「永田地名解に記載があったけど詳細不明」という扱いでした。

永田方正が否定した「フロコペッ」について少し考えを巡らせると、和語の「袋」だった可能性は考えられないでしょうか。「俵に包む」というところが、どことなく「袋」っぽいんじゃないかと。

山田秀三さんは「北海道の地名」で、次のように記していました。

ウロコベツ川
 浦河市街の東を流れる川(乳呑川の一本西)。東蝦夷日誌は「ウロベツにて,草を刈り干すなり」と書いたが,どうも分からない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.345 より引用)
いやはや、どうにも分からないですよね。諸説を並べてみて一番しっくり来たのが戊午日誌の説でしょうか。woro-ka-pet であれば「水につける・させる・川」となりそうな気もしますが、いかがでしょう。

浦河(うらかわ)

? ??
鹿の腸
urar-pet?
霧・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
日高地方南部の町で、日高振興局の所在地でもあります。早速ですが「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  浦 河(うらかわ)
所在地 (日高国)浦河郡浦河町
開 駅 昭和10年10月24日
起 源 アイヌ語の「ウラル・ペッ」(もやの深い川)から出たものといい、今の元浦河を指すものであるという。松前藩のときウラル・ペッ川畔に運上屋をおき、浦河場所と称したが、幕府直轄後ここに会所を移したため、この地を「浦河」というようになった。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.94 より引用)
まず押さえておかないといけないのが、「浦河」が「お引越し地名」ということです。「浦河」は、もともとは現在の「元浦川」沿いの地名だったのが、江戸時代に会所を移した際に「浦河」という地名をそのまま持ってきたという経緯があります。同様の例は「増毛」や「紋別」にも見られますね。

「浦河」は古くから記録が残されている地名なのですが、その解釈にはいくつかの流儀があるようです。山田秀三さんの「北海道の地名」に良くまとめられているので、ささっと引用しておきましょうか。

上原熊次郎地名考は「ウラカワ。夷語ヲラカなり。則腸と申事にて,昔時此処山海の漁猟ありて,魚獣の腸多く□有る故地名になすといふ。未詳」と書き,松浦氏東蝦夷日誌は「本名ウラカにして雲靄立上る処なり。土人は禽獣の腸の事とも云へり」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.346 より引用)
どうやら「禽獣の腸」説と「霧・霞」説があるようですね。

また永田地名解は「ウララ・ペッ。霧・川。一説ヲラリペツにて沙深き川の義」と書いた。一番古い秦檍麻呂地名考は「ヲラカの訛語なるべし。鹿腸の名也と云。名義未詳」と書いている。この説が古くから伝えられたものらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.346 より引用)
ということで、どうやらもともと「鹿の腸」という説があり、その後「霧・川」説が出てきたという感じでしょうか(和人は「穢れ」を忌避するためには改名も厭わないですから)。ただ、「ヲラカ」が「鹿の腸」であるという裏付けが取れていません。知里さんの「人間編」には「腸」を意味する語彙が 23 種類も採録されているのですが、いずれも「ヲラカ」「ウラカ」との類似性が見えないのですね。今後の課題にしたいです。

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