2016年1月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (312) 「長臼・旅来・安骨」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

長臼(おさうす)

o-sa-us-i
(山の)尻・浜のほう・ついている・ところ
(典拠あり、類型あり)
中川郡豊頃町の旧地名です。1980 年頃の地図(土地利用図)には普通に記載されていたのですが、現在の地形図には残念ながら記載がありません。日本郵政 Web サイトの「豊頃町の住所一覧」にも「長臼」という名前は見当たらないので、統廃合されてしまったのかもしれません(「礼作別」は現存しているのにね)。

では、早速ですが山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

長臼 おさうす,おさうし
 大津川を川口から約7キロ上った処の地名。オ・サ・ウシ・イ「o-sa-ush-i(山の)尻が・浜(大川端)に・ついている・処」ぐらいの意であったろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.291 より引用)
読みが二通り記してあるのですが、1980 年頃の地図(土地利用図)には「おさうす」とルビが振ってあったので、とりあえず本項は「おさうす」で進めます。o-sa-us-i で「尻・浜(前のほう)・ついている・ところ」と解したのですね。なかなか巧みな解ですが、o- を「(山の)尻」としたのがちょっと珍しい印象を受けます。

念のため、もう少し他の可能性も追いかけてみましょう。我らが「角川──」(略──)には次のように記されていました。

 おさうす 長臼 <浦幌町・豊頃町>
 古くはヲサウシともいった。十勝地方南東部,大津川右岸。地名の由来には,アイヌ語のオサンウシ(山尾の意)による説(北海道蝦夷語地名解),オサルウシ(川尻にヨシが群生する所の意)による説(豊頃町史),オサッウシ(川尻がいつも乾いている所の意)による説(同前)などがある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.278 より引用)
ふむふむ。永田地名解は o-san-us-i で「尻・(山から浜へ)出る・いつもする・ところ」と解したのですね(永田地名解自体には「山尾」と書かれていて、その註には「山尾ノ低ク川中ヘ出タル處○長臼(オサウス)村」とあります)。

そして、豊頃町史には二つほど別解が記されているようですね。o-sar-us-i で「川尻・葭原・多くある・ところ」か、あるいは o-sat-us-i で「川尻・乾いている・いつもする・ところ」という解のようです。どちらもアイヌ語の地名としておかしな感じは受けません。

もう少し記録を遡ってみましょうか。戊午日誌には「ヲサウシ」とある反面、東西蝦夷山川地理取調図には「ヲサリケウシ」と「ヲシヤリニ」という記載が並んでいるのを確認しました。なるほど、豊頃町史が「別解」を出してきたのは、これがベースだったのかもしれませんね。

「ヲサリケウシ」を o-sar-ke-us-i だと考えると「尻・葭原・のところ・多くある・もの」と読み解けますが、sarke で受ける例を知らないので少々びみょうな感じもします。あるいは o-sar-kesi で「(川)尻・葭原・その末端」と読めなくもありません。「ヲシヤリニ」であれば o-sar-un-i あたりでしょうか。これであれば「尻・葭原・そこに入る・もの」と読めなくもありません。

実際の地形と照らしあわせてみましょうか。山田秀三さんは「大津川を河口から約7キロ上がった処」としていますが、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のようにありました。

 長臼(おさうす)
大津より五キロほど上流の部落名。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.238 より引用)
地名解の部分は永田地名解の引用なので、ささっとカットして……。

古い五万分図では現在の長臼部落より、一キロほど大津寄りの山端についている。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.238 より引用)
これらの記載を元に 1980 年頃の土地利用図から推測すると、「十勝河口橋」のちょうど西側のあたりの地名のようにも思えます。もう少し北側には、かつては「葭原」だったと思える地形が広がっているのですが、どうやら山が大津川(十勝川)に迫ったあたりの地形だったと見るべきみたいですね。

諸説を散々見てきましたが、山田説の o-sa-us-i で「(山の)尻・浜のほう・ついている・ところ」あたりが正解に近そうな感じがします。あるいは「ヲサリケウシ」が「ヲサンケウシ」だったと考えると、o-{san-ke}-us-i で「(山の)尻・{浜のほうへ出す}・いつもそうである・ところ」と読み解くこともできそうですね。最後の解はあくまで試案ということで。

