約四ヶ月ほどのご無沙汰でした。では早速ですが、1878/6/21 付けの「第八信」(本来は「第十一信」となる)を見ていきましょう。
日光の美しさ
第八信は、なんとも懐かしい格言から始まります。
私はすでに日光に九日も滞在したのだから、「結構! 」という言葉を使う資格がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「
日本奥地紀行」平凡社 p.100 より引用)
「懐かしい」と言いながら、実は私自身もこの成句の存在を知らなかったのですが、「日光見ずして結構と言うなかれ」という格言があるのですね。ちなみに、イザベラの原文には
I have been at Nikko for nine days, and am therefore entitled to use the word "Kek’ko!" とあります(笑)。
さて、日本奥地紀行の「普及版」では、続けて「日光は『日の当たる光輝』を意味する」と続けていますが、実は「完全版」には次のような文章が続いていました(つまり「普及版」ではカットされたということですね)。
日光には際立った特質があります。しかしそれは素晴らしい美しさと変化があるということよりもむしろ、その厳粛な壮麗さ、深遠な物悲しさ、そのゆっくりとした確実な衰退、そしてそのどちらからも人が完全に逃れることの出来ない歴史的かつ宗教的な雰囲気に存するものです。
文章の調子が違うのは訳者が違うからですね。それはさておき、イザベラは、長きに亘った徳川の治世が終わってから 11 年が経った日光東照宮に「もののあはれ」に通じる哀愁を感じていたことが見て取れます。これはかなり重要な発見だと思うのですが、イザベラは帰国後に幾許かの誤謬があったと感じたのか、この重要な発見を削ってしまったようですね。このことは、個人的には割と残念に感じます。もったいないなぁ、と。
それはまた同時に埋葬所でもあり、降り続く雨と不思議な静けさの中にあって、その栄光が過去の中に横たわっています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.45 より引用)
東照宮は荘厳な墓所であり、しかしながら、この上なく華美な装飾によって過剰なまでに彩られた宗教施設でもありました。後者としての機能は時の権力者が欲したものであり、もはや必要とされなくなったものであることもイザベラは理解していたと考えられます。そのあたりの感傷が筆を狂わせた……と後に感じたのかもしれませんね。
では、「普及版」に戻りましょう。「日光」とはどのような土地であるのか、イザベラの筆が進みます。
日光は「日の当たる光輝」を意味する。その美しさは全日本の詩歌や芸術に有名である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.100 より引用)
ん、そこまで有名だったかな? と思わないでも無いのですが……。しかし、ここからイザベラの怒涛の激賞が始まります。
すばらしい樹木の森林。人がほとんど足を踏み入れない峡谷や山道。永遠の静寂の中に眠る暗緑色の湖水。二五〇フィートの高さから中禅寺湖の水が落ちる華厳の滝の深い滝つぼ。霧降の滝の明るい美しさ。大日堂の庭園の魅力。大谷川が上流から奔り流れ出てくるうす暗い山間の壮大さ。つつじ、木蓮の華麗な花。おそらく日本に並ぶものがない豪華な草木も、二人の偉大な将軍の社をとりまく魅力の数々のほんの一部分にすぎない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.100 より引用)
周りの「舞台装置」を余すこと無く褒めあげていますね。少々皮相的なことを言うと、見たところ「侘び」や「寂び」といった概念に根ざしたものは少なそうで、どれも非常に「わかりやすい」ものであるような気がします。そして、それは「東照宮」という場所を参詣する際の心構えとしても、間違ってはいないように感じられます。
家康の埋葬
御存知の通り、日光東照宮は徳川家康の墓所であり、後に三代将軍だった家光も埋葬されています。そのあたりの事情もイザベラは詳らかに記しています。
家康は、勅命によって神として祀られ、「東方の光、仏陀の偉大なる権現」を意味する東照大権現の名を賜った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.101 より引用)
このように、家康が神として祀られた一方で、
家康ほど重要でない徳川家の他の将軍たちは、江戸の上野と芝に葬られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.101 より引用)
ありゃりゃ。確かにその通りなのですが、「家康ほど重要でない」というのは結構な直球ですよね(笑)。「他の将軍たち」はどう思っていることでしょうか。
さて、「他の将軍」が上野や芝に葬られているのに対して、唯一の例外として日光に眠っているのが三代将軍だった家光ですが、そのことについては「完全版」でのみ触れられています。
ここに埋葬されているもう一人の将軍は家光です。彼は家康の有能な孫で日光の神社仏閣群と江戸の上野の東叡山[寛永寺]を完成したのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.46 より引用)
「普及版」ではバッサリとカットされてしまったあたり、家光も結局は「家康ほど重要ではない」というオチだったということでしょうか。
大神社の入口
イザベラは、東照宮の仁王門について、「大神社の入口」というサブタイトルでその姿を詳らかに記しています。個々の描写については省略しますが、まとめの一文を引用します。
建物の全様式、配置、あらゆる種類の芸術、全体に浸透している思想は、日本独自のものであり、仁王門から一目のぞいただけで、今まで夢にも見ない美しい形と色彩を見せてくれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.102 より引用)
イザベラは「今まで夢にも見ない美しい形と色彩」と評していますが、東照宮の華美な造形を素直に愉しんでいるようですね。
陽明門
続いて「陽明門」に向かいます。
この庭から別の階段を上ると陽明門に出る。毎日そのすばらしさを考えるたびに驚きが増してくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.102-104 より引用)
荘厳な建築物が畳み掛けるように姿を見せることに、さすがのイザベラも打ちのめされ気味になってきたのでしょうか。
中庭から中庭へ進んでゆくと、次々とすばらしい眺めに入るように感ぜられる。これが最後の中庭だと思うとほっとして嬉しくなるほどである。これ以上心を張りつめて嘆賞する能力が尽きはてようとしているから。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.104 より引用)
イザベラも、俗に言う「お腹いっぱい」状態になったのでしょうね。
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