2015年11月30日月曜日

日本最長路線バスの旅(番外編)#9 「幻の国鉄一般型気動車標準色」

紀勢本線の普通列車は、駅ナカ(違います)に自動車教習所があるという画期的な構造の「船津駅」を出発して、終点の多気を目指します。船津川の支流の「大河内川」を渡ると、右手に紀勢自動車道が見えてきました。
ちなみに、この写真を撮影した所よりももうちょい手前だと思いますが、紀勢自動車道のすぐ向こう側に「鯨」という集落があるみたいです。山の中なのに鯨……なぜなんでしょうね。

相賀駅からは川沿いに内陸に入っていましたが、三浦トンネルを抜けて再び海沿いに戻ります。ここまでが旧・海山町で、ここからが旧・紀伊長島町でしょうか。

「三野瀬」の謎

三浦トンネルを抜けると程なく「紀伊長島区三浦」です。ところが……
駅名はなぜか「三野瀬」なのですね。実は、かつてこのあたりは「三野瀬村」という村だったのだそうです。

「三野瀬」は「浦」「道浦」「海浦」が集まったので「三野瀬」になった……とのことですが、三浦はこれらの中では一番西にあるんですよね。船津駅からの距離は 6.3 km もあるのでその所為かな、と思ったりもするのですが、次の紀伊長島駅までは 7.5 km もあるんですよねぇ……。

あと、九鬼から大曽根浦、尾鷲、相賀、船津そして三野瀬と交換(すれ違い)可能駅が 6 つ続いているのも実は結構凄いことなんじゃないかと思ったりもするのですが如何でしょうか……?

海もいろいろ

三野瀬駅を出発するとそれほど長くないトンネルが断続的にありますが、ふたつ目のトンネルを抜けたところで右手にいい感じの砂浜が見えてきました。このあたりは「紀伊長島区古里」というところのようですが、「三野瀬」の三文字に含まれていないのがちょっと気になるところです。
再びトンネルを抜けてしばらく走ると「江ノ浦」と呼ばれる入江のほとりにやってきました(地名としては「加田」)。この辺りは砂浜ではなく造船所でもありそうな雰囲気のところですね。

当たらずといえども遠からず

国道と並走して紀伊長島駅を目指します。地図を見た感じでは「江ノ浦」の東側に広がっているのが昔からの「長島」の集落のようですが、紀勢本線(と国道 42 号線)はいずれもトンネルで山向こうに抜けてしまいます。このあたりの紀勢本線が開通したのは昭和 5 年とのことで、当初から尾鷲への延伸を目論んでいたでしょうから、長島の中心地を多少外してもその先に線路を伸ばしやすいルートを選定したのでしょうね。
昭和 22 年に米軍が撮影した航空写真が見つかりました。これを見た感じでは、先ほどの推測も当たらずとも遠からずな感じですね。駅の北側に集落が形成されていますが、これが駅ができたことによるものなのか、あるいは元からあったのかは何とも言えませんが、駅の南西の、現在の地図だと「中州」と呼ばれているあたりには人家が殆ど見当たらないことがわかります。

昭和 22 年の航空写真は http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=210867&isDetail=true からどうぞ。

幻の国鉄一般型気動車標準色

紀伊長島駅が見えてきました。対向の列車が既にホームで待っているようです。
あれっ? この色は……
JR 東海と言えば、どの車両も似たようなカラーリングであることで知られています(東海道新幹線を除く)が、このカラーリングは懐かしの国鉄っぽいカラーリングですね。
どうやら 2 両編成のようですが、後の車両は JR 東海の「似たようなカラーリング」でした。どちらもキハ 40 のように見えるのですが、キハ 40 が製造された頃は既に国鉄の赤字が深刻になっていた頃で、少しでもメンテナンス費用を安く上げるために俗に「首都圏色」と呼ばれる「朱色5号」の 1 色塗りになっていた筈なんですね。

「朱色4号」と「クリーム色」のツートンカラーに塗装されていたのは、いわゆる「リバイバルカラー」の一例なんでしょうけど、たとえて言うなら東海道新幹線の「700 系」を「0 系」のカラーリングで塗装するようなもので、個人的にはちょっと「なんだかなぁ」と思ったりもします。映画のロケなどで使うのであれば、まぁ仕方がないかな、とも思いますけどね。

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2015年11月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (302) 「札内・途別・稲士別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

札内(さつない)

sat-nay
乾いた・川
(典拠あり、類型あり)
帯広市は人口 16 万 8 千人を数える十勝で一番の大都市ですが、意外なことに中心部の市域はそれほど大きくなくて、東西はわずか 8 km ほどしかありません。西は隣の芽室町とほぼ一体化していて、北は十勝川を挟んで音更町と繋がっています。そして東は札内川を挟んで幕別町札内と繋がっています。南には旧・大正村の村域が、そして南西部には旧・川西村の村域が広がっているのですけどね。

そして、札内駅は帯広駅の東隣の駅でもあります。ということで久しぶりに「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  札 内(さつない)
所在地(十勝国)中川郡幕別町
開 駅 明治43年 1 月 7 日
起 源 アイヌ語の「サッナイ」、すなわち「オ・サッ・ナイ」(川尻のかれている川)から出たもので、付近にある札内川はもと一定の川底がなく、水が増すごとに流れを変え、水が減ずると一帯が河原となったからこう呼ばれており、駅名はこれを音訳したものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.124 より引用)
ふーむ。なかなか踏み込んだ解が出てきましたね。というのは、「札内」を sat-nay とするものが多く、o- を最初につける例は他に見かけないのです。東西蝦夷山川地理取調図を見ても札内川が十勝川と合流するあたり(札内駅の近く)には「サツナイブト」と書かれていて、上流のかなり奥の方に「サツナイ」と記されています。また、戊午日誌にも何度か「サツナイ」が出てきますが、「オサツナイ」とは記されていません。

ということで、ここは無難に sat-nay で「乾いた・川」としようかと思います。nay は「沢」を形容するのに多く使われる単語ですが、このあたりは相当な大河でも nay で呼ばれる場合があるので、今回は「川」としてみました。アイヌ語地名の最大の謎の一つですね。

途別(とべつ)

tu-pet?
二つ・川
tu-pet?
倍・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
幕別町西部の地名・川名です。途別川を遡って行ったところに帯広空港があります。また東には支流の古舞川も流れています。

