2014年7月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (195) 「嶮淵川・コムカラ峠・安平」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

嶮淵川(けぬふち──)

kene-pet?
ハンノキ・川
kene-puchi?
ハンノキ川・河口
(? = 典拠あるが疑わしい、類型多数)
千歳市の最東部を水源として、西流して千歳川に注ぐ川の名前です。士別剣淵 IC でおなじみの「剣淵町」と似た名前ですね。あっ、これってもしかしてネタバレ……?(汗)

では早速、山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

千歳市東端部の川名。今では千歳川の東支流であるが,昔は馬追沼に注いでいた川である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.53 より引用)
はい、ここまでは問題ありませんね。続きを見てみましょう。

語義は伝わっていないが,天塩川の大支流である剣淵川と似た名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.53 より引用)
……(汗)。もちろん続きがあります。

ケネ・ペッ(kene-pet はんのき・川)か,あるいはケネ・プチ(kene-puchi ケネペッ・の川口)のような名だったのではなかろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.53-54 より引用)
あー、やはり。kene-pet で「ハンノキ・川」か、あるいは kene-puchi で「ハンノキ川・河口」だったと見るべきなのでしょうね。「ふち」の語源が今ひとつ不明瞭ですが、まあ仕方がないでしょう。いかにも良くあるアイヌ語地名といった感じがあります。

シーケヌフチ川の謎

いかに典型的だったかを如実に示す例として、この「嶮淵川」は知里さんの「地名アイヌ語小辞典」にも horka の例として取りあげられています。

B 図: イブリ国チトセ郡チトセ町のケヌプチ川。この川,初めはシーケヌㇷ゚チの名で南西に流れ,途中で北西から来るホㇽカケヌㇷ゚チを合わせ,ケヌㇷ゚チとなって北西に転じ,イシカリ国ユウバリ郡ナガヌマ村のマオイヌマ(馬追沼)に注ぐ。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.31 より引用)
上記引用文中の「B 図」も引用しておきます。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.31 より引用)
さて、知里さんの説明にはまだ続きがあります。

そのことを,古いアイヌ流の考え方に沿うて云えば,マオイ沼から出て行ったケヌㇷ゚チが, 途中でホㇽカケヌㇷ゚チという子をもち,それから先は子持ちだからというのでシーケヌㇷ゚チと呼びかえられるというわけである。シーケヌㇷ゚チは Sí-Kenupchi 〔しィ・ケぬㇷ゚チ〕(親の・ケヌㇷ゚チ)で,訛ってシンケヌフチ(新嶮淵)という字名を残している。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.31 より引用)
なるほどー。いつもながら明瞭な説明ですね。さすがです。

ただ、地図を見ていて妙なことに気がつきました。先ほど引用した図では「シーケヌプチ川」となっていた川が、現在の地形図では「嶮淵川」となっているのですね。まぁ、知里さんの言う「シーケヌプチ川」は「嶮淵川の本流」なので、川の名前が整合性を持つように改めたと考えるのが自然なのですが……。

ところが、「シーケヌフチ川」という川が、現在でも嶮淵川の支流として存在するのですね。南西に流れていた嶮淵川が 90 度流れを変えるところがあると思いますが、シーケヌフチ川はこのあたりで嶮淵川に注ぎ込んでいます。

もしかして、知里さんは地図を読み違えたのかな? とも思ったのですが、明治期の地図を見ると、確かに知里さんの図の通りに「シーケヌツチ川」(ママ)が流れていて、現在の「シーケネフチ川」のところにはコムk……おっと、長くなりすぎたようですので続きは後ほど(汗)。

コムカラ

kom-kara?
どんぐり・取る
(? = 典拠あるが疑わしい、類型多数)
道東道のキウス PA のあたりは片側 2 車線になっていて、遅い車を追い越すことができるようになっているのですが、実はこのあたりは峠になっていて、道東道は大胆に斜面を切り取って進んでいます。

一方で、道東道の南側を通っている一般道は、ほぼ元の地形の上に道がつけられていて、峠の部分には「コムカラ峠」と記されています。この「コムカラ」は、おそらく kom-kara で「どんぐり・取る」という意味だと思います。おそらく kom-kara-us-i あるいは kom-kara-us-nay-pet かも)あたりが下略されたのかなぁ、と想像したりもします。

この「どんぐり」は、知里さんの「──小辞典」によると「ナラやカシワの実」ということのようです。

ちなみに、この「コムカラ峠」を越えて東に下りていくと、ちょうど例の「シーケヌフチ川」と「嶮淵川」の合流点に辿り着きます。改めて明治期の地図を見直してみると……あっ!(実にわざとらしい)。現在の「シーケヌフチ川」のところに「コムカラ川」と書いてあるではありませんか!

正確な事情は不明ですが、何らかの事情で本来の「シーケネプチ川」が「嶮淵川」になってしまい、そして嶮淵川の支流だった「コムカラ川」が「シーケネフチ川」に改名されてしまった、と考えるほか無さそうです。

そして「コムカラ」の名前はコムカラ川河口に向かう峠道に残った、ということですね。コムカラ情勢も複雑怪奇です。

安平(あびら)

ar-pira-pet
片方の・崖・川
(典拠あり、類型あり)
平成の市町村合併で「追分町」と「早来町」が合併して「安平町」が誕生したのですが、この「安平」はありきたりな合成地名や瑞祥地名ではなくて、れっきとした昔からの地名のようです。歴史ある地名を残してくれたのは素晴らしいことですよね(単に安平の集落が追分と早来の間にあったから……だったりして)。

では、そんな「安平」の由来について、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見ていきましょう。

 安平(あびら)
 やはり早来町の字名で駅名でもあるが、字名には支安平(しあびら)下安平(しもあびら)などがある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.67 より引用)
ふむふむ。まだ続きがあります。

もともとは勇払川の支流の安平川(古くはシアビラ川と地図にある)に名付けられた地名であり、語源はアラ・ピラ・ペッで、片側が崖になっている川との意であるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.67-68 より引用)
なるほどー。ar-pira-pet で「片方の・崖・川」なのですね。確かに明治期の地図にも「アラピラ川」とありますし、永田地名解にも

Ara pira アラ ピラ 一面ノ崖 又「アピラ」ト云フ義同ジ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.215 より引用)
とあるので間違いなさそうな感じです。

ちなみに、「支安平」という川名について、更科さんは次のように記しています。

支安平(シアピラ)は安平川の本流という意味であるが、「支安平」としたためか安平川の支流と思われ誤解された。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.68 より引用)
「シアピラ」は、中途半端に和訳すると「主たるアピラ川」という意味なのですが、「支」という字に引きずられて「支流の安平川」と誤解された……という話ですね。そう言えば、さっきの「シーケネフチ川」もいつの間にか支流の名前に *つけ替え* られていましたが、もしかしたら根は同じだったのかも知れませんね。

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