旅来(たびこらい)

tapkop-ray
円山・死んでいる
(典拠あり、類型あり)
豊頃町東部の地名です。国道 336 号の「十勝河口橋」が開通するまでは、旅来と対岸の浦幌町愛牛の間に「旅来渡船」が出ていました。フェリーではなく渡船で連絡している国道が 1990 年代まで現存していたのは驚きですよね。

さて、その響きからして素敵な印象を受ける「旅来」ですが、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 旅来(たびこらい)
 大津に至る途中の部落。アイヌ語のタㇷコㇷライで、タㇷコㇷは瘤のような山、ライは死ぬこと。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.238 より引用)
ふむふむ。確かに tapkop-ray で「円山・死んでいる」と解釈することができますね。

永田氏は「戦死の小丘。戦場ナリ。旅来村ト称ス。松浦地図「タプコイ」トアルニ拠リテ誤ル」とある。現在神社のある小学校裏の丘の名である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.238 より引用)
あー、確かに丘の上に神社が存在しますね。なるほど、どことなく「タㇷ゚コㇷ゚」っぽい感じがしないでも無いです。

ただ、「戦死の小丘」説については更科さんも否定的だったようで、

古川をライペッ(死川)とよぶようにくずされた丘に名付けられたのではないかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.238 より引用)
という説を立てていたようです。もっとも、川が「死ぬ」ことは良くありますが、丘が「死ぬ」ということはそれほど無いような気もするので、ちょっと引っかかる感じもしますが。

もう少し追いかけてみると、「角川──」(略──)にこんな記載があるのが見つかりました。

 たびこらい 旅来 <豊頃町>
古くはタフコライと称した。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.844 より引用)
ふーむ。東西蝦夷山川地理取調図に「タツフコイ」とあるのは誤りではないかと言われていますが、これを見てもそんな感じがしますね。

地名の由来には, アイヌ語のタプコプライ(丸山で死んだの意)による説, タプカルライ(踏舞して死んだところの意)による説がある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.844 より引用)
これはまた……。tapkop-ray だけでも頭を抱えているのに、新たに {tap-kar}-ray という珍説まで出てきてしまいました。「舞い踊って死ぬ」というのも相当意味不明ですが、

なお,当地には当地のアイヌと日高アイヌが戦った時に,傷つき死に瀕した首長が踏舞したという伝説がある(豊頃町史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.844 より引用)
こんな地名説話まであるのですね……。そう言えば、これもやはり十勝アイヌの武勇伝? ですね。

本題に戻りましょう。さすがに「舞い踊って死ぬ」というのは余りに意味不明なので、一旦は省いて考えたいと思います。となると tapkop-ray という選択肢しか残らないのですが、「戦死の小丘」というのも相当変な感じがしますよね。

更科さんは「死にゆく丘」ではないかとしましたが、あるいは逆に「死んだように静かな丘」なのではないか、という気がしてきました。例えば道東の「雷別川」は「流れが死んだように静かな川」ではないか、とされています。

旅来のあたりの十勝川(大津川)は、周辺に河跡湖が数多くあることからも、結構な「暴れ川」だったと考えられます(町境が揺れていることからも、それを窺い知ることができますね)。そんな地勢の土地にあって、旅来の小丘は「常にそこにある」ランドマークとして認識されていたので、「静かなる小丘」と呼ばれたのでは……と考えてみたのでしょうが、いかがでしょうか。

安骨(あんこつ)

chasi-kot
砦・跡
(典拠あり、類型多数)
最初の二件で文字数がエライことになってしまっているので、最後はあっさりと行きますね。豊頃町東部にして十勝川西岸で、カンカン山の麓の地名です。

では、あっさりと山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

安骨 あんこつ
 旅来の北の地名。これも妙な名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.291 より引用)
確かに妙な地名ですよね……。もちろん、まだ続きがあります。

明治29年5万分図では安骨にチャシコツと振り仮名し,チャシコッナイという小流が書かれている。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.291 より引用)
あっ(!)。なるほど、なんとなく全貌が見えてきましたね(笑)。

チャㇱ・コッ(chash-kot 砦・跡)が原名で,それに安骨と漢字をつけたのだが,読みにくいので音読みになって「あんこつ」となったものらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.291-292 より引用)
chasi-kot はそれこそ道内各所にある地名で、「砦・跡」という意味ですが、「安骨」という字を当てて「ヤスコツ」と読ませようとした……けれど、ちゃんと読んでもらえなかったので、結局「アンコツ」と読むようになっちゃいました、というオチだったようです。無理やり当てた漢字に引きずられて読みが変わってしまったという、よくある地名の悲喜劇のひとつだったのですね。