戊午日誌には次のように記されていました。

また弐丁計も下りて右のかた
     トウベツ
小川也。平地の処に川口有。是水源に沼有るよりして此名有るなり。トウは沼也。其周り蘆荻多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.294 より引用)
「水源に沼があるからトウベツなんだよ」とあるものの、地形図を見た感じでは沼の存在は見当たりません。もちろん明治以降の開拓で失われた可能性もゼロでは無いのですが、明治期の地図で見ても沼の存在を伺い知ることはできなさそうです。

続いて山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

南の高台から流れて来て,古いころは十勝川の南分流に入っていたらしいが,平野に入ってから,今の根室本線の北側を曲流しながら東流し,猿別川に入っていた川が現在旧途別川と呼ばれている。なお現在は根室本線の辺から,北東東に向かって直線の水路を作って十勝川に入れてある。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.309 より引用)
地誌的な補足をありがとうございます。そうですね、現在も「旧途別川」は残っていますが、まるでスパ・フランコルシャンのコースのようなカーブが連続する蛇行ぶりが見事な川です。

続きを見ておきましょう。

途別の語意ははっきりしない。ト・ペッ(to-pet 沼の・川)と読める(十勝日誌はトヴツと書いた)。この川筋には沼らしい沼はないようであるので,もしその名であったのなら昔の川尻の部分に河跡沼でもあっての称であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.309 より引用)
ふーむ。戊午日誌には「水源に沼」だったのですが、流域に沼が見当たらないこともあり「河口に沼?」と考えざるを得なくなったということでしょうか。山田さんもやはり納得が行かなかったか、

またトゥ・ペッ(tu-pet 二つ・川)であったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.309 より引用)
こんな試案も考えておられたようです。言われてみれば途別川と古舞川の合流点は、どことなく津別町津別にも似ているようにも思えてきますね。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」にも tu-pet 説が記されていました。

ト゚ペッで水かさの倍になる川の意と思われる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.234 より引用)
弟子屈の「鐺別」と同じく「更に倍っ!」じゃないか、という考え方ですね。もちろん to-pet という旧来の考え方も無視したわけではなくて、

或は沼のある川かもしれないが、その跡をさぐることができない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.234 より引用)
現実的な判断を行った、ということのようです。

どの説も決め手を欠くなぁ……というのが正直な印象です。ただ、to-pet よりは tu-pet のほうが可能性があるんじゃ無いかなぁ……という感じもします。tu-pet で「二つ・川」あるいは「倍・川」でしょうか? ちょっと津別との類似性が気になるところです。

稲士別(いなしべつ)

inaw-us-pet
木弊・ある・川
(典拠あり、類型あり)
札内駅(根室本線)の次の駅が「稲士別駅」なのですが、もともと仮乗降場だったこともあり、残念ながら「北海道駅名の起源」には記載がありません。

稲士別駅の西側には「稲士別川」が流れていて、旧途別川に注いでいます。稲士別側は台地を広く深くえぐったような地形を流れる川で、上流には「幕別ダム」があります。

東西蝦夷山川地理取調図を見ると、「イナウシヘツ」という川があり、またその西支流として「ホンイナウシ」なる川の存在が記されています。現在の稲士別川と日新川でしょうか。そして、イナウシヘツの上流部東側には「イナウシノホリ」という山名も記載されています。川名がメインの地図にあって山名が記されているのは割と珍しいことです。

戊午日誌にも記載がありました。

左りは一里計も下に山を見る計、皆平地也。過て
     イナウシベツ
右の方小山の間に小流有。是木幣を山え行もの此処え立てし処なるよしにて号也と。イナウウシヘツと云り。此川三四丁上りて二股に成、ホンイナウシヘツと云小川有る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.295 より引用)
あ、やはり inaw-us-pet で「木弊・ある・川」だったようですね。「イナウ」はアイヌの祭事で用いられるもので、神道における「御幣」に近いような遠いような(どっちだ)ものですね。

inaw-us-pet の上流には、良くイナウが捧げられる霊験あらたかな場所があった、ということなのかも知れませんね。

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2015年11月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (301) 「パンケチン川・ルオセベツ川・パンケウレトイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケチン川

panke-chin
川下の・(獣の皮を)張る
(典拠あり、類型あり)
士幌町と音更町の境界を流れる川の名前です。音更町に入ってからは音更川の西側を並行して、最終的には音更川ではなく然別川に合流します。

さて、この「パンケチン川」は中々バリエーションが豊かでして、支流には「ポンパンケチン川」があり、また西隣を流れる「ペンケチン川」には「ポンチン川」という支流もあります。それぞれ別項にするのも考えたのですが、さすがに色々とアレな感じがするので(どんな感じだ)今回はやめておきます。

決して大河川とは言えない「パンケチン川」ですが、東西蝦夷山川地理取調図には「ハンケチ」とあり、また戊午日誌には「バンゲチ」とあります。また、永田地名解にも次のように記されていました。

Panke chin   パンケ チン   下ノ獸皮ヲ乾ス處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.311 より引用)
chin は、知里さんの小辞典には「(皮を)張る;張り枠に張る」とあります。獣の皮を張って乾かす枠のことは ket と言いますが、ket が名詞で chin が動詞……なのでしょうか。アイヌ語の地名としては「(獣の皮を)張り枠に張る・いつもする・ところ」と言った感じになる場合が多いのですが、ここは「張る!」で終わってしまっているようですね。なかなか男気のある地名です(どこがだ)。

ということで、panke-chin は「川下の・(獣の皮を)張る」と考えて良さそうです。pon-{panke-chin} は「小パンケチン川」、penke-chin は「川上の・(獣の川を)張る」となりますね。

問題なのが「ポンチン川」でして、実体は「ペンケチン川」の支流です。ですから pon-{penke-chin} と考えるのが自然なのですが、なぜか penke が抜け落ちてしまったみたいですね。「小(ペンケ)チン川」と理解すればいいのかな、と思います。ちなみにこのポンチン川、「小ペンケチン川」と言う割にはペンケチン川と同じくらいの長さを誇ります。

あと、これは全くどうでもいい情報ですが、ペンケチン川の支流には「種馬川」という名前の川もあります。ペンケチン川とパンケチン川の流域は、現在は「家畜改良センター十勝牧場」となっているみたいなのですが、だからと言って「種馬川」は無いんじゃないかと……(笑)。

ルオセベツ川

ru-o-sey(-us)-pet??
縞・ある・貝(・多くある)・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
充実のラインナップを誇る「パンケチン川」の支流の一つです。小河川なので情報が少なかったのですが、「北海道地名誌」に記載がありました。

