前回の記事にも記したように、この「金谷家」のご主人は、後に「金谷ホテル」を開業することになる経歴の持ち主で、当時から外国からの宿泊客をもてなすことに長けていたように見受けられます。イザベラが描いた 1878 年の世界から、綿々と続くその系譜を現在まで見て取れる珍しい例なので、ちょっと嬉しくなりますね。
日本の田園風景~音楽的静けさ
イザベラは、第七信を次のように書き出していました。私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。これは、美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の眼を楽しませてくれぬものは一つもない。宿屋の騒音で苦い目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほんとうに心をすがすがしくさせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.96 より引用)
「日本の田園風景」というサブタイトルが憎く思えるほど、まさにそのものと言った内容が記されていますね。水の奏でるメロディーというのは日本の田園風景を語る上で欠かせない要素だと思うのですが、もちろんイザベラもそれを逃すはずがありません。続いて、金谷家の外観について記しています。
家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.96 より引用)
金谷家の外観については、平凡社刊の「日本奥地紀行」p.97 にイラストが掲載されていますが、イザベラのテキスト通りの外観ですね。金谷家は元々は民家だったと聞いていますが、京の町家のような風情と言うよりは、現代の高級一戸建てのほうが近いかもしれません。敷地は見たところ80~100坪くらいでしょうか……?金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.97 より引用)
当時の「金谷家」が家族経営だったことを如実に示すエピソードですね(民宿なので当然と言えばそれまでですが)。イザベラの覚えもめでたいあたりは流石です。私の部屋~花の装飾
「金谷家」も典型的な日本家屋なので、イザベラの部屋も一方はすべて障子張りでしたが、きちんとした床の間もある和室だったようです。一方の隅には床ノ間と呼ばれる二つの奥まったところがあり、光沢のある木の床がついている。一つの床の間には掛物《壁にかけた絵》がかけてある。咲いた桜の枝を白絹の上に描いた絵で、すばらしい美術品である。これだけで部屋中が生彩と美しさに満ちてくる。それを描いた画家は、桜の花しか描かなかったが、革命(維新)の戦いで死んだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.98 より引用)
「床の間」という、部屋に備わっている「謎の設備」を的確な筆致で記していますね。「掛け物」の存在を「これだけで部屋中が生彩と美しさに満ちてくる」と評したあたりは抜け目の無さを伺わせます。和室の美意識というものは日本人でも決して容易に理解できるものでは無いと思うのですが、イザベラはどこでこういった感覚を手に入れたのでしょうか。私は部屋がこんなに美しいものでなければよいのにと思うほどである。というのは、インクをこぼしたり、畳をざらざらにしたり、障子を破ったりはしまいかと、いつも気になるからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.98 より引用)
これまた、和室の「こわれそうな美」という感覚を具体的に表していますね。こわれそうだから良い、そして、こわれるから良い、と言った感覚でしょうか。おそらくは、西洋における物事のありかたと真逆の価値観であるからこそ、イザベラも感じるものがあったのではないでしょうか。金谷とその一家
イザベラは、金谷家のご主人・金谷さん(金谷善一郎氏)についても一節を設けています。金谷さんは神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である。しかし彼のやる仕事はほとんどないので、自分の家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.98 より引用)
……(汗)。あの、その、えっと……。彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今まで会った日本の婦人のうちで二番目に最もやさしくて上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.98-99 より引用)
ふーむ。「二番目に最もやさしくて」というのが興味深いですね(一番は誰なのか、という意味で)。イザベラは金谷さんの妹のことを「妖精のように軽快優雅」とも評していて、とても好意的に見ていたことが受け取れます。金谷さんは村の重要人物で、たいへん知性的な人である。充分な教育を受けた人らしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.99 より引用)
先ほど「やる仕事はほとんどない」「家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事」という爆弾が投下されましたが、すべて「誤解である」とも言い切れないのが何とも言えないところで……。金谷さんは日光東照宮の笙奏者が本業らしいのですが、あるいは徳川家が政権を返上したことで、東照宮での催事も激減した……のかもしれません。近ごろ彼は、収入を補うために、これらの美しい部屋を紹介状持参の外国人に貸している。彼は外国人の好みに応じたいとは思うが、趣味が良いから、自分の美しい家をヨーロッパ風に変えようとはしない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.99 より引用)
そこで、外国人向けの民宿を開業した、ということのようですね。知ってか知らずかは分かりませんが、純和風の佇まいをそのままにしたことで、結果として外国からの宿泊客の歓心を得た、といったところだったのでしょうか。食卓の器具
「金谷家」の夕食も、純和風のものだったようです。夕食は膳にのって来た。膳というのは高さ六インチの小さな食卓で、金の蒔絵がしてある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.99 より引用)
ちなみに、茶碗は九谷焼のものだったのだとか。この様子だと、出てくる料理も純然たる和食だったのだろうなぁと思わせます。さすがのイザベラもタンパク質が恋しくなったのか、私は御飯とお茶つきで二部屋借りて一日に二シリング払う。伊藤は私のために食糧を探し、ときには一羽一〇ペンスで鶏を手に入れる。鱒の一皿が六ペンスで、卵はいつも一個一ペンスで手に入れることができる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.99 より引用)
時折、鶏や卵を仕入れていたようですね。食材を持ち込んで調理して貰っていたのでしょうか。イザベラは、金谷家での体験を次のように結んでいます。
個人の家に住んで、日本の中流階級の家庭生活の少なくとも外面を見ることは、きわめて興味深いことである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.99 より引用)
日光の金谷家での経験は、とても快適かつ趣に満ちたものになったようですね。www.bojan.net
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