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2016年1月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (311) 「大津・長節湖・ワッカリベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

大津(おおつ)

oho-ut-nay?
深い・脇(肋)・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
豊頃町南東部の、十勝川河口に面した集落の名前です。現在は「十勝川」の河口ですが、この川は明治の頃は「大津川」という名前で呼ばれていました。大津集落の名前も、この「大津川」から来ていたと考えられそうです。

戊午日誌には次のように記されています。

其右の方は
     ヲホツナイ
本名ヲウツナイと云て、深き沢と云儀なり。今其川追々広く成りて如此川に変じたり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.239 より引用)
ふむ。「深き沢」なのであれば ooho-nay かな、と思うのですが……。もう少し調べてみましょうか。山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のようにありました。

 上原熊次郎蝦夷地名考は「ヲホツナイ。夷語ヲホウツナイなり。則,深き枝川と訳す。此川トカチ川枝流なれば,往時は至て狭き川なれど,□年大川となるよし。扨又,ヲホウツナイ数ヶ所落合ふて大川となる故此名ありといふ」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.290-291 より引用)
ふむふむ。上原熊次郎と言えば幕末のアイヌ語通詞(通訳)ですが、oho-ut-nay ではないかと言うのですね。

 永田地名解は「オオホッ・ナイ oohot-nai(深・川)。元来十勝川の分流なるを以てナイと称すれども,今は本流よりも大なり。大津村」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.290-291 より引用)
またしても孫引きで失礼します。なるほど、oohot-nay ではないかと言う説ですね。服部四郎さんの「アイヌ語方言辞典」を見たところでは、「(水かさが)深い」という言葉は ’ohó あるいは ’o’óho と記録されていて、oohot という形は見当たりません。また、帯広方言としては ’o’ó と記録されています。oo という異型?は知里さんの「──小辞典」にも記載がありますね。

松浦武四郎の「蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付」には、「十勝州」の中に「大津郡」という郡名が建議されています。草風館の「アイヌ語地名資料集成」に採録されている版には、「大津(郡)」のところに「ホフツ」というルビが振られているのですが、これは松浦武四郎が「大津は『ホフツ』である」と認識していた……ということなのでしょうか。

武四郎さんのエライところは、ちゃんとセカンドチョイスまで書いているところで、「大津郡」の下には「落内郡」(ヲツナイ──)と記されています。これらの情報から考えるに、元となるアイヌ語地名にも「ツ」に近いものが含まれていたと見たほうが良さそうに思えます。

となると、実は素直に上原熊次郎説に従うのが正解なのかもしれません。oho-ut-nay で「深い・脇(肋)・川」だったのではないでしょうか。現在の十勝川河口がかつては「大津川」と呼ばれていたことは首記の通りでして、本流(現在の「浦幌十勝川」)が「背骨」だと捉えた場合、「支流」の「大津川」は背骨から出る「肋骨」のようなものですからね。

長節湖(ちょうぶし──)

chi-o-pus-i
我ら・そこで・破裂する・所
(典拠あり、類型あり)
豊頃町大津の「大津漁港」から見て、南西 2~3 km 先に位置する湖の名前です。浦幌のあたりは河跡湖が多かったですが、長節湖は沿岸流によって形成された砂浜によって海がせき止められた「潟湖」(せきこ)です。潟湖にありがちな話ですが、地図上で見た限りでは、開口部と思しきところも「長節浜」によって塞がれている状態です。まぁ、最狭部の幅は 50 m も無いので、その気になればいつでも開口部ができそうな気もしますが……。

さて、道内には「長節湖」という湖が、少なくとも二つあったりします。ここ十勝の「長節湖」と、もう一つは根室の「長節湖」です。根室の「長節」は「ちょうぼし」と読むのが正式なのだそうですが、十勝は豊頃の「長節」は「ちょうぶし」と読むのが正解です。

では、今回も山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

上原熊次郎地名考(文政7年)は「チヲブシ。自ら破れると訳す。此沼折節破れる故字になすといふ」と書いた。チ・オ・プㇱ・イ「自ら・そこ(川尻)を・破る・もの(沼)」,つまり「破れる沼」の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.324 より引用)
はい。どうやら根室の「長節湖」と由来も同じだったようで(根室のほうは異説もありますが)、chi-o-pus-i で「我ら・そこで・破裂する・所」だったようです。