 ルオセペツ川 パンケチン川の右小川。路がそこから広くなる川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.595 より引用)
ふーむ。ru-o-sep-pet と読んだのでしょうか。解としてはおかしくは無いように思えますが、実際の地形に即して考えてみると少々疑問が残ります。というのも、ルオセベツ川が交通路として重宝されたとも考えづらいからなのですけどね。

他に解が無いかな……と考えてみたのですが、解ではなく貝が見つかりました(ぉぃ)。主にハマグリやあさりのことを ru-o-sey(縞・ある・貝)と呼んでいたらしいのですが、もしかして(海ではなく)川に生息する似たような貝がいた(多かった)のではないかな、と。

ということで、ru-o-sey(-us)-pet で「縞・ある・貝(・多くある)・川」だったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

ちなみに、然別川の下流部(十勝川と合流する少し手前)に「ルウセ」あるいは「ルオセ」という支流があったと記録されています。永田地名解は「曲りたる小川」という謎な解を記しているのですが、「ルオセ」をどう解したら「曲りたる小川」となるのか、ちょっと解明できませんでした。

パンケウレトイ川

panke-hure-toy(-pet?)
川下側の・赤い・土(・川)
(典拠あり、類型あり)
「種馬川」の西隣を流れる川の名前です。「ラウネナイ川」という支流もあります。古くから残っている地名(川名)のようで、「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ハンケウレトイ」「ヘンケウレトイ」と記載がありました。

また、戊午日誌にも次のように記されていました。

またしばしを上り凡七八丁
     ハンケウレトイ
     ヘンケウレトイ
是ハンケ、ヘンケと上下に二ツの小川有。ウレはフウレの詰りし也。此処赤土崩岸なる故に号るもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.277 より引用)
ふむふむ。「ウレ」は hure(赤くある)では無いかと言うのですね。

永田地名解には次のようにありました。

Panke ure toi   パンケ ウレ トイ   下ノ赤土
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.312 より引用)
どうやら永田地名解も松浦武四郎の解をそのまま是であるとしたようですね。ということで、まずは panke-hure-toy(-pet?) で「川下の・赤い・土(・川)」だと考えておけば良さそうです。

ただ、個人的にはもう一つ可能性があるんじゃないかな、と思ったりしています。斜里郡小清水町の「浜小清水」の旧名が「古樋」と言うのですが、hure-toy (赤土)説と hur-tuy-i で「丘・切れる・ところ」とする説があったようなのですね。地形図を見た限りでは、hur-tuy-i と考えるに相応しい形をしているようにも見えるのです。

支流の「ラウネナイ川」もおそらく rawne-nay で「深く掘れている・沢」なので、「フレトイ」も hur-tuy-i丘・切れる・ところ)を推したいところなのですが……。

北海道のアイヌ語地名 (235) 「浜小清水・蒼瑁・止別」

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2015年11月27日金曜日

日本最長路線バスの旅(番外編)#8 「創意工夫でバリアフリー」

大曽根浦を出発すると、海側に巨大な煙突(のようなもの)が見えてきました。どうやら火力発電所のようですね。この辺一帯の電力供給を一手に引き受けているのでしょうか(水力発電もありますけどね)。

尾鷲駅、創意工夫でバリアフリー

尾鷲駅のホームが見えてきました。多気行きの普通列車はゆっくりと速度を落としてゆきます。そして、駐車場の向こう側に駅に向かって全力疾走する高校生の姿が。今からこの列車に乗るつもりなのでしょうか……?
尾鷲駅に到着しました。駅といえば駅名標、名所案内、そして何と言っても指名手配のポスターですよね!「おい、小池!」に続く傑作は出るのでしょうか。
尾鷲駅は上下線のすれ違いが可能な構造……らしいのですが、上下線とも殆どの列車が改札のある 1 番線を使用するのだそうです。これだと列車のすれ違いは出来ませんが、改札から階段を昇り降りすること無く乗車できます。設備ではなく運用でバリアフリー化したことになりますね。

ということで、目の前に改札口があったわけですが……
あれ? これはもしかしてさっきの高校生ですかね?(笑)

ちなみにこの尾鷲駅ですが、開業当初は「おわし──」と読ませていたのだそうです。確かに「鷲」ですから「わし」と読むのは何らおかしいことでは無いのですが、「尾鷲」は「おわせ」と読むのだ……と認識していると、やっぱり変な感じがしますね。

旧・海山町の紀北町

尾鷲駅のあたりは海抜 15 m 程度のようですが、尾鷲駅を出発すると、そこから 1.6 km ほどで海抜 40 m くらいまで一気に駆け上ってトンネルに入ります。トンネルの中で尾鷲市を抜けて、紀北町に入ります。耳慣れない自治体名ですが、旧・海山町と旧・紀伊長島町が合併してできた町なのだとか。

海山町(みやま──)役場の最寄り駅だった相賀駅(あいが──)に到着しました。雰囲気のいいホームが見えたのですが、大変残念なことにピントが合っておらず……。
こちらもピントが合ってないですね(すいませんすいません)。
この相賀駅と手前の尾鷲駅、そして二つ手前の大曽根浦駅は、いずれも列車のすれ違いができる構造になっています。尾鷲駅はほとんどの列車を 1 番線に入れるために、列車のすれ違いは殆ど行っていないらしいのですが、これは両隣の駅でも列車のすれ違いが可能だったが故にできる芸当なのかも知れませんね(いやいや、それにしても尾鷲駅のバリアフリー化は発想の勝利ですよね)。

自家用車へのシフトが加速する

相賀駅を出発すると、前方に紀勢自動車道が見えてきました。
この「番外編」でも何度か記しましたが、このあたりの道路網もようやくかなりのレベルまで整備が進んできたようで、鉄道から自家用車へのシフトがますます進むのだろうな……という雰囲気をひしひしと感じます。
ですから、18 歳になったらまずは普通運転免許を……という話になるのでしょうね。あ、なんだかうまい流れで写真が繋がりましたね(わざとらしい)。
実はここ、相賀駅の次の船津駅なんですが……。なんと駅前(ふつーだと駅前広場ができそうなところ)が自動車教習所になっているのです。これはさすがに「ふあっ!?」と思いましたね(笑)。それにしても、JR で教習所に通えるというのは凄く理にかなってますよね?(汗)

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2015年11月26日木曜日

日本最長路線バスの旅(番外編)#7 「九鬼水軍の本拠地」

亥が谷トンネルを抜けて「三木里駅」にやってきました。
ちなみにこの「三木里」駅、お隣が「くき」(九鬼)と「かた」(賀田)です。どちらもありそうであまり無い駅名ですよね。

