2015年8月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (273) 「多和・イソチベツ川・瀬文平橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

多和(たわ)

ta-wa???
そこ・渡渉する?
tapa???
木製の鉤
(??? = 典拠なし、類型未確認)
標茶町市街地の北隣にある地名で、同名の川も流れています。一見和名のようにも見えますが、「ポン多和川」という川もあるので、アイヌ語由来と考えて良さそうな感じもします。

では、まずは更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 多和(たわ)
 国鉄標津線が釧網線と分かれて、東の山地に入るところの集落。この付近に北の山地から出て釧路川に合流する川の名から出たものであるが、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.253 より引用)
ふむふむ。そうなんですよねぇ。

アイヌ語の意味は明らかでない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.253 より引用)
……。残念!

続いて山田秀三さんの「北海道の地名」から。

多和川 たわがわ
 標茶の北で釧路川に注ぐ東支流。アイヌ語らしくない形なので,日本語の「たわ」(丘陵線のたわんだ処)かと思っていたが,松浦図にそれらしい川名があるので,アイヌ語かもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.272 より引用)
そうなんですよねぇ(本日二度目)。もちろん続きがあります。

ただし意味がわからない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.272 より引用)
(汗)。……すごい難問を引いてしまった気がしてきました。

こうなっては仕方がありません。我らが「角川──」(略──)を見てみましょうか。

 たわ 多和 <標茶町>
〔近代〕昭和26年~現在の標茶(しべちゃ)町の行政宇名。もとは標茶町大字標茶村の一部。江戸期の松浦武四郎「廻浦日記」に「タワ」と見える。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.849 より引用)
そうなんですよねぇ(三度目)。これももちろん続きがあります。

明治41年軍馬補充部川上支部放牧地となり,戦後に開放されるまで一貫して同支部の用地であった。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.849 より引用)
へ……? 「地名は──」という名文句を期待していたのですが、見事にあてが外れてしまいました。うー、困りましたね……。

山田さんの「北海道の地名」によると、古くから多和川に沿って標茶から虹別に向かう交通路があったとのこと(8/2 の記事も参照ください)。こういった歴史的経緯?を踏まえて読んでみると、ta-wa で「そこ・渡渉する」と読めなくは無い……かも……?

別解として、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」(私家版)に次のような記述がありました(孫引きですいません)。

 標茶町のアイヌ語地名は「もしかしたらタワはワと発音しないでハまたはパではないかと考えた。タパは樺太ではキハダの実をとるのに枝のついた木を利用した木鉤を言うらしい。その実をとるための木鉤がタパであり、タパがタハと地名になったと考えられないだろうか。事実、この川筋にはキハダが多いという」と記した。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.304-305 から引用)
あ、確かに知里さんの「──植物編」の、「キワダ」の項にも次のように記されていますね。

(参考)秋になるとこの果實を多量に採集した。それにわ,枝のついた木を利用して作った「なゥケㇷ゚」(náwkep)(北海道),或いわ「タぱ」(tapa)(樺太)と稱する木鉤で採った。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.103 より引用)
「標茶町のアイヌ語地名」の著者は、「──植物編」のこの記述を見ていたのかも知れませんね。

イソチベツ川

iso-ochi-pet??
獲物・群在する・川?
(?? = 典拠なし、類型あり)
多和川の東支流です。素直に読み解けば iso-ochi-pet であるように思えます。iso には「水中の波かぶり岩」という意味もありますが、ここでは「獲物・群在する・川」となるのかなぁ、と思います。

おおっ! 久しぶりに凄く短くまとまりましたね!(汗)

瀬文平橋(せもんびら──)

chep-un-pira
魚・いる・崖
(典拠あり、類型あり)
国道 391 号線は、基本的には釧路川の東側を走っていますが、五十石駅の北側で一旦釧路川を渡り、西側を走ります。標茶町の中心部を抜けたあと、標茶と磯分内の間にかかる「瀬文平橋」で再び釧路川を越えて弟子屈へと向かいます。

一見すると和名のようにも思える「瀬文平橋」ですが、実はれっきとしたアイヌ語由来の地名なのだとか。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 瀬文平橋(せもんびらばし)
 標茶と磯分内の間で釧路川にかかった橋。この橋の近くの釧路川岸の崖を、チェプ・ウン・ピラ(魚のいる崖)といって、昔は鮭の産卵場のあるよい漁場であったのが、この名の起こりである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.254 より引用)
ふーむ。chep-un-pira で「魚・いる・崖」ですか! 「チェ」に「瀬」という字を当てて、「プン」に「文」という字を当てたところ、読みが「もん」に変わってしまったということでしょうか。この流れが正しいとすれば、かなり驚きの変貌っぷりなのですが、確かに戊午日誌にも次のようにありました。

またしばし下りて、
     チエツフンヒラ
山下平崩、其下メム有。此処魚類多きが故に号る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.472 より引用)
ふーむ。これは間違い無さそうですね。

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