沼尻が砂で塞がれるか,沼の水位が高くなると,自然にプシッと沼尻が破れて流れ出す沼なのでそう呼ばれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.324 より引用)
あー、「プシッと」というのは盲点でした。pus もオノマトペだと捉えることもできるかも知れませんね。

ワッカリベツ川

wakka-pekere-pet
水・清冽な・川
(典拠あり、類型あり)
長節湖に注ぐ川としては「長節川」がその最たるものですが、長節川の河口のすぐ近くで合流する「ワッカリベツ川」という支流もあります。この「ワッカリベツ川」、音感からしてアイヌ語由来っぽいのですが、どうにも意味が良くわかりません。「水が高い川」というのもかなり意味不明ですし……。

……などと思っていると、あっさりと答らしきものが見つかりました。明治期の地形図を見てみると、現在の「ワッカリベツ」のところに「ワㇰカペケレペツ」と書いてあるではありませんか。

「東蝦夷日誌」にも、次のように記されていました。

チヨブシ〔長節沼〕(沼有、周二里)、時化の時、沼口破れ舟にて渡す(小休所、夷家有)。名義は自ら破るゝ儀なり。チは自ら、ヲブシは破るゝと云。
 西岸ホンチエフコエキウシ(小川)幷てヲンネナイ(小川)、シンノシケチヨウシ(小川)、是より川に人てワツカヘケレ(左川)、シケレベカルシ(左川)、ヘトトタヌシ(左川)、エトイムシ(中川)三ツに成る。源はチヨブシ岳に到る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.276 より引用)
ということで……。どうやら現在の「ワッカリベツ川」は、元々は「ワッカペケレ」だったと考えて良さそうです。おそらくは wakka-pekere-pet で「水・清冽な・川」だったのでしょうね。

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2016年1月29日金曜日

冬の北海道の旅 (19) 「看板これくしょん」

上士幌町にやってきました。上士幌町のあたりの道路も綺麗な碁盤の目状に整備されているのですが、国道 241 号(と国道 274 号の重複区間)は、見事に碁盤の目の「対角線」の上を通っています。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
そして、上士幌町から出ている国道 273 号は、碁盤の目を形成する道路そのものです。というわけで、
必然的に、案内標識はこんなデザインになってしまうのでした。十字路+斜めの道路(国道 241 号・国道 274 号)の「六叉路」ですね。

実写版?

案内標識の裏側に名所案内のようなものが用意されているのは、サロマ湖のあたりでも良く見かけましたが、上士幌町の国道 273 号ではこんなデザインのものを見かけました。
旧・国鉄士幌線のアーチ橋があしらわれたデザインなのですが、これは写真をラミネートしたものでしょうか? 音更川への映り込みが美しいのですが、ちょっと芸術点が高すぎでしょうか……?

看板と言えば

北海道で見かける「看板」と言えば、これも外せないですね。
上士幌町の中心部を流れる「サックシュオルベツ川」の案内板です。「川の名の由来」が書いてあるのがいいですね(もしかしたら、この「川の名の由来」は山田秀三さんの「北海道の川の名」がベースなのかも)。

そして看板

では、道路の上の看板の話題に戻りましょう(結局看板なのか)。左折すると「上士幌町航空公園」というのが、いかにも「熱気球の町」と言った感じですね。ただ、どの辺が「航空公園」なのか、良くわからなかったりもするのですが……(実は未だに行ったことが無いのです。現地に行けば一目瞭然なのかも)。
そして、信号の向こう側に見えているこちらの看板……(また看板か)。「幌加温泉」の上の謎の空白が気になりますね。
おそらく、元々何かが書かれていたのを消したのだと思うのですが、消されたのはどこなのでしょうね。もしかして岩間温泉……?