まぁ、「久喜」はふつーにありますけどね。
三木里駅の駅舎も……相変わらずですね(笑)。
三木里駅は 1958 年に「紀勢東線」の駅として開業しました。翌年に三木里と新鹿の間が開通して、路線名も「紀勢本線」に変わります。

紀伊半島をグルっと半周する形で建設された紀勢本線で最後に残ったのが「熊野市」と「尾鷲」の間というのはなかなか示唆に富んでいますね。熊野市は三重県の他の自治体よりも和歌山県との結びつきが強いなんて話もありましたが、地勢を見た限りは「さもありなん」という感じです。

九鬼水軍の本拠地

三木里からは、東北東に進路を取り、名柄トンネルを抜けると「九鬼駅」です。
「水軍」と言えば、すっかり「村上水軍」が有名になってしまいましたが、戦国時代に名を馳せた「水軍」と言えば「九鬼水軍」でしたね。九鬼水軍を率いた九鬼家はこの地に本拠を構えたのでした。天然の良港ですが、それ以上に人里から隔離された場所という印象が強いところです。天然の良港であり、そして天然の要害でもあったと言えそうなところでもあります。

九鬼駅も、他の駅と同様に、集落から 7~800 m ほど離れたところに駅があります。神社?や漁港の名前が「九木」なのは、敢えて「鬼」の字を避けたということなのでしょうか。

このあたりの駅には珍しく標高が低いところにあり、駅前にはバス停もあるようです。九鬼駅は 1983 年に国鉄合理化の一環として無人化されたのですが……
案の定と言うべきか、Wikipedia にも次のような一文がありました。

周りの駅の駅舎とよく似たつくりである。
(Wikipedia 日本語版「九鬼駅」より引用)
ですよねぇ。

列車は崖に張り付くように

九鬼駅を発車すると列車は北に進行方向を変え、「九鬼トンネル」で尾根をショートカットします。その後は短いトンネルを一つ挟んで「白浜トンネル」、更に短いトンネルと覆道を挟んで「第一行野トンネル」と、海沿いの険しいルートが続きます。九鬼トンネルと白浜トンネルの間に駅があれば、JR 北海道の「小幌駅」と似たような感じになっていたでしょうね。

尾鷲湾は西側に尾鷲市街が広がり、湾の南北にはどちらも市街地が点在しています。南側の東端は「行野浦」というところで、地形を活かした漁港があるようですが、紀勢本線は集落の南側を殆どトンネルで抜けているため、残念ながら駅はありません。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
紀勢本線は行野浦から今度は西に向きを変えて、大曽根浦駅を目指します。紀勢本線の九鬼から新鹿のあたりのルートは、長いトンネルも厭わずに最短ルートを選んでいるように見えますが、大曽根浦と九鬼の間は海沿いの険しいルートになっているのが特徴的です。開通年次は数年しか違わないのですが、もしかしたらルート選定の時期が違っていたのかな、などと想像したりします。

久しぶりの対向列車

「大曽根浦駅」に近づいてきました。海の向うに見えるのが火力発電所と尾鷲港ですね。
大曽根浦駅で対向列車とすれ違いです。
相変わらずピントがあらぬところに合ってしまっていますが……(汗)。
ピントが合ってない写真をもう一枚(すいませんすいません)。
大曽根浦の次は、尾鷲駅です。

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2015年11月25日水曜日

日本最長路線バスの旅(番外編)#6 「国内精鋭のトンネル職人が集結」

紀勢本線の多気行き普通列車は、曽根トンネルを抜けて賀田駅へと向かいます。トンネルを抜けたところに曽根町の集落がありますが、残念ながら駅は設置されていません。列車は少しずつ坂を下ってゆきます。
間もなく賀田駅に到着です。……おや、また保線車両が停まっていますね。
そして、またしても……
どこかで見たような駅舎の登場です。ちなみにこちらが新鹿駅(二度目の登場)で、
こちらが大泊駅ですね(三度目の登場)。あ、流石にもういいですか?
ちなみに、これらの二駅と賀田駅を見分けるには……
「線路横断禁止」の文字が描かれているのが「賀田駅」と覚えておけばバッチリです(笑)。

津波忌避伝説

賀田湾は、まるで人のような形をしていますが……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
賀田駅は、西端の「賀田港」に面したところにあります。ただ、賀田町の集落が港の北岸にあるのに対して、駅は川を挟んで向かい側の南岸にあります。この謎な立地は、Wikipedia によると……

紀勢本線の線路は賀田の集落を通っているが、そのまま直進して古川を渡り、対岸に当駅を置いている。これは、賀田の集落にそのまま駅を設けてしまうと、津波の被害を受けやすくなるためであると言われている。
(Wikipedia 日本語版「賀田駅」より引用)
なんか尤もらしいことが書いてありますが、どちらかと言えば「南側の曽根町にも配慮した」とか「北岸には適切な場所が無かった」あたりが真相だったのではないかと。津波云々は取ってつけた理由のように思えます。

国内精鋭のトンネル職人が集結!

ところで、二木島から賀田に抜ける際に「曽根トンネル」を抜けてきたわけですが、「賀田駅」の項にこんな面白いエピソードが書かれていました。

曽根トンネルは硬い岩盤のため非常な難工事で、後年青函トンネルの工事に参加した国内精鋭のトンネル職人が集められた。
(Wikipedia 日本語版「賀田駅」より引用)
へぇ~、それはそれは……。二木島経由を選んだが故に硬い岩盤にぶち当たったのであれば何とも気の毒な話ですが、「国内精鋭のトンネル職人」が集合したというのは何か格好いいですよね。

公的インフラとしての鉄道も今は昔……

さて、とにかくトンネルだらけの紀勢本線ですが、賀田駅を発車するとまたしてもトンネル(亥が谷トンネル)に入ります。
ネタに事欠いてか、ついに運賃表の写真が出てくる始末ですが、それはさておき(さておいた!)。長いトンネルを抜けると、三木里の駅が近づいてきます。
おや、こんなところに自動車専用道路……? と思ったのですが、どうやら熊野尾鷲道路の三木里 IC……に向かう道路、のようでした。まぁ、当たらずといえども遠からずなのですが、集落と IC の間が 2 km ほど離れていたので、こんな立派な道を建設したみたいですね。

熊野尾鷲道路は、大泊駅にほぼ隣接する「熊野大泊 IC」から、「熊野新鹿 IC」「賀田 IC」「三木里 IC」を経由して「尾鷲南 IC」までが既に開通しています。三木里から尾鷲の中心部に向かうには、JR だと九鬼経由でグルっと海沿いを回ることになりますが、熊野尾鷲道路だとほぼ一直線に向かうことができます(将来的に尾鷲南 IC から尾鷲北 IC までが開通すると、さらに所要時間は短くなる見込み)。

