突然の「錨」
それでは! 「函館市青函連絡船博物館 摩周丸」をくまなく見ていきましょう!(なんかここ数日同じようなことばかり言っているような気もしますが……(汗))ボーディングブリッジを渡って、エントランスのところで左折すると……
いきなり「錨(いかり)」のご登場です。ただ、この錨は連絡船本体のものでは無くてタグボート(曳き船・補助汽船)の錨なのだとか。これで約 230 kg とのことですが、連絡船本体の錨は約 4 t もあったそうなので、とても展示できるサイズ(重量)では無かったということなのでしょうね(実物大の模型なら置けたのかもしれませんが)。
後ろの壁に解説文が掲出してあるのですが……
小学生が読む可能性を想定したのか、ひらがなの多い文章になっています。それはそうと、連絡船の錨は JIS 規格ではない「国鉄型錨」というものを使っていたんですね。JIS 規格と国鉄型の違いはうまく説明できないので、後ろの解説文から写真の部分を切り出してみました(権利上の問題があればご連絡ください)。平たく言えば、土台の部分を末広がり型にすることで入射角が大きくなり、上の爪の部分がより海底に食い込みやすくなった、といったところでしょうか。
国鉄型「錨」開発のいきさつ
何故に国鉄が独自規格を開発することになったのか……と思ったのですが、どうやらこんな事情があったみたいです。明治大正時代では、海軍の近代化を計るために海外から戦艦を購入しているが、これらの船舶と一緒にマーチンスやトロットマンス等数多くの錨が日本へやって来ている。現在使用されているJIS型の元となるやホールスも大正末期にはパテントアンカーとして日本へ輸入されていた。
(Wikipedia 日本語版「錨」より引用)
ということで、錨ももともとは海外から購入したものをベースに標準化が進んだらしいのですが……昭和29年に起きた青函連絡船洞爺丸事故により錨の性能への関心が高まり日本独自の錨開発が始まる。
(Wikipedia 日本語版「錨」より引用)
なるほど……。洞爺丸は函館港を出た後、風が強まったため一旦停止して投錨したものの、暴風と波浪のために錨が船体を固定できず、沈没の原因のひとつとなってしまった、ということだったのですね。というわけで、より性能(把駐力)を高めた錨を国鉄が独自開発したのですが、
当時国鉄では国鉄型としてJNR型アンカーを開発し、洞爺丸の後継船をはじめ多くの船舶へ広めようとした。しかし、性能面での問題や青函連絡船の廃止、国鉄の民営化など様々な事情から現在ではほとんど使用されなくなっている。
(Wikipedia 日本語版「錨」より引用)
このような事情により、普及することは無かったということのようです。ところで、「性能面の問題」というのはどういうものだったのでしょうね。少なくとも当時の標準だった JIS 型よりは優れた性能を発揮したからこそ「国鉄型」として採用されたのだと思うのですが……。JNR型アンカーの姿は函館市青函連絡船記念館摩周丸や独立行政法人航海訓練所の大成丸で見る事が出来る。
(Wikipedia 日本語版「錨」より引用)
先ほどの写真の下の方に地図がありますが、③ と ④ が「国鉄型錨」を保存展示している場所のようです。諸事情により(後で明らかになります)現物を撮影した写真はありません……(残念!)。カモノハシではありません
それでは、3F へと移動しましょう。階段の絵はあくまでイルカであって、西日本のほうで使われている交通系 IC カードとは全く関係無いので要注意です。階段を上がると……
イコや……いや、イルカに右に進むように誘導されます。そう言われるとつい左の方を見てみたくなるのが人情というものでして……(ぉぃ)
左後方には「サロン海峡」のソファーセットが置いてあった入管受付窓口の建物と、現在は解体されてしまったかつての「ピアマーケット」の建物が見えます。
そして左前方には……遠く函館山が見えますね。ちょっと雲行きが怪しそうですが……
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