何故に緑一色

今度は看板ではなく電光掲示板なのですが……。
何故にこの色遣い……(緑一色)。「一面の銀世界」からは、もっとも遠い色だと思うのですが……。もちろん、液晶が緑しか発色できない、ということでも無いみたいなのですけどね。

またしても看板

ここまで 7 枚、全て「看板」あるいは「電光掲示板」の写真を続けてご覧いただきました。こうなれば行けるところまで……
ということで今度は路傍の看板を。旧・国鉄士幌線の中でも、糠平と十勝三股の間は廃止前の「休止期間」が長かったおかげで、結果的に音更川にかかる橋梁群の多くが解体を免れるという幸運がありました。このあたりの橋梁は美しいアーチ橋が多く、今では立派な観光資源となっています。旧士幌線のアーチ橋をめぐるツアーについては、糠平の「鉄道資料館」で案内してますよー、という看板でしょうか。

最後まで看板

そして、道内で良く見かける看板がもう一つありました。
それでは、次回をお楽しみに……

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2016年1月28日木曜日

冬の北海道の旅 (18) 「『士幌町の』『日本一』」

何かと謎な士幌町の、何かと謎な国道 274 号で音更川を渡ります。
何かと謎な(しつこい)士幌町ですが、今度は真っ暗な信号機が出てきました。
……単に「工事中」だったのだと思いますが、その割にはどこにも何も貼ってないのが不思議な感じです。あと前方に木々が見えていますが、もしかしたら旧・国鉄士幌線の防風林かもしれません。

士幌町は「じゃがいも」だけでは無かった

国道 241 号との交叉点にやってきました。左折すると士幌の市街地で、右折すると「中士幌」(同じく士幌町)の市街地です。そして、国道 274 号はどこへ消えてしまったのでしょうか。さすがは何かと謎なs(ry
左折して、国道 241 号で北北東に向かいます。800 m ほど走ったところで「道の駅」の風車が見えてきました。ちなみにこの道の駅の場所は、国鉄士幌線の跡地だった筈です(士幌駅があったところよりは 800 m ほど南側ですが)。
この風車、よーく見ると……
なんと風車の羽根?に文字が埋め込まれています。「士幌町の」「日本一」「じゃがいも」「肉用牛」と読めますね。なるほどー、士幌町は「じゃがいも」の印象が強かったのですが、「しほろ牛」も絶賛プッシュ中なんですね。

誰と走っても三国峠

国道 241 号は、士幌の中心街を避けるような形でとても緩やかな S 字カーブを描いています。東遷が終わって再び北北東に向きを変えようかというところで、「もう一つの」国道 274 号と合流します。まるで生き別れの兄と再開したような感じですね(どこがだ)。この先は間違いなく国道 241 号と国道 274 号の重複区間のようです。
「君と走ろう三国峠」の看板も健在です。何度見ても何を言いたいのか良くわからないのですが……(汗)。ま、インパクトがあるので良しとしましょう。
国道 241 号(と国道 274 号の重複区間)が緩やかに右にカーブしています。ナイタイ高原牧場に向かう道は実は直進なのですが、道路がわざわざクランク状に曲げられています。実はこのクランクも、そして国道自体の緩やかな右カーブも、国鉄士幌線があったことによるものです。左側に街路樹のような木々が見えますが、ちょうどこの木々の横を国鉄が通っていたみたいですね。

気球の町・上士幌町

400 m ほど走ったところで、士幌町を抜けて上士幌町に入ります。
上士幌町と言えば、「ふるさと納税」の返礼品が凄い!と話題の自治体ですが、バルーンフェスティバルでも有名なところですね。ということでカントリーサインも気球が並んでいます。わかりやすいですね!

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2016年1月27日水曜日

冬の北海道の旅 (17) 「何かと謎な士幌町」

鹿追町の国道 274 号線を北北東に進みます。前方に信号機のある十字路が見えてきました。国道 274 号は十字路を右折して、鹿追町瓜幕に向かいます。
1.5 km ほど東南東に進んだところの十字路を左折して、再び北北東に向かいます。この方角からもおわかりかと思いますが、この辺りは碁盤の目状に道路が整備されています。
交叉点を曲がったところが鹿追町瓜幕の集落です。鹿追町第二の集落……になるのだと思いますが、やはり役場のあるあたりと比べると、町の規模が小さいようにも思えます。右手に郵便局が見えますね。

お別れも四ヶ国語で

2 km ほど北北東に進んだところで、再び右折します。ここからは、10 km 以上ほぼまっすぐな道が続きます。さすが北海道ですね!
国道 274 号は、この先「士幌町」「上士幌町」を経由して「足寄町」に向かいます。
交叉点を右折してから 7.5 km ほど走ったところで、ついに鹿追町とお別れです。お別れの挨拶も、ご覧のとおり四ヶ国語対応です。

