2014年11月3日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (40) 今市(日光市) (1878/6/12)

 

引き続き、1878/6/10 付けの「第六信(続き)」(本来は「第九信(続き)」となる)を見ていきます。

人形の町

イザベラ一行は、現在の東武日光線沿いのルートである「例幣使街道」を北上し、ようやく今市に到着しました。例幣使街道はここ今市で日光街道と合流しています。

今市は二つのりっぱな街道の合するところで、長い坂道になっている町である。そこでは、山の澄んだ水流が石造の水路に囲われ、切って作った石板が渡してあり、町の真ん中を流れていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.91-92 より引用)
イザベラさんの「今市」の第一印象は、なかなか良いものだったみたいですね。しかし……

町にはあまり人馬も通らず、退屈なところのように見える。あたかも、下方の並木道と、上方の神社の堂々たる姿に圧倒されたかのようであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92 より引用)
うーむ……。まぁ、これは時代背景を考慮する必要もあるのかもしれません。日光と言えば東照宮、東照宮と言えば徳川家ですが、徳川家が政権を返上し、更には一部の「支持者」が「朝敵」として追討されてからそれほど間もない時期だったので、日光街道が寂れつつあったのはある意味当然だった、とも言えそうな気がします。

ただ、今市の宿場町が活気を失いつつあったのは、言い方を変えれば「静寂を取り戻しつつあった」ともなるわけで……

しかし静かな宿屋があって、私はそこで一晩ぐっすり休息することができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92 より引用)
イザベラさんは、三泊目にしてようやく安眠を手に入れたのでした。ただ、

もっとも、私のベッドはほとんど床まで落ちそうになったが──。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92 より引用)
不満が全く無かったというわけでも無さそうでしたが……(汗)。

翌朝、イザベラ一行は日光に向けて出発します。

私たちは男体山の前山に入っていた。高さは一〇〇〇フィートであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92 より引用)
1000 フィートは 304.8 メートルですが、今市の市街地がおよそ海抜 400 メートルほどの場所にあるので、つまりは海抜 700 メートルほどの山に向かっていたことになるのですが……

山の姿は険しく、頂上まで森林が続き、たくさんの奔流が騒がしく音を立てていた。鉢石の長い街路は、急な屋根と深い軒のある家が並び、暖かい色彩の町であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92 より引用)
「鉢石」というのは、日光市内の地名で、現在も「上鉢石町」「下鉢石町」といった形で名前が残っています。街道沿いの町で、東照宮からもほど近いところなのですが、このあたりは海抜 600 メートルに近いのですね。つまり、今市から日光に街道に沿って移動するだけで、実は結構な山登りをしていた、ということになるのです。

その険しい道路には、ところどころに階段があり、スイスに見るような美しさがある。町へ入るときは、車から降りて歩かなければならない。人力車は引きずって階段を上げるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92 より引用)
街道に階段があるというのは、ちょっと俄には信じがたい部分もあるのですが、考えてみれば江戸時代には「クルマ」(人力車)という文化は無かったので、馬と駕籠が通行できればそれで良かった、ということなんですね。

日光でも、イザベラはいつものように、人々の好奇に満ちた視線に晒されることになります。

人々は外に出てきて外国人をじっと見つめる。外国人を見るのは珍しいことだと思っているようである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.92-93 より引用)
ただ、それは必ずしもイザベラが日光を訪れた最初の西洋人だったから、では無かったようです。イザベラの記すところでは、ハリー・パークス卿が 8 年前に日光を訪れていたのだとか。

実は一八七〇年(明治三年)サー・ハリー・パークス夫妻は、西洋人として初めて日光を訪れることを許可されて、その御本坊に宿泊したのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)
街道筋の店については、次のように記しています。

それは人形の町である。低くて小さな家にはりっぱな畳が敷いてあり、すばらしく清潔で、凝りすぎるほどきちんとしており、軽くてきゃしゃなものだから、靴を脱いで家の中に入ったのだが、「陶器店に入った牡牛」(はた迷惑の乱暴者)のような気持ちであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)
イザベラにとっては、小柄な日本人にぴったりのサイズの建物は、まるでミニチュアの家のように思えたのでしょうね(これが「日光江戸村」の感想だったら笑えるのですが)。ただ、「人形の町」という表現は、そのサイズがコンパクトであるだけではなく、華奢な造りでありながら細かなところまでしっかりと作り込まれている点を評してのものだったと読み取れます。

そこには、山の静かな雰囲気が漂っている。たいていの店で売られているのは、特産品、漆器、黒豆と砂糖で作った菓子の箱詰め、あらゆる種類の箱、盆、茶碗、磨いた白木作りの小卓、その他に木の根から作ったグロテスクな品物などである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)
このあたりの描写は、まるで現代のものと寸分違わぬようで興味深いですね。最後の「木の根から作ったグロテスクな品物」というのに興味が湧くのですが、これは一体何のことを指していたのでしょう……?(朝鮮人参とかでしょうか)

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