2015年5月5日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (44) 日光東照宮(日光市) (1878/6/21)

引き続き、1878/6/21 付けの「第八信」(本来は「第十一信」となる)を見ていきましょう。

家光の社

日光東照宮を訪れていたイザベラは、家康の社殿に続いて家光の社殿にやってきました。随分と「お腹いっぱい」だったかと思いきや、なかなかどうして鋭い視点は健在だったようです。

仏教の諸神や仏教信仰の豪華な道具があふれていて、黄金と彩色の輝く中に神道の鏡がひっそりと簡素であるのと強い対照をなしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.107 より引用)
時代背景としては、「神仏習合」の考え方が見直され始めたあたりの筈ですが、イザベラはどこで学んだのか、これらの違いをきちんと把握していたようですね。時はまさに「廃仏毀釈」の世の中で、このようなやり取りもあったようです。

私が初めて訪れたとき案内してくれた老僧は、風神と雷神のそばを通ったときに語った。「昔はこれらのものを信仰したのですが、今では信じません」。他の神々のことを話すときの態度は、さも軽蔑しているふうであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.108 より引用)
日本人の「変わり身の速さ」は特筆すべき性質であるように思えるのですが、こんなところにも良く現れていますね。この性質を「受容の速さ」と捉えるべきか、あるいは「節操の無さ」と捉えるべきかは時と場合に依ると思うのですが、この場合は果たしてどちらが正鵠を射ているのでしょうか。

しかし、私が社殿に入るとき、靴と帽子をとるように、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.108 より引用)
あはは(笑)。本音では「もうどうでもいいや」と思いながら、建前としての儀礼は決して疎かにしないあたり、これもいかにも日本らしいと言えそうですね。

日本とインドの宗教芸術

家光の社殿の中での描写が続きます。

この寺院には百以上の偶像が並んでいた。その多くは等身大で、あるものは足もとに鬼を踏みつけている。すべてが恐ろしい像である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.108 より引用)
この後ももう少し文章が続いているのですが、どうやら「金剛力士像」のような立像が沢山並んでいたようですね。「普及版」では「筋肉がすべて盛り上がっているのが目立つ」として「一般にひどく誇張されている」と結んでいるのですが、「完全版」では後に続く文章がありました。

私が 2 回目に気付いたのは恐ろしくて奇妙な日本における宗教の想像上の創造物──捻じ曲がった姿で風になびいている襞のあるけばけばしい服を着けている──と、輸入された仏──インド宗教の創造物である東洋風の静かな顔──との奇妙な対照です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.46 より引用)
これは……。言われてみれば、確かにその通りですね。Wikipedia を見てみると、こんなことが書かれていました。

日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
(Wikipedia 日本語版「金剛力士」より引用)
なるほど。ビルの守衛さんのような存在なのですね(ちょっと違うような気も)。

イザベラは、続けて次のようにも記していました。

 幾つかの偶像(農業神や船乗りの守り神のような)が神社にありたくさんの米とお菓子のささやかな供え物がそれらの偶像の前にありました。神官は、これらの神の名前を書いた紙切れを難破や飢饉から護る御守りとして売っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.46 より引用)
ちなみにこの話には続きがあって、今回の旅でイザベラの付き人を務めている伊藤少年が、横浜で米作りをしている(?)人からの頼みで「飢饉から護る御守り」を買い求めていたのだとか。伊藤少年の抜け目のなさが良く出ているエピソードだと思うのですが、普及版ではカットされてしまったようですね。何故なんでしょうね。

地震

「普及版」の話題に戻ります。イザベラが東照宮を訪れている間に、地震があったことを記しています。

 私たちが中庭を通っているとき、地震を二回感じた。軒端についている黄金の風鈴が、静かに鳴った。多くの僧侶が寺院の中に駆けてゆき、半時間ばかり各種の太鼓を打った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.108 より引用)
地震そのものの描写は「地震を二回感じた」だけだったので、大した規模のものでは無かったことを思わせますが、その後の僧侶のアクションが少々謎ですね。地震に応じたものなのか、あるいは平常の所作だったのかが読み解けませんでした。なんとなく前者のような気がするのですが……。

木彫りの美しさ

謎が残る「地震」のエピソードに続いて、「木彫りの美しさ」と題されたセンテンスがあるのですが、ここでも「普及版」でカットされたエピソードが存在します。その中から抜粋して引用してみます。

木材や、塗装、金箔のようなものは永久にもつものではないので、日本政府は古いものの保存よりも材質の進歩により熱心ですが、これらの神社仏閣が人々の信仰の衰退と共に衰退の宿命から逃れることが出来るのか疑問です。私は絶対的な絶望の中で案内書の大胆明瞭な説明の線まで私の記述を切り詰めて減らしました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.47 より引用)
ちょっと日本語が変なのは置いときまして、イザベラは時の権力者に拠る庇護を失った日光東照宮がやがて朽ち果ててしまうことを心配していたように見て取れます。「完全版」には「第十一信」(普及版における「第八信」)の最後に次のような注が付けられていたそうです。

原注1:日本政府は最近日光と芝の寺院の修復の業務にとりかかった。それゆえに、これらのこの上なく見事な芸術作品の衰亡の危惧は今や終焉した。
1880年1月。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.48 より引用)
ですので、イザベラがこのエピソードをカットしたのは、結果的に杞憂だったからなのかも知れませんね。そして、この流れで「第十一信」(普及版における「第八信」)の冒頭もカットしてしまったのではないか、と思います。

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