このカントリーサインは……

そして程なく士幌町に入ります。
士幌町のカントリーサインは……んー、これはちょっとした謎かけのような感じですね。牛と……何でしょうか? 士幌町はジャガイモの生産が盛んな土地のようですが……。

どこへ行っても士幌町

今度は案内標識が謎かけモードになりました。ずっと国道 274 号線を東南東に走ってきたのですが、まっすぐ行くと国道 274 号で、左折しても国道 274 号のように見て取れます(そして実際にその通りです)。
答え合わせをしてしまうと、確かこの交叉点は T 字路だったと思うのですね。ところがいつの間にか士幌町中心部へのバイパス路が整備されてしまったので、どっちに行っても国道 274 号というややこしい状態になってしまいました。「士幌市街へは左折」と出ていますが、ぶっちゃけ直進しても左折しても距離も大して変わらないので……なかなか謎な感じです。いずれ旧道の国道指定が解除されるんでしょうかね……。

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2016年1月26日火曜日

冬の北海道の旅 (16) 「ようこそ鹿追町」

問題の(そうでもない)登坂車線を登ると、清水町美蔓の集落に入ります。
台地を完全に登り終えたところで、登坂車線はお役御免です。

鹿と然別湖?

清水町美蔓に入ってから 2 km ほど北東に進むと「鎮錬川」を渡ります(谷が埋められているので、川を渡るという感じはあまりしないのですが)。ここからは河東郡鹿追町に入ります。
カントリーサインは……もしかして、そのまんま「鹿」ですかね(汗)。後ろは然別湖でしょうか。
あえて正解を調べずに印象だけで勝負してみます(笑)。頓珍漢な解釈をしていたら指さして笑ってください。

歓迎は四ヶ国語で

鹿追町の中心街が近づいてきました。然別川の東側に位置する町で、鉄道が無いことを差し引いて考えると、なかなかの規模の町ですね。
四ヶ国語で歓迎してくれています。タモさんの出番でしょうか(古いね)。

謎の「トリムセンター」

まだ市街地の南端ですが、謎な看板を見かけました。「トリムセンター」とは、一体何でしょう?
さすがに良くわからなかったので軽くググってしまったのですが、どうやら「町民の保健福祉と健康増進の拠点とし、心身の健全な育成と増進をはかり、健康と生きがいに寄与するため」の施設なのだそうです。うーん、何故に「トリム」なんでしょうね。てっきりデイサービス向けの散髪屋さんか何かかと思ってしまいました(汗)。

神田日勝記念美術館

「トリムセンター」のすぐ先には、役場や道の駅などの施設が密集した一角があります。セブンイレブンが見えますが、手前左側にはセイコーマートもありますね。
そして、道路右側にはこんな看板が。
鹿追町が産んだ……ではなくて、鹿追町が育んだ(練馬出身とのこと)画家・神田日勝を記念した美術館があるそうです。この日は生憎時間が取れずにスルーしてしまったのですが、近いうちに一度見ておきたいですね。

野原のかみにある山

国道 274 号は、鹿追町の市街地を抜けて、さらに北北東へと進みます。前方右寄りに、同じくらいの高さの山が並んでいるのが目を引きますね。右側の、雪が多そうな山が「東ヌプカウシヌプリ」と「西ヌプカウシヌプリ」のようで、ちょうど二つの山の間を入っていったところに「然別湖」があるようです。
さらに北北東に 4 km ほど進んだところに、陸上自衛隊の鹿追駐屯地がありました。なるほど、現在でもそこそこの街の規模を保つことができているのは、自衛隊の存在も大きいのかもしれませんね。

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2016年1月25日月曜日

冬の北海道の旅 (15) 「美がはびこる登坂車線」

国道 274 号は、清水町で国道 39 号との重複区間に入りました。

重複区間終了のお知らせ

ただ、この重複区間は僅か 300 m ほどで、国道 274 号はこの先を右折して鹿追町に向かいます。

金平川?