紀勢本線が一帯の生命線だったのも今は昔、もはや自家用車のほうが速くて安い時代になりつつあるんですね。

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2015年11月24日火曜日

日本最長路線バスの旅(番外編)#5 「公的インフラとしての鉄道」

三重県は熊野市東部にある「新鹿駅」に到着しました。ちなみに「新鹿」で「あたしか」と読みます。
ホームの北側にあるスロープを下りて構内踏切を渡った先に駅舎があります。
写真を整理していて「あれ……?」と思ったのですが、この写真はどこかで見たことがあるような……。そうそう、この写真です。
この写真は前回の記事でご紹介した「大泊駅」のものでした。駅の構造も然ることながら、立地も凄く似てますよね。このあたりはリアス式海岸で、入江の部分に集落ができるので、どうしても集落の立地が似通ってくるのですが……。

Wikipedia にも次のようにありました。

周りの駅も開業の時期がほぼ同じなので駅舎の意匠はよく似ている。
(Wikipedia 日本語版「新鹿駅」より引用)
ですよねぇ。この新鹿駅は 1956 年に開業後、1983 年に国鉄合理化の一環として無人化されたとのことですが、実際には 1992 年ごろまで熊野市駅から職員が派遣されていたのだとか。このあたりは並走する国道 311 号の輸送力が貧弱だった(場所によっては未開通区間もあった)ため、鉄道の重要性が比較的高かったとされますが、今では国道もしっかりと整備されてしまったので、昔と比べると鉄道の重要性は下がっているみたいです。

逢神坂トンネル

さて、新鹿駅を出発すると、線路は 90 度近く向きを変えて短いトンネルに向かいます。
この写真、よーく見るとトンネルの入口が見えているんですよね。トリミングするとこんな感じです。
新鹿から、この先の三木里までが、紀勢本線で一番最後に開通した区間なのだそうです。つまり、このトンネルは紀勢本線で最も新しいトンネルの一つ……となる筈なのですが、何しろ開通も 1959 年のことですから、既に半世紀以上昔の話ですね。

戦後の開通ということで、紀勢本線は新鹿の向かいにある遊木町を完全にスキップして、熊野古道の逢神坂峠・二木島峠沿いを一直線にトンネル(逢神坂トンネル)で通り抜けます。トンネルを抜けると二木島湾が見えてきます。

二木島駅

二木島駅に到着しました。大変残念なことにホーム・駅舎ともに山側にあったので、駅の写真はありません。駅の開業は路線の開通と同時の 1959 年とのことで、新鹿駅よりはコンパクトな駅舎があるようです。
前方の山の間に立派な橋が見えていますが、あれが国道 311 号の橋みたいです。
二木島の集落と海の間の僅かな隙間に建設された現道を拡張するのは無理だと判断したのか、あるいは最初からバイパスを建設する気だったのかは良くわかりませんが、隣の遊木町に向かう二木島トンネルの入り口が海抜 75 m あたりにあったこともあってか、国道はあんなに高いところに建設されたみたいですね。

随分と近代的な橋に見えますが、国道のルートは割と無駄な線形を余儀なくされているのが面白いですね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

公的インフラとしての鉄道

国道 311 号はこの先も二木島湾沿いを東に進みますが、紀勢本線は熊野古道沿いのルートを「曽根トンネル」一本でズバっと通り抜けます。このルート選定について、Wikipedia に面白いことが書いてありました。

紀勢本線の線路は二木島を経由するため、大きく迂回している。本来の計画では賀田から新鹿までを1本のトンネルで直接結ぶはずであったが、二木島の人々の陳情により、トンネルを大きく2つに分けた上、ルートを変更したといわれる。
(Wikipedia 日本語版「二木島駅」より引用)
ふーむ。どうやら当初は現在の「熊野尾鷲道路」のルートで建設しようとしていたのですね。改めて地形図で見てみると、熊野尾鷲道路のルートのほうがトンネルの数も少なく済みますし、トンネルの長さ自体も曽根トンネルとほぼ同じで済んだように見受けられます。

ただ、当時は(現在の国道 311 号線の)二木島トンネルも存在しなかったでしょうし、他所に移動するにはそれこそ熊野古道を通るしか無かったのでは無いか、と思われる節もあります。現代ではともすれば「我田引鉄」の誹りを受けかねない「陳情」だったかも知れませんが、当時の二木島の人にとっては文字通りの「死活問題」だったのでしょうね。

結果として陳情は受け入れられ、紀勢本線は二木島経由のルートを通ることになりました。当時の鉄道が文字通り「公的インフラ」だったことの証明とも言えそうですね。

熊野市から尾鷲市に

紀勢本線は曽根トンネルの通過中に尾鷲市に入りました。トンネルを抜けると目の前には賀田湾の景色が広がっていました。

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2015年11月23日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (52) 日光 (1878/6/23)

引き続き、1878/6/23 付けの「第十信(続き)」(本来は「第十三信(続き)」となる)を見ていきましょう。

親の愛

イザベラは、日光・入町村の人々の観察を続けます。イザベラの目には、明治初期の親子の姿は次のように映っていたようです。

私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.131 より引用)
現代の日本にも「子煩悩」という言葉がありますが、これはまさに「子煩悩」の定義をそのまま文章にしたような感じですね。子煩悩な性質は人類に普遍的に存在するような気もするのですが、日本人の子煩悩ぶりはイザベラにとっても特筆すべきものだったということでしょうか。

子どものおとなしさ

一方で、眩いばかりの「親の愛」を受けて育っている筈の子どもたちの姿は、イザベラにはどのように映っていたのでしょうか。

子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.131 より引用)
これは、何かわかる気がしますね。そう、かつて NHK で放送されていた「おしん」の世界そのままのように思えます。特に昔は子どもであっても一端の労働力として期待されていたわけで、生まれながらにして否応なく社会の構成員として組み込まれていたとも言えるのかと思います。更に別の言い方をすれば、おとなしくて従順である以外の有り様が存在しなかった、とも言えたのではないでしょうか。

一方で、イザベラは次のようなユニークな見方をしていました。

しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.131 より引用)
「大人と同じ服を着ているから大人のような印象を与える」という見方なのですが、これは……うーん、結果論のような気もしないでも無いですね。「小さな大人」であることを強いられるが故に大人のような服装を着ることになる、と考えたほうが自然ではないかな、と思ったりもします。

