2015年7月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (266) 「タンネヌンベ川・オモシロンベツ川・ホマカイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

タンネヌンベ川

tanne-nu-un-pet??
長い・豊漁・ある・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
塘路湖の東側に南流する川の名前です。塘路湖の北側を流れる川の中では、割と長めのものですね。残念ながら「戊午日誌」や「東西蝦夷山川地理取調図」には記載が無さそうです。

素直に読み解くと tanne-nu-un-pet で「長い・豊漁・ある・川」となります。割と魚が穫れた川だったのではないでしょうか。

ちなみに、この「タンネヌンベ川」は、明治期の「陸測 20 万図」には「コタンヌンペッ」と記載があります。これだと kotan-un-pet で「集落・ある・川」となりますね。現在は無人の原野に還ってしまっていますが、河口部には僅かながら平地もあり、あるいは漁を中心に生計を立てていたアイヌがいたのかも知れません。

オモシロンベツ川

o-mosir-un-pet??
河口部に・島・ある・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
塘路湖の東側に西流する川の名前です。塘路湖の水源となる川の中では、アレキナイ川に次ぐ流域の広さを誇ります。割と(日本語の語感では)面白そうな名前の川ですが、交通の便の悪さからか、あまり知名度も高く無さそうな感じですね。

雨竜町の「面白内」については 北海道のアイヌ語地名 (65) 「面白内・恵岱別・美馬牛」をご覧ください。

この「オモシロンベツ川」は、塘路湖に注ぐ川の中ではかなり大きなものですが、松浦武四郎の「戊午日誌」などには記載がありません。明治期の「陸測 20 万図」には「オモシロシペ」と記されているようです。

おそらく、o-mosir-un-pet あるいは o-mosir-us-pet で「河口部に・島・ある・川」だったのでしょうね。朱鞠内湖の北岸に「母子里」(近くを通っていた深名線の駅名は「北母子里」)という地名がありますが、そこと同じ地名だったのではないかと思われます。

ホマカイ川

homaka-i??
後ずさりする・もの(川)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
塘路湖に注ぐ河川の中で最大のものが、塘路湖南東部に注ぐ「アレキナイ川」ですが、ホマカイ川は河口から遡ると最初の支流です。この川も「戊午日誌」などには記載がありませんが、「陸測 20 万図」には「トマペッ」という名前で記録されています。

なお、同名の川が尾幌川の支流にもあるのですが、塘路湖からホマカイ川を遡って行くと「北片無去」の集落に辿り着き、やがて尾幌川の支流の「ホマカイ川」に合流します。「陸測 20 万図」には北片無去のあたりを流れる川の名前として「コイカクシェホマカイ」と記しているため、塘路から尾幌へのルートとして活用されていたことを伺わせます。

塘路の「ホマカイ」は手持ちの資料には情報が見当たらないのですが、尾幌の「ホマカイ」は永田地名解に記載がありました。

Homaka-i  ホマカイ  後背ノ處 アイヌ云「ホマカイ」ハ分レルコト?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.358 より引用)
homaka という単語の意味を確認できないのですが、makan 「奥へ行く」と近いニュアンスの単語のように思われますね。ho- は「お尻」という意味ですから、「お尻が奥へ行く」即ち「後ずさりする」という意味……でしょうか。永田方正の註は良くわからなかったですが、「後背ノ處」という解釈はあながち間違ってなかったような気もします。homaka-i だと「後ずさりする・もの(川)」と解釈できそうですね。

さて、「後ずさりする川」とは一体どんな川なのでしょうか?

道内には horka-pet あるいは horka-nay という名前の川が各所にあります。有名なのは「幌加内」ですが、幌加内川は南から北に流れて雨竜川に合流します。ところが雨竜川は北から南に流れる川なので、雨竜川から見ると幌加内川は horka (後戻り)する川、となるのですね。

ところが、永田方正は horka を「逆流する」と理解していたようで、たとえば「渡島國 松前郡」の「ホロカ ナイ」の地名解として、次のように記しています。

Horoka nai  ホロカ ナイ  潮入リテ河水却流ス故ニ名ク、或ハ云フ此川ハ四十八瀬アリテ順逆ニシテ流ル故ニ此名アリト(後略)
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.151 より引用)
実際に、中国の「銭塘江」のように特定の条件で川が逆流するケースはありますが、こういった例はあくまでレアケースだと考えられます。ところが、この「ホマカイ川」も、実は「逆流する川」だった……という考え方はどうでしょうか?

もちろんこれは言葉の綾なのですが、標茶町北片無去の西方にある、塘路のホマカイ川(の支流)と尾幌のホマカイ川(の支流)の分水嶺はとても緩やかな地形のようなのですね。ですから、川を遡っているうちに、いつの間にか川を下りているという風に感じられていたのではないかと。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
つまり、当時のアイヌにとっては、これらの両ホマカイ川は文字通り「逆流する川」と捉えられていたのではないか……というお話です。塘路の「ホマカイ川」が、いつ頃から「ホマカイ川」と呼ばれていたのかが未詳なのが、ちょっと厳しいところなのですが……。

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