再び、国道 274 号線の単独区間に戻りました。直進すると鹿追、そして上士幌です。「金平川」(きんぺい──)という川が見えますが、こんな川があったんですね(知りませんでした)。
鹿追町と言えば「然別湖」ですね。実はまだ然別湖には行ったことがありません。一度行っておきたいと思っているのですが……。

アップダウンを繰り返し

十勝平野は台地状の地形が多いので、国道 274 号も台地を駆け上がったら逆に降りて行ったりとアップダウンが激しいですが、平地部ではご覧のとおり、北海道らしいまっすぐな道です。下佐幌(清水町)の段丘を下りて人舞(清水町)に降りようとしているところですね。

美がはびこる登坂車線

上川橋で十勝川を渡り、熊牛(清水町)のあたりを東に向かいます。ここから美蔓(清水町)に向かうのですが、なんと 80 m 近い標高差を登らないといけません。ということで、前方にはかなり立派な登坂車線が見えてきました。
登坂車線の途中で、なんと「美蔓パノラマパーク」の案内が出てきました。駐車場には右折で入場しないといけないらしいのですが、これ、日高町で見たのとそっくりな構図ですよね。右折待ちの車が本線に停まっていたらエラいことになるパターンですが……
さすがと言うべきか、ちゃんと右折車線が用意されていました。素晴らしい。
ちなみに、「美蔓」で「びまん」というなんとも不思議な地名ですが、元々は「美」が「蔓る」(はびこる)で「びはう」と読ませていたらしいですね。元となったアイヌ語の地名だと pipa-us-i だったそうです。
「美蔓」の詳細は北海道のアイヌ語地名 (205) 「熊牛・毛根・美蔓」をどうぞ!

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2016年1月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (310) 「昆布刈石・十勝太・トイトッキ沼」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

昆布刈石(こぶかりいし)

kompu-kar-us-i
昆布・獲る・いつもする・ところ
(典拠あり、類型あり)
浦幌町南部の地名です。鉄道は通っていませんが、国道 336 号の支線「浦幌道路」がすぐ近くまで来ています(昆布刈石が終点です)。また、同名の川(昆布刈石川)も流れています。ずっと「こんぶかるいし」だと思っていたのですが、「こぶかりいし」が正しかったんですね……(汗)。

割と古くからある地名で、東西蝦夷山川地理取調図にも「コンフカルウシ」とあります。また「東蝦夷日誌」にも次のようにあります。

此邊沙地也。(十三丁五十間)コンブカルウシ〔昆布刈石〕(岩崩平磯)名義、昆布取に多しとの儀。此岬風雨にて通り難き時は上に新道有て、其を廻る也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.293 より引用)
由来はさておき、「上に新道有て、其を廻る」というのが気になりますね。これ、「浦幌道路」の存在を予言しているような……(違います)。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のようにあります。

昆布刈石 こぶかりいし
 オコッペから西へ約4キロの海岸の地名,川名。語義はコンブ・カル・ウシ(kombu-kar-ush-i 昆布・を採る・いつもする・処)。古い秦地名考にも書かれた処。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.287 より引用)
おお、秦檍麻呂と言えば上原熊次郎よりも(若干)古い時代の人ですよね。確かに東蝦夷地名考には「コブカルイシ 昆布(コブ)採(カル)なり。イシはウシにて生なり」とありますね。

また、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のようにあります。

ここのトンネルのある岬は、阿寒の山からつづいている山連の山の腰骨であり、舟で沖を通るときに陸にあがって、ここの神を祭る祭壇に祈ったという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.242 より引用)
へぇ~。「阿寒の山からつづいている」と聞いて「ホンマかな?」と思ったのですが、地図で確かめてみたところ確かに阿寒富士までつながっていました(汗)。

ということで、そろそろ答え合わせしてもいいでしょうか。kompu-kar-us-i で「昆布・獲る・いつもする・ところ」だと思われます。

十勝太(とかちぶと)

{tokapchi}-putu
十勝川・河口
(典拠あり、類型あり)
浦幌十勝川の河口部にある地名で、かつて近くに「十勝太ロラン航路標識事務所」があったことで有名……でもなかったですかね(汗)。

現在、十勝太のあたりを流れる川は「浦幌十勝川」という名前ですが、明治の頃はこの川が「十勝川」と呼ばれていて、現在の十勝川河口部は「大津川」という名前で呼ばれていたようです。