髪結い

イザベラの村人観察はなおも続きます。続いては男の子の髪型について。

男の子はみな頭でっかちに見える。頭が異常に大きく見えるのは、一つは生まれてから三年間は頭をすっかり剃っておくというひどい慣習によるものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.132 より引用)
ふーむ。「頭をすっかり剃っておく」というのは、いわゆる「丸刈り」のことだと思うのですが、丸刈りのおかげで頭が以上に大きく見えるというのはちょっと謎に思えます。本当に頭でっかちだった可能性もあったりして……(汗)。

そして、年齢ごとにどのような「髷」を結うのかを細かく解説しています。詳しく引用することは避けますが、締めの一文が秀逸なので、これだけはちゃんと引用しておきましょう。

これらの少年たちが、その大きな頭に奇怪な形の髪をのせて、重々しい威厳を保つさまは、まことにおもしろい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.132 より引用)
あははは(笑)。日本人の「ちょんまげ」であったり、あるいは清朝の「辮髪」であったり、どうしてこうもオリジナリティのある髪型が生まれるのでしょうね。

皮膚病

ただ、イザベラは次のようにも続けていました。

この大半を剃った頭が、常になめらかで清潔であればよいのだが! 見るも痛々しいのは、疥癬、しらくも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹など嫌な病気が蔓延していることである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.132 より引用)
この後もたびたび出てきますが、当時の日本は衛生面ではかなり立ち遅れた状態だったようです。時代劇に出てくる髷姿の人々は概して清潔感に満ちていますが、実際にはかなり不衛生に見えていたということなのですね。これはちょっとした発見でした。

モグサ

さて、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には「初版」と「普及版」があり、「普及版」は初版から内容がカットされた部分がある、という話でした。「第十信(続き)」では、「モグサ」および「鍼治療」と題された部分がカットされていました。

イザベラは、村人の背中に「火傷の痕」を発見して、それの正体に疑問を持ったようでした。

衣類を着ていない場合人の体つきを研究するのは可能なので、私はいつも脊柱のそれぞれの側に 4 個ずつある八つの火傷の跡のような丸い印があるのを見て何だろうと思っていました。しばしば脚や胸や脇にもそれらと同じくらいの数がその分け前にあずかっているのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.54 より引用)
「イグサ」という題名からもわかるように、これは「お灸」の跡ですね。西洋人から見ると「お灸」というのは迷信じみた奇習にしか見えなかったでしょうし、とてもエキゾチックで興味を惹かれる話題だと思うのですが、なぜか普及版ではバッサリと削られています。何故なのでしょうね。

それは様々な種類の病気に対する治療であるだけでなく、それを 6 回繰り返すことにより、日本人に正当にも恐れられている脚気(セイロンやインドのベリベリ)の症状に特効的に効くと信じられています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.54 より引用)
そういえば、当時は脚気の原因がビタミン不足にあるという事実が知られていなかった頃ですね。だからこそ「脚気」の症状に悩まされる人は多かったということでしょうか。今ではめったに耳にしないですよね。

鍼治療

「お灸」と併せて紹介されていたのが「鍼治療」でした。この文章の後には、金谷家のご主人が奥さんの歯痛の治療を行う様が描写されていました。

他の日本の土着的治療は鍼で、専門家でなくてさえもしばしばそれを利用します。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.54-55 より引用)
ただ、「鍼治療」についてはそれほど詳しく説明されることも無く、すぐに薬の話題に移ります。

彼らが大きな信頼をおくところの一つの薬、つまり百の薬[百薬]の合成物があり、男たちは畑に行くとき小さな箱[印龍]を腰帯に着けて持ち歩いていて、痛みや不快感があればそれを服用します。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.55 より引用)
この文章からは、正露丸のような万能薬が連想されますね。西洋医学に基づく薬や漢方薬が普及する前から、このような「伝統薬」が広く使われていたことを伺わせます。主に樹皮などを煎じたものを薬として使っていたようですね。

伊藤は決してそれなしではいられず、常に私にそれを服用させようとします。それはこげ茶色の粉末で、芳香があり、そのひとつまみが、体全体に温かみのある満足感を広げます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.55 より引用)
ちゃっかり者の伊藤少年も「伝統薬マニア」だったというのは少々意外な感じがしますね。イザベラは、得体のしれない「薬のようなもの」の服用には及び腰だったかと思いきや、それほどでも無かったようで、この文章を読む限りではむしろ満更でもない雰囲気すら伺えますね。葛根湯のようなものだったのでしょうか。

繰り返しになりますが、この「お灸」と「鍼治療」のトピックは、何故か普及版ではバッサリとカットされています。とても興味深い内容だと思うのですが、どうしてなのでしょうね。

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2015年11月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (300) 「ペイトル川・パラメム川・オビチャ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。記念すべき連載 300 回目の記事ですが、いつも以上にいつも通りの内容でお届けします(汗)。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ペイトル川

pet-utur(-pet?)
川・間(・川)
(典拠あり、類型あり)
上士幌町と士幌町を流れるウオップ川の支流です。同名の川がどこかにあったな……と思ったのですが、山の向こうの上川町を流れていたのでした(https://www.bojan.net/2014/02/01.html をどうぞ)。

上川の「ペイトル川」は pe-tuwar-pet で「水・ぬるい・川」だと思われるのですが、改めて「北海道地名誌」を見ると次のように記されていました。

 ペイトル川 安足間川の右支流。アイヌ語で川の間の意の「ペッ・ウト゚ㇽ」の訛。安足間川とパンケプイマナイ沢の間にあるからと思う。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.323 より引用)
現時点では、やはりこの解は誤りなのではないかと思うのですね。というのも、明治期の地図に「ペツトワラ」とあることと、東西蝦夷山川地理取調図にも「ヘトワラ」とあるので、このカナ表記からは pe-tuwar と考えるほうが自然だと思われるからです。

では士幌の「ペイトル川」はどうなのか……という話ですが、残念ながら小河川であるが故に古い資料を見つけられないでいます。ただ、上流部に温泉があるわけでも無さそうですし、サンケウオップ川とパラメム川の間を流れているので、今度こそ pet-utur(-pet?) で「川・間(・川)」と考えられそうかな、と思います。

パラメム川

para-mem(-pet?)
広い・泉地(・川)
(典拠あり、類型あり)
ペイトル川のすぐ西隣を流れるウオップ川の支流の名前です。ウオップ川との合流部から 1.8 km ほど遡ったところで「パラメム川」と「パラメム小川」に分かれています。明治期の地形図には「パラメム」と記載されています。

では、今回も「北海道地名誌」を見てみましょうか。

 パラメム川 上士幌町から流れウオップ川に入る小川。広い湧壷の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.597 より引用)
そうですねぇ。音からは大体そんな感じのように思えます。地形図を見た限りでは泉地の存在は確認できないのですが、中流部から下流部のあたりはゆるやかな丘陵地を流れているので、伏流水も多いのかもしれません。para-mem(-pet?) で「広い・泉地(・川)」と考えて良いかと思います。

オビチャ川

o-put-chak-pet
川尻・口・もたぬ・川
(典拠あり、類型あり)
ウオップ川の南側を西から東に流れる音更川の支流です。地形図で見た感じでは、中流部はかなり人の手が入っていそうな感じがしますね。

割と古くからある川名のようで、戊午日誌にも記載がありました。

またしばし過て
     ヲヒツチヤベツ
左りの方小川。其名義は不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.277 より引用)
ふーむ。東西蝦夷山川地理取調図にも「ヲヒツチヤヘツ」、明治期の地形図には「オピチャペツ」とありますね。続いて今回も「北海道地名誌」を見てみましょうか。

 オピチャ川 東ヌプカウシ山麓から東に流れ音更川右に入る小川。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.597 より引用)
これまた「意味不明」ですね。うーむどうしたものでしょう。

手元の資料をあさった所、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」に記載がありました。

 士幌町史は『オピチャペッ。オ・プッ・チャ・ペッ(尻・口・枝条・川)「川尻の口が数条にわかれている川」の意か(知里による)。帯茶とも書いた)』とあるが、理解しがたい。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.130 から引用)
ふむふむ。他ならぬ知里さんの解ですが、確かに地形図を見ると少々びみょうな感じもしますね。

オ・プッ・チャㇰ・ペッ(o-put-chak-pet 川尻が・口を・もたぬ・川) と解したい。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.130 から引用)
あーなるほど。確かに o-put-chak というのは慣用表現としてもありますし、なかなか巧い解ですね。隣のウオップ川と比べると河口部の流路も掘れていないので、河口部で伏流していたという可能性は確かにありそうな気がします。

ということで、o-put-chak-pet で「川尻・口・もたぬ・川」と考えて良さそうですね。

最後にネタ的な試案もお目にかけましょう。o-pitche-pet で「川尻・剥げている・川」というのはどうでしょうか。他ならぬ「音更」に「毛髪の生じる」という謎な解があるので、毛髪の無い川があってもいいんじゃないか……などと。

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2015年11月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (299) 「ナイタイ川・シリクニ川・ウオップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ナイタイ川

nay-etaye-pe??
沢・頭がずっと奥へ行っている・もの
nay-ta-yupe?
沢・の・チョウザメ
(?? = 典拠なし、類型あり)(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
内外タイムスと言えば「三行広告」で有名でしたが、2009 年 8 月 31 日で「終刊」となっていたのですね。もともとは 1946 年に「華僑向けの新聞」として創刊された(それで「内外」を名乗ったとのこと)らしいのですが、それはあくまで表向きの理由で、実際には読売新聞が GHQ から紙の配給を受ける(横取りする)ためのダミー紙だったのだとか。その後 1949 年に読売新聞の傘下に入っています。

さてナイタイ川です(もはやお約束)。川よりも「ナイタイ高原牧場」のほうが有名かも知れませんね。上士幌町南部を流れる川で音更川に注ぎます。

では、山田秀三さんの「北海道の地名」から。

松浦図ではナイタイ。明治の20万分図,5万分図ではナイタユベと書かれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.315 より引用)
ということで、「東西蝦夷山川地理取調図」を確認してみたのですが、音更川の源流部に「ナイタイヘ」という川が見つかりました。ただ、他の川との位置関係を見てみると、現在の「ナイタイ川」とは別の川であるように見受けられます(位置が違うのみならず、現在のナイタイ川は西から東に注ぐ川ですが、東西蝦夷──では東から西?に注ぐように描かれています)。

そして山田さんの言う「ナイタイ」という川は結局見つけることができませんでした。「戊午日誌」に少しだけ記載があったので、念のため見ておきましょうか

またしばし過て
     ナイタイベ
左りの方小川。其名義不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.287 より引用)
本文には「其名義不解也」とありますが、トーチュウ……じゃなくて頭注には「nay 川」「ta 多し」「yup 蝶鮫」とあります。「ta」が「多し」というのは少々首をひねるところですが、念のため「北海道の地名」に戻ってみましょうか。

永田地名解は「ナイタユベ。nai-ta-yube。川鮫。川鮫多し」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.315 より引用)
確かに、p.311 に「ナイ タ ユベ」とありますね。

ナイタイベの形は,石狩川の神居古潭のすぐ下の内大部,十勝川上流の内大部等があり,どれも語義がはっきりしていない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.315 より引用)
十勝川上部にも「内大部」があるとのことですが、少し探した限りでは見つけることができませんでした。どの辺にあるのでしょうね……。

深川の「内大部川」

さて、引用部に「石狩川の神居古潭のすぐ下の内大部」とありますが、これは旭川市と深川市の境を流れる「内大部川」のことですね。かつて国鉄芦別線となる予定の路線が工事されたところです。こちらの「内大部川」については、知里さんが「上川郡アイヌ語地名解」で次のように記しています。

 内大部川(ないたいべがわ) アイヌ語「ナイタイペ」(Náitaipe)。「ナイ・タ・ユペ」(Nai-ta-yupe 沢・の・蝶鮫) の義で, 石狩川の絶壁の下で捕った蝶鮫を舟でこの沢へ運び入れて陸へ揚げたのでこの名がついたという。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.314 より引用)
ここまでは今回の「ナイタイ川」の解ともほぼ同じなのですが、深川の「内大部」については別の可能性も検討していたようでした。

或は「ナイ・エタイェ・ベツ」(Nai-etaye-pet 沢の・頭がずっと奥へ行っている・川)などの転訛か。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.314 より引用)
深川の内大部川は神居山とイルムケップ山の間の新城峠が水源で、それほど「奥へ行っている」という感じもしないのですが、あるいは支流の「オロエン川」のことを指していたのかも知れませんね。オロエン川の水源は神居山の南東部なので、「頭がずっと奥へ行っている」という表現も割としっくりと来ます。

まとめ

上士幌町のナイタイ川に戻りますが、こちらも他の川と比べると比較的山奥まで伸びているようにも見えます。そんなことから鎌田正信さんも「道東地方のアイヌ語地名」にて「ここもこの解のほうが、現地に合っているのでなかろうか」と記していました。

というわけで、nay-etaye-pe を推したいところですが、古くから伝わる nay-ta-yupe を一方的に捨て去るのもどうかな……と思われるので、ここは両論併記で。nay-ta-yupe で「沢・の・チョウザメ」か、あるいは nay-etaye-pe で「沢・頭がずっと奥へ行っている・もの」ということで。どちらかと言えば後者推しです!