では、今回も山田秀三さんの「北海道の地名」から。

十勝太 とかちぶと
 十勝川は下流で二つに分かれている。その東側の川口の処の地名。トカㇷ゚チ・プトゥ(tokapchi-putu 十勝川・の川口)の意。今は東側の川を浦幌十勝川と呼び,西側の川の方が本流扱いされるが,元来はこの東側の方が本流とされていたのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.287 より引用)
はい。見事に内容がかぶりましたね。

何もない葭原の中にある海のような川口は,遠い国にでも行ったような感じのする風景である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.287 より引用)
あー、これは凄く良くわかります。あまりに同感なので思いっきり引用してしまいました。

NHK 北海道本部の「北海道地名誌」には、次のような記載がありました。

 十勝太(とかちぶと) 浦幌十勝川川口近くの左岸。十勝川の川口の意。明治 10 年代から入地者があり,牛馬の飼養を主としていた。明治 32 年鉄道敷設を予定して区画を行ない,大津からの転住者も 20 戸ほどあったが,鉄道は新吉野から山手を通って厚内へ通じてしまった。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.656 より引用)
豊頃町大津が「鉄道を逃した町」だと言うのはちらっと聞いたことがあったのですが、そうか実際は対岸の十勝太だったんですね(そりゃそうか)。距離的にも現在の路線と大差無いように見えるのですが、どのような経緯で山側経由になったのか、ちょっと興味が湧いてきます。

さて本題に戻りましょう。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のようにあります。

 十勝太(とかちぶと)
 十勝川の川口の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.239 より引用)
そうですね。まだ続きがあったのですが……

十勝という地名は疑問の地名で、永田氏は「トカプチ。幽霊。十勝(国、郡、村)ノ元名。往時十勝「アイヌ」極メテ強暴常ニ侵略ヲ事トス、他ノ「アイヌ」之ヲ悪ミ「トカプチ」ト呼ビシト云フ」とある。然しもしそうだとすれば十勝アイヌ人が、自らの一族をトカプチウンクル(十勝人)と呼ぶのはおかしい。別の意味があったと思われるが明らかでない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.239 より引用)
「十勝」の語源についての論考でしたね。十勝の語源も諸説まちまちなのですが、「往時十勝『アイヌ』極メテ強暴常ニ侵略ヲ事トス」というのは割と良く耳にする話でした(いわゆる「十勝アイヌの武勇伝」)。他地のアイヌと比べても「十勝アイヌが攻めてきた」という伝承は有意に多い印象で、現在の「十勝モンロー主義」にも通じるところがあって興味深いですね。

「トカチ」というのも古くからある地名のようで、戊午日誌にも次のようにありました。

弐丁計も下りて
     渡 し 場
此処川巾は百五十間、馬舟・歩行舟等を以てわたす。則是トカチフトといへる処なり。海岸は寄り木多し。其上に小休所蘆屋にて大きく立たり。また其うしろに土人小屋弐軒有。此処を渡し守とす。又大通行等有る時はヲベツコウシより来りてわたす也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.371 より引用)
「渡 し 場」(別名トカチフト)というのは中々酷い扱いですが(笑)、十勝太という場所の本質を如実に示すいい表現のような気もしてきました。地名解ですが、{tokapchi}-putu で「十勝川・河口」と考えて良いと思います。あれ? 本題は一瞬でしたね(ぉ

トイトッキ沼

to-etok
沼・先端
(典拠あり、類型あり)
浦幌町と豊頃町の町界に位置する河跡沼の名前です。トイトッキ沼の畔には、太平洋戦争中に米軍の北海道上陸に備えて建設されたトーチカが今も残っているそうですね。

では、今回は「北海道地名誌」を見てみましょう。

 トイトッキ トイドッキ沼附近。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.655 より引用)
はい? なんだか狐につままれたような感覚ですが、仕方がありません。「トイドッキ沼」の項目を見てみましょうか。

 トイドッキ沼 海岸に近い豊頃町境寄りの沼。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.653 より引用)
ありがとうございました(お約束)。続いて我らが「角川──」(略──)を見てみましょう。

 といとっき トイトッキ <浦幌町>
〔近代〕昭和30年~現在の浦幌町の行政字名。もとは大津村大字大津村の一部。地名はアイヌ語に由来し,沼の端の意(豊頃町史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.922 より引用)
あーなるほど。to-etok で「沼・先端」なんですね。湧別の「登栄床」と同じような地名と考えて良さそうです。言われてみれば、どことなく雰囲気も似通っているような、そうでもないような……。

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