シリクニ川

surku-un-i
トリカブトの根・ある・ところ
(典拠あり、類型あり)
思いの外「ナイタイ川」で文字数を取られてしまったので(多少は内外タイムスのせいかと)、あっさりと行きましょう。「シリクニ川」は「ナイタイ高原牧場」のあたりを流れる川で(あれ?)、音更川と並流する形で北から南に流れますが、士幌町で音更川と合流しています。

おや、これは何だろう……と思ったのですが、「北海道地名誌」に記載が見つかりました。

 シリクニ(シュルクウニ)川 サンケウオップ川の東を並行して流れ下流は士幌町で音更川に入る支流。アイヌ語「スルク・ウニ」は毒(とりかぶと)のあるところの意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.599 より引用)
あー、なるほど。「シルクニ」だと意味不明でしたが「シュルクウニ」だと一目瞭然ですね。surku-un-i で「トリカブトの根・ある・ところ」と見て間違い無さそうです。

東西蝦夷山川地理取調図にも「シユルクニ」という川が記録されているのですが、「シユルクニ」から見てかなり上流に「ナイタイヘ」があったのでした。両者があまりに離れているので、「ナイタイヘ」は「ナイタイ川」では無いとの推論に達しています。

ウオップ川

u-o-p?
互いに・存在する・もの
e-u-o-p??
頭(水源)・互いに・存在する・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠なし、類型あり)
シリクニ川の西側を「サンケウオップ川」が並流していて、音更川に合流する 1 km ほど手前のところで「ウオップ川」と合流しています。「戊午日誌」に記載があったので、早速見てみましょう。

また高山の間しばし分行や
     ウヲツヒ
同じく左りの方小川。名義不解也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.286-287 より引用)
これまた「名義不解也」とありますが、東スポ……じゃなくて頭注には「u 並んで」「ot 群在する」「pi 石」と書かれています。なるほど、確かにそう読み解けなくも無いですね。

では、続いて伝統と信用の永田地名解を見てみましょう。

Uop   ウオㇷ゚   ?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.311 より引用)
気持ちは良くわかりますが、幸いな事に続きがありました。

松浦地圖「ウヲツヒ」ニ作ルハ誤ナリト「アイヌ」云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.311 より引用)
「意味はさっぱりわからないけど、とりあえず『ウヲツヒ』は違うと聞いたよ」という記録ですね。まぁ、これはこれで貴重な記録と言えそうです。

さて、地図をよーく見るとあることに気がつきます。ウオップ川を水源から河口に向かって見てみた場合、パラメム川およびペイトル川と合流した後で、最後にサンケウオップ川と合流して音更川に注いでいます。

言い方を変えると、「ウオップ川」と「サンケウオップ川」は同一系統の川ではありますが、流域の殆どで別の川として存在しています。つまり、何故にこのニ川が「兄弟川」となったのかを考える必要があるような気がするのです。

「ウオップ川」が「パラメム川」「ペイトル川」よりも強く「サンケウオップ川」と結びつくものが一つ見つかりました。実は、両川の水源はとても近いのですね。この図で言えば、左下(南西)がウオップ川で上(北)がサンケウオップ川です。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
仮に、この地理的特徴が川名の由来だったら……。e-u-o-p で「頭・お互いに・存在する・もの」と考えられなくは無いかな……なんて。

この川は少し上ると,殆ど同じくらいの二川が合流している。あるいはウ・オ・ㇷ゚(互いに・ある・もの)ぐらいの言葉ででもあったろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.315 より引用)
確かにそういう解釈もできますね……(汗)。ただ、手前味噌ではありますが、試案のほうが地名(川名)としての実用性も高いと思うので、是非ご検討頂きたく……(何を)。とりあえずは u-o-p で「互いに・存在する・もの」としておきましょう。

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2015年11月20日金曜日

日本最長路線バスの旅(番外編)#4 「生まれながらの無人駅」

紀勢本線の普通列車は熊野市駅を出発して多気に向かいます。短いトンネル(名称不詳)とちょっと長い目のトンネル(木本トンネル)を抜けると、間もなく大泊駅に到着します。
「有井」「熊野市」と同じ熊野市内の駅なのですが、随分と山の中に来てしまった感じがありますね。これは駅がやや高台にあるのも関係あると思うのですが……
大泊駅の開業は国鉄紀勢西線の開通と同時の 1956 年とのこと。そのせいもあるのでしょうが、無人駅でも立派な駅舎がある駅が多いですね。
駅とホームの間に謎の車止めが見えるのですが、実は手前にこんな車両が停まっていました。
マルチプルタイタンパーでしょうか(多分違うけどこれしか知らない)。

生まれながらの無人駅

大泊駅を発車すると、紀勢本線は再びトンネル(大吹トンネル)に入ります。トンネルを抜けて海が見えてきたな……と思う間もなく「波田須駅」に到着です。
波田須駅は山側にホームがあるだけのとても簡便な構造です。どの駅にも立派な駅舎があって驚いていたのですが、ようやく「生まれながらの無人駅」にやってきたような感じがします。
海側に陣取っていたので、山側のホームを撮影するのも一苦労だったのですが(いや、移動すれば済む話ですけどね)……まぁ、これで必要な情報はしっかり押さえることができました。そう、「波田須」は「はだす」と読むのです。

波田須駅は「秘境駅」と言うほどの感じでもありませんが、車で駅に向かうのは割と大変そうな感じです。一日あたりの平均乗車人員は順調に低下を続けているようで、2013 年の時点で 5 人とのこと。今は国道 311 号線の整備も進んでいるので、自家用車へのシフトも進んでいるのでしょうね。

まだ熊野市内ですが

波田須駅を発車すると、またしてもすぐに短いトンネルに入ります。そして 300 m ほど走ったところで甫本トンネルに入ります。トンネルを抜けるとまたしても海が良く見えますが、これは「新鹿湾」のようです。
この「新鹿湾」は、もちろん湾なのですが、湾に注ぐ里川の河口部に凄く大きな砂浜が形成されています。上流部から川が運搬してくる土砂の量が多いということなんでしょうかね。
ちなみに「新鹿」で「あたしか」と読みます。もうすぐ駅に到着しようかとするところですね。

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